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心を揺さぶり起こす覚醒の映画【劇場版鬼滅の刃無限列車編ネタバレ感想】

 私はこの映画に何を感じるかを、煉獄さんから問いかけられているように思えてならないのです。

 アニメ26話を通してみていると、炭治郎には幾度も幾度も壁が立ちふさがるっていたのが分かる。妹を助けるために強くなり、強くなる最後の試練で自分以上に強い錆兎と戦い、それをも上回る手の鬼と死闘を演じる。その先には異次元の扉使い、鞠と↓→↑←、元下弦の鼓、下弦の鬼。全員最初に会敵した時点では、炭治郎だけで勝つことの出来ない難敵ばかりだった。

 重傷の体を休ませる間はあったが、修練に励む余地はなく蜘蛛のいる山。妹と共に下弦の伍を倒したかに見えたが、これも最後の最後で回避されていたため、助太刀に入った義勇さんなしには負けていた。

 結局のところアニメ版で炭治郎は、自分だけで捥ぎ取る勝利をまだ一度も成し遂げていない。そんな彼が神経を研ぎ澄ませて体得した全集中の呼吸常中。これによって大幅なパワーアップを成し遂げ、劇場版の無限列車編に繋がる。だがここの敵は特殊能力に全ての力を振った鬼と、特殊能力以上に身体能力が想像を絶する鬼だった。

※ここより先ネタバレあり。まだ映画を見ていない人は、アニメ26話を見た上で映画に赴き異例の速さで100億に達した理由をその身で感じてほしい。正直この記事を読む読まないは本当にどうでも良いから、今すぐ映画を見てほしい。私は結末まで原作で知っていた。そのうえでボロボロ泣いた。

本作はアニメ鬼滅の刃を見ていなくても楽しめる

 100%楽しめる理由としては、本作が【列車にいる鬼を倒す】という筋道で成り立っており、奮闘する3人+鬼1人+超強い炎の人という漠然としたイメージだけでも最後まで理解することが出来るよう工夫されているからです。主人公含めた3人は序盤を盛り上げ、最後の最後に出陣する炎の人こそ、この映画の真の主役なのです。

 真の主役こと、煉獄杏寿郎(れんごくきょうじゅろう)はアニメ本編でもほとんど台詞がありません。彼という人物を最も理解できるのが、まさしく無限列車編なのです。故に煉獄さんという人物の凄さ、柱の戦闘力、上弦の鬼の強さ、主人公の心境変化などはアニメ本編を見ていなくても何となく理解出来るため、100%ありのままを楽しめます。

 但し、200%楽しみたい場合には当然鬼滅の刃を原作履修、ないしはアニメ本編視聴が必須になります。善逸の深層心理領域が何故あそこまで漆黒なのかも、見ていればなお一層理解が深まります。

 悔しい思いをする主人公に私たちも悔しい思いを重ねられます。そういう気持ちを乗せることによって生じるバイブレーションが、一際感動に拍車をかけるのです。

 もしも映画視聴後にアニメが気になる方は、アマプラでもネットフリックスでも何でもいいので、見る事をお勧めします。

下弦の壱 魘夢(えんむ)は善逸が天敵

 人の心を玩弄する術も、揺さぶりをかける為のやり方も心得て居る。戦闘能力は下弦の伍であった塁よりも弱く見えるが、物理攻撃の強い塁とは真逆で、精神攻撃と初見殺しに長けているので、本来対策なしには全滅必至の極悪な強さです。

※塁の切れ味抜群の糸も初見殺しに近いですが、恐らく炭治郎なら躱すか受けているかで回避出来る。

 そもそも、普通なら眠らされた時点でアウト。敵の腹の中で全員眠りこけてしまった瞬間、何人か殺されていてもおかしくない。しかしその場合常時眠り続ける=無限覚醒状態の善逸によって一方的に倒される可能性があるので、善逸は魘夢に対してメタ的な存在と言えます。

 彼一人では列車と融合を果たした魘夢を倒しきることは出来ませんが、逆に魘夢も列車と融合=既定路線を進むか脱線するしかない状況なので、朝まで消耗戦を行い日の光で消滅させることも可能です。

 精神の核を壊すという方法も、無意識領域が視界領域0で息詰まるほどの漆黒。夢を操作して悪夢にしても起きることが出来ないので、魘夢一人では善逸に勝つ方法がない。よもや起きている時の方が弱いなんて想像もつかない事態だろうし。

ありふれた光景こそ幸せだと知る

 炭治郎の家族が皆息災で、餅や山菜などで一喜一憂したり、兄弟喧嘩があったりする光景。映画からの視聴者と、アニメ・原作を知る視聴者では、心の奥底を震わせる力が桁違いだ。二度と戻れない光景と分かっているから、炭治郎が刀を捨てて飛び出す理由もよくわかってしまう。アニメ本編履修済みの私はどうなったか? 言うまでもなく涙ぐんだ。

 それでも水面(境界線)を覗き込んだとき、自身の心が「起きろ」と叫ぶ。次第に自分自身の事を思い出し、家族を捨ててまで修羅の道へ行かねばならない。最後に引き留めようとするのは、鬼にならなかった禰豆子。ここで私は再度涙ぐみ、「ここにいたい」と吐露する炭治郎が追撃で、涙が溢れた。決意の元、家族を背に走る炭治郎。「おいて行かないで」と涙ながらに駆け寄る六太で涙が更に溢れる、耐え切れなかった。

 炭治郎は元々ただの少年だった。ここまで強くなった根底にあったのが、家族との絆だと知っているから、このシーンは恐らく何度見ても同じように泣いてしまう。竈門炭治郎のうたを脳内再生などしようものならここだけで満足してしまいかねない。

 私たちにも概ね家族がある。仲の良い悪いはともかくとして、この世で代えの利かない家族がいる。失った家族に対して「たくさんありがとうと思うよ」と心でいい残し去る炭治郎は、家族との別れ方の一つを示した。喪失後のやり切れない想いを、感謝で締めた。いずれ私たちも誰かを失った時、そういう気持ちでお別れをしたいものだと思った。

夢を見たい者たちとの戦い

 魘夢の配下(子飼い)は鬼ではなく人間。与えられた針で対象を刺し殺すのではなく、対象の夢の中で精神の核を壊すという回りくどい殺し方をする。それは魘夢曰く「万全を期すため」とあるが、8割方愉悦趣味を満足させるための行為だと思う。

 それぞれが夢の中に入るが、侵入した先の夢はいずれも破壊が困難だ。炎渦巻き肌も乾くような灼熱の大地。一寸先すら見えない暗黒の空間でシザーマンに襲われる。縦横無尽な洞窟内で追いかけまわされる。

 そして澄み切った空と海のような心に入れば、障害物など何もないのに、あまりにも優しい世界観に泣き出してしまう。更には心に当てられて浄化される。起きた時に(浄化された人以外の)彼らは物理的な戦闘を仕掛けるがあっさりと返り討ちにあってしまう。

「鬼に魂を売った卑怯者」と誹るようなことはしない炭治郎。人間を誑かして意のままに操る卑劣と、鬼に対する怒りを燃やします。そんな鬼の配下である運転手は、唯一隙を見せたとはいえ炭治郎の腹に一撃、針で刺すことが出来ました。彼らも守るべき人間であることで炭治郎は報復もしません。

 むしろこの負傷に感謝することになる。何故ならこの怪我があったから、上弦の鬼登場時に加勢に行くことが出来なくなった。炭治郎の性格からして倒せるようなそぶりを見せればすぐさま斬りに行く。それが罠だと気付いたころには頭が吹っ飛んでいる。弱くても頑張ると、これまでとはまるで違う無謀な事をしてしまうかもしれない。

 そしてこの怪我があったから、煉獄さんより止血方法の修練を受けることが出来た。様々な事を教えてくれた煉獄さんだが、具体的なスキルを教えてくれたのは唯一これのみ。

煉獄さんの生き様

 テレビなどのインタビューでも散見される「彼の生き様」に涙する方々。後輩を思い、守り、責務を全うし、死に様に至るまで1人の人間として誇り高く立派だったのが理由なのは明らか。

 バリバリ動いて真正面から強敵と対峙し、寸分狂わぬ剣技と苛烈な火焔描写が映画館を熱狂の渦で包む。それはまさにジャンプ漫画の名に恥じない、男の子の心を揺さぶる白熱のバトルだった。しかしただバトルばかりが魅力なのではなく、その合間合間に差し込まれる彼の人となりが分かる主義主張等がたまらなく人間賛歌していてグイグイ彼という人物への好感度を高めていく。

 もっと煉獄杏寿郎という人間の姿を目にしていたい。もっと彼の活躍が見たいと思わせる程高まるころ、好感度の絶頂で、彼は死ぬ。

 連載当時、死ぬ前に、鬼に対して煉獄という男の偉大さを敵の背に叫び続ける炭治郎で私は当然泣いた。映画になるとそのシーンがパワーアップなんて生易しいレベルの強化を施されており、握り拳と涙が溢れた。

 煉獄さんの死ぬときの笑顔がたまらなく綺麗で、母からの言葉でも泣く。エンドロールで、「ああ、これは彼の映画だったのだ」とハラハラ涙が溢れた。何回泣いてるんだよって話だけど、泣けるもんは仕方ないでしょう!?

次から次の大きな壁

 この記事の冒頭でも言った通り、炭治郎の目の前には幾度も壁が立ち塞がる。その度に負けそうになるし、それを上回るべく鍛錬に勤しんだりもしている。巨大な瓢箪を割れる程肺活量も鍛え抜かれ、常時全集中の呼吸も出来るようになっていた。

 しかしそれだけの努力を重ねても、煉獄さんの助太刀をするには実力がまるで足りない。それを、亡骸となった煉獄さんを前にして泣きながら悔しいというシーンは、悩み生きる人の心と完全にリンクしていた。

 自分なりの頑張りでは届かない。限界の努力でも足りない。そんなの誰にだってあることで、炭治郎という人物は誰でもぶち当たる強固な壁を頑張りと努力で潜り抜けた不屈の男子なのだ。そんな彼でも届かない歴然とした強者との壁。

 悔しい思いと慕うべき者の死に涙する中で、伊之助は炭治郎に叫んだ台詞は全て名言だ。炭治郎の弱気に私も沈んでいこうとする中で、引き上げられるような思いだった。決して救うなんてものじゃない。ただ、同じ壁の前に連れてこられただけなのに、その壁を、越えねばならない壁を何とかしてやろうという気持ちになる。諦めの心が消し飛んでいく。人の死が、若い芽を覚醒させた。私たちの心もそこで前向きになるのだ。

 そんな気持ちでエンドロールになり、最早耐えられんかった。

映画は何故幾度もリピートされるのか?

 先に述べたように、煉獄という男の生き様を見て、「もっと彼の活躍を見たい」と思う方にとって彼は既にこの先の物語に、回想や特別な事例を除き登場はしないと分かっている以上、そして過去放送されたアニメ本編でも出番がかなり少ない以上、

 映画を見て煉獄さんを補給するしかないのだ。

 映像美があるから? 物語が素晴らしいから? バトルシーンが凄いから? そんな映画は鬼滅以外にも沢山あったが、同じように時刻表並みの上映スケジュールでやっても恐らく100億に届きはしないだろう。

 史上最短で興行収入100億円に届き、先日150億円を超えて日本公開の映画興行収入ランキング10位に入ったとされる。その理由に、煉獄さんがある。

前向きになれる映画

 人の死で締めくくるのに、悲壮感よりも充足感で立てなくなる映画。そして明日を生きていく私はこの映画を見る前と後とで、抱えた問題に対する姿勢が様変わりした。生きていくことで命と心を燃やしていく。戦ってやるんだと思えた。道徳的な要素を多分に孕んでいるにも拘らず、説教臭くなく体の奥底に染み渡らせるこの映画は、単なるエンターテインメントで片づけるのは違う気がしてならない。

 今度はアイマックス上映を見たいけど、まだまだ席の埋まる日は続きそうだから辛抱の呼吸をするしかない。それではこの辺で。

サポート1人を1億回繰り返せば音霧カナタは仕事を辞めて日本温泉巡りの旅に行こうかなとか考えてるそうです。そういう奴なので1億人に到達するまではサポート1人増える度に死に物狂いで頑張ります。