寺山修司墓参記

 5月4日にぽっかりと時間が空いたので寺山修司の墓参へ赴いた。これまで何度か寺山の墓へは訪れている。日記を調べると2014年6月1日、2010年10月29日とあったので10年ぶりとなる。14年は友人と一緒だったので、墓の前で写真を撮った時、ガラケーを使っていたのを思い出す。
 寺山の詩篇「懐かしのわが家」は“昭和十年十二月十日にぼくは不完全な死体として生まれ何十年かかゝって完全な死体となるのである”の一節から始まる。寺山が“完全な死体”となったのは1983年の5月4日なので、今回は初の命日の墓参となった。
 寺山の墓は高尾霊園にある。駅から伸びる細い1本道を20分ほど歩くと、斜面にびっちりと墓石が並ぶ場所へ到着する。区画の案内板に寺山の墓の場所はしっかりと記されているので迷いはしない。
 都心から高尾までは1時間はかかる。中央線ではなく料金の安い京王線を使ったのでさらに時間がかかった。行きの電車内では『われに五月を』(ハルキ文庫)を読んでゆく。寺山の文庫本はまとまってそろえているのだが、通して読めないままだ。『われに五月を』は寺山が22歳で出した作品集で、詩、短歌、俳句、そのほか散文などが収められている。2000年代はじめに、単行本版をブックオフの100円棚で見つけたのだが、なぜだか買わなかった記憶がずっと残っている。
 寺山の墓参をしていると、白髪にハットをかぶり、Tシャツを着たおじさんというかおじいさんが向こうからやって来た。首から大きな一眼レフのデジタルカメラを下げており、墓の前で写真を撮ってくれという。カメラはオートフォーカスがなかなか合わないボロいものだった。40年間、毎年命日にやってきて墓の前で記念撮影をしているのだという。J・A・シーザーを「じぇい・えー・しーざー」ではなく、きちっと「ジュリアス・アーネスト・シーザー」と発音していた。
 ふいに寺山と唐十郎の話になり「2人って仲悪かったんですか」というベタな話になった。いぜん、菊地成孔と山下洋輔のトークショーで、山下が「僕は唐さんの状況劇場に草鞋をあずけたので寺山さんの天井桟敷の人々とは付き合いがない」と話していたので、派閥はしっかりとあったのかと私が訊ねると、おじさんは「そんなの勝手に言ってるだけだろ。唐さんは寺山さんのことを尊敬していたんだから」と言う。おじさんは年齢が70代後半なので、高尾駅からここまで歩いてくるのも一苦労だという。写真を撮り終えると、そのままゆったりあと歩いて去ってゆく。まさか、このあとに唐十郎の訃報を知るとは思わなかった。
 おじさんはこの前は忌野清志郎の墓へも立ち寄ってきたと言う。2人が同じ墓所に眠っているとは知らなかった。高尾駅から霊園まで歩く途中、若い女性とすれ違ったのだが、彼女は清志郎ファンだったのだろうか。
 清志郎の墓は寺山よりも高台にある。教えてもらった通りに向かうと、バンが乗り付けライブハウススタッフ風の男女が歩いていくので、同じ目的なのだろうと思う。2人が戻ってくるのを待って墓参を行う。墓の脇にはギターを弾き続ける兄ちゃんというかオッサンが一人いた。無数の酒と花が供えられている。小さな観音扉を開くと、線香とタバコの供え物は控えるよう記されていた。
 寺山の名を知ったのは高校生の時に『驚き桃の木20世紀』(朝日放送制作・テレビ朝日系)で取り上げられていたからだ。この番組は『知ってるつもり?!』(日本テレビ系)に連なる教養バラエティ番組だろう。関口宏司会の番組では半年で終わってしまった『女神の天秤』(TBS)も好きでよく眺めていた。取り上げるテーマは犯罪であるが、犯罪者の来歴を追ってゆくため、その作りはどうしても犯罪者の情状酌量の余地を感じさせるものとなる。最終回では永山則夫が取り上げられ、そこで私は永山の名を知る。調べると最終回は1998年3月11日であり、永山の死刑執行は前年の97年の8月なので、半年で番組が組み立てられていたのかと驚く。最後に永山の弁護を担当していた遠藤誠の存在と風貌もこの番組で知った。『所さんの20世紀解体新書』(TBS系)といい、90年代末には良質なテレビ番組が存在した。いま90年代、特に1995年以降のテレビ番組が振り返られる時、おそらく語られるのは「めちゃイケ」と「電波少年」なのだろうが、その他にも良い番組は無数にあった。
 寺山の映画『田園に死す』を初めて観たのもNHK-BS2だ。90年代には唐十郎が主演と脚本を務めた台湾が舞台の映画『海ほおずき』も流れていた。本作の監督は林海象で、ほかにも林ワークスが特集されており、高知の美術館が作った『ちんなねえ』まで流れていた。ある時期のNHK-BS2はちょっとしたアート系ミニシアターの様相を呈しており、平日夜には若者向けの生放送情報番組『真夜中の王国』もあった。同時期には『トゥナイト2』(テレビ朝日系)や『ワンダフル』(TBS系)もり、(サブ)カルチャーにお金が流れる文化的余裕があったのだと感じさせる。
 『驚き〜』で寺山の名を知り、通っていた高校のある街の古本屋で角川文庫で出ていた『家出のすすめ』『誰か故郷を想はざる』を買った。地方都市の古本屋に寺山の文庫本が並んでいる光景は、今となっては遠いものになってしまったように思う。
 寺山に関する思い出といえば、大学2年時に1年生を装って参加した新歓コンパで岩手県出身の人と知り合い、のちに彼とは親しい友人となるのだが、そのきっかけが寺山だった。寺山は職業・寺山修司と言われるほど多彩な活躍を見せるが、その一つに競馬評論家の仕事がある。これは映画監督、歌人、俳人と並ぶ重要なポジションであるといった話で盛り上がった。私は競馬はやらないのだが、この話をずっと覚えていたので、寺山の競馬エッセイは買うようにしている。
 あとは渋谷の本局に併設されていたNHKアーカイブスで眺めた映像に寺山修司の競馬ドキュメンタリーがあった。NHKを訪れた際、ゾマホン・ルフィンを目撃し、こちらが気づくと、向こうから握手をしてきたので、ずいぶんと気さくな人だと感じた。
 寺山の実験映画もレンタルビデオ店で借りて、120分テープに3倍モードでダビングした。このあたりの記憶は以前「寺山修司との再会/「ローラ」「審判」鑑賞記」に記した。
 画面に無数の釘が打ち付けられる寺山の実験映画「審判」は、最近国立映画アーカイブに所蔵された。京橋の小ホールでの上映を見に行ったのだが、フィルムだけでなく、板のスクリーンと釘打ちまで行われた。上映後の釘が打ち付けられたスクリーン、あるいは白い木の板は撮影禁止だった。自身の映画が国立の施設に取り込まれたことに、寺山は何を考え、何を言ったのだろうかとは気にかかる。国立映画アーカイブに所蔵されたフィルムはしかるべき適切な環境で半永久的な保存が保障される。ただ、それと引き換えに個人が映画を私有/専有する権利は放棄せねばならない。
 吉川孝『ブルーフィルムの哲学: 「見てはいけない映画」を見る 』(NHK出版)では、著者が関係者を通じて入手した「土佐のクロサワ」と呼ばれる製作集団が手がけたブルーフィルムを映画アーカイブに寄贈した記述がある。保存はなされるが、内容の性質上、上映は不可能だろう。日本初のアダルトアニメとされる『すヾみ舟』も同じ境遇にある。それでも寺山の実験映画に映る男性器は国立映画アーカイブではそのまま流れていた。大島の『愛のコリーダ』はボカシ入りのものだった。ピンク映画も女性専用席を用意して上映されている。上映可能/不可能の基準についても突き詰めるべきではないか。
 『われに5月』の文庫本は少しの分を残してまだ読み切れていない。寺山の文庫本は厚みがない(それは物理的にもだが、内容もそうだろう)。エッセイや詩はもちろんのこと、短歌は俳句はなおさら顕著だがすべてのテキストが短く、断片の集積から成り立っている。その分、寺山的なものは広く浅くサブカルチャーやアンダーグラウンドに浸透している。村崎百郎の「ゴミ漁り」行為の源流には寺山の深夜徘徊がある。
 短いのだからいつでも読める(はず)と思いつつ、でずいぶんと時間が経ってしまった。寺山の始まりとなる作品を命日に手に取ったのだから、やはり残る本も読んでゆかなけばなるまいと考えている。
 

 

 

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