矛盾してる、と言われましても。
文章を書いていたり、セミナーをしていると
「この前こう仰っていたのですが、今回のお話と矛盾するように感じるのですが…。」
と言われることがたまにある。
さらにいうと、自分で書いていても
「うーん、結構前の主張と矛盾するとか言われそうだな〜。」
と思うこともある。
主張に対して、矛盾することをものすごく嫌がる人は一定数いる。
おそらく、その人は
『考え方の土台というのは一つであるべきだ。』
という思想を持っているケースが多い。
かなり真面目だ。そして、混乱に関して弱いタイプだと感じる。
世の中が単一なゲームであれば、矛盾というのはあまり生じない。しかし人間というのは違った局面に出くわし、その場その場の対応をしていかなければいけないことが頻発する。
なので、今回の「場」というものがどういう状況なのか、どういう合意形成がされているのかを確認することは、物事を理解する上で必須であると言える。
同一な人間からの主張というのは、確固たる信念体系からきていると無意識に思ってしまう。
しかし、人間の論理性というのは実は後天的なものだ。
だから「人間」という生物そのものに論理性を求めるのはもはや真理の探求に近い難しさがあり何千年も今の所、矛盾しない答えというのは出ていない。
生物学的に人間というのは「種の保存」の観点から行動している!という主張があるとしてもそれこそが論理のこじつけになってくる。
なぜならば生物によって生存戦略というものは変わるわけだし、種の保存の戦略は多様性にあふれている。
つまり、基本的にはカオス、混沌としているのだ。
その中での論理性というのはほぼ、社会性と同一だ。つまり論理的である=ある種の社会性に対して受け入れができる人間ということでもある。
私は「収入を得る」という方法の 2.3の方法に対してはかなり詳しいと自負するが、その2、3の方法でさえ矛盾し合うことが多い。
それはなぜならばというと、「収入を得る」という行為自体が人間社会のある部分において価値があることをすることのリターンとしてくるので、人間そのものが個々によって矛盾するから当たり前なのだ。
つまり真面目に考えても答えは出ない。だからと言って真面目に考えるな!というわけではない。むしろ真面目に考えろと言いたい。
真面目に考えることによって、差異がわかるようになる上にロジック自体の解明ができることもままある。
だから矛盾について考えるのはとても本人の進化に対して合理的な行動だとも言える。しかし、自分の信念の正しさを主張するものになってしまうと、それは合理的とは言いづらい。
柔軟に、生真面目に生きるという矛盾を受け入れることこそが人間社会を生き抜く最大のヒントではないかと思う。
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