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エッセイ『デタラメだもの』

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デタラメに生きる。デタラメに暮らす。薄暗い世の中をデタラメに生きるための処世術、バイブル。妄想まみれで日常を綴るエッセイです。
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#コミュニケーション

消防車のサイレンがきっかけで始まるご近所付き合い。近隣住民がご近所さんに昇華する瞬間を想う。『デタラメだもの』

救急車や消防車のサイレンが聞こえる。遠くのほうから聞こえはじめたサイレンの音は徐々に大きくなり、すぐ近所まで近づいたかと思うと、ピタッと止まる。 サイレン音は音楽でもエンターテインメントでもないから、リスナーの気持ちを害さぬよう、フェードアウトなどして終幕を迎えてはくれない。いつだってピタッと止まる。音が止んだ瞬間、近隣住民たちは一様に思う。「近くで何かが起こってる!」と。 外ではガヤガヤと近隣住民たちの声が聞こえる。家着のまま、サンダルまがいの履物で玄関先に飛び出す者。

商品を注文する直前に店員さんから、「○○はいかがでしょうか?」と先制攻撃を食らった場合、どのように返答するのが正解なのか?『デタラメだもの』

そんなこと言われたら、どう返答していいのかわからなくなるやん。という場面に出くわすことがある。こっちが悪者みたいになるやん。と感じてしまう場面だ。もしくは、「君、しょうもない人間やねぇ」と思われてしまいがちな場面。 例えば、ドライブスルーに立ち寄るとき。近ごろではスマートフォンのアプリなどに備えられたクーポンが充実しているため、立ち寄る前にクーポン番号を確認し、注文する商品ラインアップを確定しておくのが常だ。コレとコレとコレを頼もう。もう、ワクワクが止まらないね。 ドライ

食べたいものを答えるという自己主張。これは決してわがままなんかじゃなく、相手への配慮だということに気づく。『デタラメだもの』

目上の方から、「飯でも食いに行くか。何が食いたい?」などと問われる機会があったとする。接待を受ける立場になったとして、「何か食べたいものはありますか?」と尋ねられたとする。 そんな折、必ずといっていいほど、「なんでもいいっすよ!」と答えてきた人生。最近になって、その解がなんだか違うのでは? と勘づきはじめた。その気づきを、ひとまずは成長と呼びたいと思う。 言いぶんとしては、こうだ。言うても奢ってもらう立場。ご馳走してもらう立場。自分勝手な我儘は言えまい。他者に代金を支払っ

容姿を褒められれば嬉しいものだ。が、褒められ方によっては、屈折した感情を生んでしまうことも。『デタラメだもの』

他人から見た目を褒められて、悪い気を起こす人は少ないだろう。当然、悪く言われるよりは、良く言われたほうがいいに決まっている。たとえそこにお世辞の類が混ざっていたとしても、だ。 世間的に評価される見た目を持つ男女は、常日頃から、「タレントの誰それに似ていますね」などと持て囃される機会も多いだろう。今をときめく俳優、女優、芸能人、スポーツ選手などに例えられようもんなら、さぞかしその場も盛り上がるはずだ。 はて、自分の人生において、そのような機会があっただろうかと記憶を逡巡させ

相手からのメールの文末が『。』で終わっていると、「え? もしかして怒ってる?」とたじろいでしまうよね。『デタラメだもの』

メールなど文字でコミュニケーションをとっていると、時に「アレ? この人、もしかして怒ってるんじゃね?」と心配になってしまうことがある。よく新人営業マンが上司から、「メールなんかでやり取りしてんじゃねぇ! 電話でやれ電話で! 電話のほうが相手の声のトーンだったりテンションだったりが掴めるだろ? そうしなきゃ新規案件なんて穫れるわけねぇだろ、バカッ!」というアレである。 だからといって、電話は電話でいろいろありまして、「いきなり電話かけちゃうけど、迷惑じゃないかしらん。今現在、

アーティストのライブ中のMCをはじめ、スーパーの畜産チーフの異動の場面にまで潜む、周囲との温度差がもたらす違和感とは?『デタラメだもの』

大阪に住まうコピーライター界の巨匠と、夜な夜な酒場で呑んでいる際に、「こういう時って、すごい温度差感じるよね」という類の話になり、そういえば昔からそういうこと感じてたなぁ、と積年のモヤモヤが晴れたような気分になり、意気揚々と帰宅した後、ポケットに入れていた2千円を紛失していることに気づき、ワンワンと泣きじゃくったあの夜。 そんなことよりも、何に温度差を感じるのかっていうと、ライブなどを観に行った際に、ステージ上のアーティストが叫ぶMCの言葉の数々に温度差を感じるというわけで

道案内に隠されたさまざまな物語。滅私奉公の精神で目的地まで案内して差し上げる勇姿をとくとご覧あれ。『デタラメだもの』

ふと自分の人生を思い返してみると、やたらと人から道を尋ねられることに気づいた。当の本人としては、人と違った生き方をしたいと、はみ出し者の生き様を貫いていることから、常に変顔をして道中を移動するなど、奇をてらった行動を演出しているつもりが、どこか朗らかなムードを醸し出してしまっているのだろう。老若男女、特にシニアの方々に道を尋ねられる機会が実に多い。 こうも道案内に精通してしまうと、前方十数メートル先にいらっしゃるシニアの方が、道を尋ねるべくこちらに寄ってくるだろうことを事前

「大丈夫です」という言葉は日本人らしく曖昧で主張もボヤかされていて便利な反面、いろいろな問題も孕んでいて多用は禁物だ。『デタラメだもの』

意思表示というものはとかく難しいもので、特に相手方が良かれと思ってやってくれている行為を拒むときなんかは、日本人元来の明確に意思を表示しない性分が発動し、あやふやな空気が漂う。そして、そのあやふやな空気の中で多用される言葉こそが、「大丈夫です」というフレーズ。 例えば相手方が良かれと思って何らかの物品を提供しようとする場面がある。1対1の場面で提供されるともなれば、さすがにその物品を不要だと感じていたとしても、「あっ、ありがとうございます」と、きっとそれを受け取ることだろう

人間関係には年相応な会話のテーマというものがある。年相応のレールを逸脱してしまった挙げ句に待っているのは、会話のない孤独な世界。『デタラメだもの』

先日、御年80も半ばのご老人と会話をする機会があり、なるほど80も半ばの方にはその年齢なりに年相応な考えるべきことがあるのだなあと、少しく人の一生を想ふ時があった。 やはり年代ごとに考えるべきことも異なるだろうし、そうなると年代ごとに会話のテーマというやつも異なってくるなと、蕎麦をすすりながら会話の話題というものに思考を巡らせてみた。 幼き頃の会話と言えば、そりゃ目の前の事象について盛り上がるのがほとんどだわな。昨日のテレビの話題だったり、下校後に何をして遊ぶのかだったり