第二の故郷
私には第二の故郷がある。
日本のなかでも最西に近い島、西表。
そんな島の干立という集落のとある民宿で2ヶ月間住み込みで働かせてもらったのだ。
その当時、私は大学を休学し
学業もバイトも疎かで
いわゆるモラトリアムの中にいた。
季節は冬。一月、年明けのころ、
SNSで書かれた自分への批判的な言葉に傷心していた私は、
住み慣れた東京の空気にうんざりしていて、
どうしても南の島に行きたかった。
暖かいところに行きたい。
そんなことをその頃会った友達に話していたような気がする。
「年賀はがきのお年玉あるじゃん、あれ一等現金30万円だって!
あぁーー当たらないかなぁ〜」
「当たるわけないよー笑笑」
「当たったらさ、南の島に行きたいんだよね!
早く寒い東京から逃げ出したーい」
アホすぎて笑えない。
そんなこんなで年賀はがきお年玉は1枚もかすらず、バイトもろくにしていない私は自費で旅行なんて行けるわけもなく。
何を思ったか「西表島の民宿でバイト」
を決行する。
それまで飛行機に乗ったことがなく、
空港にも数えるほどしか行ったことない私が、
まさかの成田発のLCCに搭乗。
4時間ほどのフライトを経て
「南ぬ島(ぱいぬしま) 石垣空港」に降り立った。
最初の印象は…「暑い!」
暖かいを通り越した。
空港からバスと船を乗り継ぎ(船も初体験)
西表島の上原港に無事到着。
そこからまたバスに乗り
お世話になる民宿へ
ここまで10時間弱の長旅である。
次の日から仕事が始まるのだが、
朝は6:30起きで朝食の準備、
そのあと8:30ごろ自分たちもご飯を食べて
正午まで客室等の清掃、
そこから昼休憩で、
17:00から夕食の準備、
21:00に終業、
賄いを頂き、シャワー浴びて寝る
これが毎日である。
そのころ、その民宿は雇われスタッフが私しかおらず、週一以上もらえるはずの休みがなんだかんだもらったようなもらってないような感じになり、かなりキツかったのを覚えている。
とある週末、「やまねこマラソン」という一大イベントが開催され、満室御礼の中、
入って5日間働いたかどうかの私は
とにかくあたふたテンパってしまい、
緊張もあったのかパンクしそうになる。
マラソン大会のあとは決まって島の中心部でパーティーが行われ、マラソン参加者の交流、出し物、舟盛り、地元の方々による屋台など、
なんともにぎやかな夜が待っている。
女将さんに行ってきたら?といわれたけど、
話す相手もいない中で悩んでいたのを見かねた
とある常連さんが、
「一緒に行こうよ!」
と声をかけてくださった。
たぶん疲れた顔が見えてしまっていたんだと思う。
誘いに応じた私は、とても楽しい思いをさせてもらい、美味しいご飯とお酒をたくさん頂き、元気になった。
たくさん笑ったし、たくさん話した。
さてそんな楽しいイベントも終わり、また日々に戻っていくのだが、
ここで私の物覚えの悪さが露呈する。
仕事を覚えられない。
少数でやっていく中で、致命的である。
落ち込んでしまった私はベッドから出れず不甲斐なさに苦しみ、
大きな迷惑をかける。
そんな私を見捨てずに助けてくれた女将さん。
かけられた言葉は書ききれないが、
私が仕事を覚えられないばかりに勝手に悩んでいるのに、
親身になって相談に乗ってくれたこと、
そしていつも変わらないで接してくれたこと。
次第にそんな女将さんに恩返しをしたいと思うようになった私は、どうしたらもっと早く正確にできるかを考えるようになった。
そして3月の半ば、再び試練がやってくる。
団体様のご予約である。
1週間ほどの滞在で、本当に休む暇なく動かなければならず、
私も少し疲れを感じていた頃、女将さんがこう言った。
「明日一日休んでいいよ」
「え、休んだら、他に誰かやってくれるの?」
思わず返したら
「いない」と言う。
沖縄には、「ゆいまーる」という言葉がある。
ざっくり言うと「助け合い」のような意味らしく、
私がダウンしていた時、テレビCMで何度もその言葉が流れていた。
「いいよ、出るよ。ゆいまーるって言葉があるじゃん。助け合いってことでしょう。そうしようよ。」
自然に出た言葉に女将さんはびっくりしていたが「ありがとう」と言われた。
そして次の日もその次の日も働き、
団体様は楽しそうに帰って行った。
3月の終わり。
西表はもう暑い。
私の使っていた部屋はちょうどよく海が見える。
青く透き通った海。
夏以外にそんな景色が見れるところ。
そこをもうすぐ私は離れる。
東京に残してきたたくさんの課題に向き合う心の準備はもうできた、と思った。
この海のそばで、私は強くなった。
あれから4年経ち、母になった私は
次は家族であの海を見に行きたいと、
この写真を見るたびに思うのです。
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