Vtuber綾瀬川晴美の復活 第6話『ママと運営』

特別な人生を歩んだわけではない。
特別な人に出会ったわけでもない。
そんな小学校、中学校、高校と、何不自由なく育っていた。

ところが、彼女には何か、ハマり込んで、熱中する物が何一つなかった。

Vtuber綾瀬川晴美になる前の彼女は、どこにでもいる普通の少女だった。

普通の少女のお話

少女は体を動かす事が大好きだった。毎回体育の成績は高水準で、運動会や体育祭ではエース的存在であった。

勉強は少々苦手だった。本を前にすると5分程度で椅子から立ち上がり、そのまま遊びに行ってしまう。

この子が好きというのはなかったが、中学卒業まで、告白された男子とは何度か付き合ったことがある。自分のことを変えてくれる何かの出会いを期待していたのだが、積んだ人生の量は彼女と同じく浅いため、刺激はなくすぐに破局していった。

少女が高校生に上がったころ、よい体つきも声の低さも、男子を凌ぐ運動力も備えた彼女は、女子からの羨望の的だった。よくラブレターを貰い、告白もされた。「これはこれで新しい世界が見えるかもしれない」ということで何人かと付き合った。だが、年頃の少女たちから得るものは殆どなかった。皆一様にファッションと流行とドラマに明け暮れていて、目まぐるしさはあったが新鮮味はなかったのだ。

女子との恋愛も出来る奴という事で校内では話題になったが、それを気にするわけでもなく過ごしていた。女にもてる彼女は、男子から疎まれるようになり、陰湿ないじめを1日だけ受けた。

「1日だけ」というのは、少女がいじめの首謀者にタイマンを申し込み、伏兵を仕込む卑劣な相手を肉体1つで打ち破って見せたのだ。何度も殴られたが、何度も殴り返していた。顔は腫れて体中に痣も出来ていたが、休む事無く登校して驚かれた。同級生や首謀者である上級生の数名は、病院送りにされていた。それ以来、少女をイジメようとするものは現れなかった。

弱い男子からもモテるようになったが、以後告白は受けることがなかった。興味本位だけで、誰かの好きを横取りすることはしたくないという、少女なりの優しさである。

その頃になると、親戚や近隣住人の訃報が耳に届くようになった。思春期らしく少女は、死について考えるようになる。死んだらどうなるのだろうかという思いを抱きながら、毎日を生きるようになっていく。時に眠れないほどの恐怖を感じることもあったが、考え抜いて出た結論は、【死んだら何も残らない】だった。

「この世界に生まれた人間は何を求めて生きていて、何かを残すために頑張るのだとしたら。目標も何もない私はいったい何なのだろうか?」

自分の好きを探す旅が始まったのは、高校2年生の秋だった。

高校卒業後は、職を転々とした。

居酒屋:半年続いたが店が潰れる。
キャバクラ:セクハラをした相手に拳を振るって即日解雇。
メイド喫茶:最初はノリノリだったが、1か月で飽きた。
ゲーセン:台パンする客と乱闘になりクビ。客は以後更生した。
コンビニ店員:店先の不良共と喧嘩してクビ。不良からは姉御と慕われる。
引っ越し:1年続いたが、年末に残業代や有休で揉めて上司を殴り解雇。

他にも様々な職業を経験したが、どれも中途半端で、だいたいは揉め事になって辞めることが多かった。飲み込みの速さがあるため重用されがちなのだが、生来の喧嘩っ早さと飽き性が出世街道を叩いて砕く。

「やっぱり何にも考えない仕事の方がいい」

と、得ることを諦めたのが22歳の春。
書けば散々な履歴書を見た土木作業員の親方が、目を丸くして目の前の女性を見ていた。

親方「お前さん、一貫性がないな。ここに書いてある仕事、何故辞めた?」
少女「喧嘩とか、乱闘とか、上司殴ったり、不良と喧嘩したり、店が潰れたり、セクハラ受けたとか。まあ、色々です」

親方はこみ上げる笑いを抑えきれずに大笑いした。面接でこんな笑ったのは初めてだと、涙目で話す。

親方「黙ってれば割と美人の典型だなお前! 気に入った!! ここはもう男の仕事だが、お前さんなら十分通用するだろうよ!」

そして彼女が行きついたのは、汗と筋肉が教科書の土木作業員だった。

親方

3か月後。荒々しい親方と女性が口論し、そこから互いに手を出す乱闘騒ぎに発展した。女性が勤務してから、これで4度目である。

親方は60を超える老人だが、体つきは壮年と違わぬほど締まっており、これまでの喧嘩相手のようなヒョロヒョロのパンチとは一線を画していた。打ち所が悪ければ一撃で意識を持って行かれる。

対する女性も、数ある作業員の中でも屈指の実力だったが、親方を完全に打ち負かしたことはない。

「やれやれ!!」「いやあ今日は勝てるかな!!」「おい、仕事しろよ」

結局4度目のイーブンに持ち込まれ、お互い肩で息をし、
親方「いいか、明日は文句言わずに作業しろよ!!」
女性「わかってらい!!」

勤務時間が終わって帰路に就くが、親方の実家で住み込みのため、2人は同じ方向だ。

親方「お前はいつもだが、踏み込みが甘い。今まで喧嘩してたのはもやしばかりだったんだろうな」
女性「うるさいなあ。こんなに強い老人がいるって知ってたらもっと頑張ってたよ」

日も暮れて星明りが見える空。古い木造の一軒家に着くなり、親方の妻が「また喧嘩して!」とカンカンに叱りつけた。バツが悪そうに、逆らえずに顔を見合わせた親方と女性は、互いに指差し、

親方・女性「こいつ(親方)が悪い」
妻「いいから早く風呂に入ってらっしゃい!!」
親方「それもそうだな」

いそいそと風呂へ向かった親方。妻は女性に、持っていた消毒液や絆創膏をその場でつけた。「いいって」と拒絶しようとした彼女に遠慮なく押し付けるように。

女性「……すいません」
妻「いいのよ。貴女が来てから、あの人物凄く元気になってね。もう年だからとか言ってたのに、最近は昔の荒々しさが戻ってねえ。感謝しているの」

台所から香ってくる出汁の匂いが、女性の鼻に届く。今日は里芋の煮転がしがあるなと分かった。世話になっている身であるため、女性は献立を一品作ると、軋む床の音を鳴らして台所に向かう。

親方の妻から教わった料理の数々は、女性にとって面白く美味しいつまみばかりであった。最初はまともに肉じゃがなどの料理を教わっていたのだが、将来独り暮らしになった時、作らないだろうという事で「簡単に出来る」つまみレシピばかりが充実していったのである。

下拵えを終えて、親方が出た後の湯に浸かり、風呂終わりには夕餉が始まろうとしていた。女性は、ホウレンソウのお浸しと、鶏肉のトロトロチーズ&黒胡椒を持って食卓に並べる。

そうして始まった夕餉には、毎度の通り日本酒があった。毎度、アルコール度数は高めだったが、女性は酒豪の親方に負けじと胃に流し、お互いにかっかと熱くなっていく。賑やかな2人に釣られて夫人も飲みに参加し、夜遅くまで続いた。

……そんな楽しい時間を過ごした深夜、女性はまるで浮かない顔だ。月の綺麗な夜空を、縁側に腰かけて仰ぎ見ている。心は曇天で、幾度もため息をついている。

親方「風邪ひくぞ」

清酒瓶とコップ2つを持って現れた親方は、ドッカと女性の隣に座った。構わず女性は空を見ているが、差し出されたコップは受け取り、注がれた清酒は飲み干した。

女性「親方。こういう夜って、何だか色々考えちまうんだ。……特に、死んだらどうなるかっていうことで」
親方「あ?? お前らしくもねえな。まあ話してみろや」

女性「何やっても。どんなに喜んでも。今をどんなに楽しんでも。いっつも私の心のどこかで、【無為】って気持ちがさ、こみ上げてくるんだよ。こんなことしていても、いつかは死ぬし、いつかは全部なくなっちまうって。だからどんな仕事についても、いつも投げやりになって最後は終わっちまう」

虫の音が聞こえる縁側。親方は黙って酒を飲んでいる。

女性「どうせ無くなるならって、自分に正直に生きているし、それを後悔はしていないんだ。でも、そうやって強がっていても、結局は死ぬことに延々と囚われちまっているんだよ。親方、天国とか地獄ってあるって、信じているか? 私は信じていない。誰もその存在を証明できないんだから。多分、死んだら全部、それこそ魂だって消えちまう」

親方「わからねえな。あるかもしれんし、ないかもしれねえ」

女性「だよな。だから、勝手な想像なんだけど、消えた魂はどこに行くんだろうって。散って地球に還るのか? でも、いつか地球が無くなった時、魂は宇宙のどこかに飛ぶのか?? 宇宙だって永遠不滅なのか?? じゃあ転生とかもせずに散った魂もこの自我も、いったいいつ目覚めるんだ?? 私が生きたこの人生っていうのは一体何だ?? 永遠の暗闇の中で、永遠に目覚めないのか?? 死んだあとが全くの闇の中で、誰が私や誰かを認識するんだ?? そんなことばかり考えて考えて、いたら滅茶苦茶怖くなるんだ。あの日死んだ近所のおばさんは、いったい今どうしているんだろうかとか、考えたら止まらなくて―――」

清酒瓶の中身が全て、女性の頭から足へと滝のように落ちていった。
ぼたぼたと溢れる清酒の濁流に女性は唖然とし、ぶちかけた親方を、自分の話で怯えた瞳で見つめる。

親方「知らねえよ。老い先短いジジイの前で何て話しやがる。お前のその妄想。それ、妄想だからな?? 妄想をいかにも真実だと思いながら、勝手に盛り上がり過ぎだ」

頭を冷やせというメッセージの酒。いつもなら殴りかかっていた女性は、今は大人しく話を聞いている。

親方「お前は今の世界に生きるのが一番の幸せだと思っているのか?? 今の世界が、実はお前がもともといたかもしれねえ世界の、地獄・牢獄みたいな存在だとか考えたことはねえのか?? 死んだら釈放されて、元の世界でまた暮らすとか考えたことはないのか??」

想像する割に発想は貧困だなと親方は鼻で笑い、空瓶で軽く女性の頭を小突き始める。

親方「どいつもこいつもそうだ。この年になったら周りの老いぼれ共も同じようなことを言う。全員、死んだ後の確約が欲しいんだよ。だから妙な宗教の死生観にコロッと騙されて年金とられるんだ。脳足りんのお前まで同じことを言うとは驚きだったがな」

こんこんと酒瓶で打たれる度に、女性は目が冴えていった。

親方「死んだ後の事なんか死んだやつしか知らねえよ。死ねば分かるさ。この歴史上で死後の世界を実証した奴なんざ1人たりともいねえ。お前は机上の空論並べて、やる気のなさや堪え性のない自分を肯定しているだけだ。やる気を出せ。それが土方か、田畑か、どんな分野か知らねえが、お前が楽しいと思える場所で、好き勝手に生きて、死ね

どっこいしょと腰を上げて親方はそのまま床に就いた。去っていく親方の後姿を眺める女性は、しばらくは茫然としたままだったが、やがて清酒臭さを消すために、シャワーを浴びに行った。

新天地

何をすればいいかわからない。それは今まで通りの女性だったが、投げやりはなくなった。

一切興味のない分野に挑戦するだけの時間も、若さも、貯えもあった。土方で汗を流し、親方と拳を交える日々の合間を縫って、行ったことのない店に足を運ぶ。行ったことのない公園。遊園地、動物園。飛行機で兎の島へ、船で最北端へ。新幹線で大阪を練り歩き、鎌倉で戦艦を見学し、九州で地獄を眺める。

そうして何年か過ぎた頃には、死んだらどうなるかというものを考える暇が無くなっていた。旅の道すがらにスマホもいじり始め、ネット文化にも相応の知識が付いた。

旅動画を上げるYouTuberがいると知り、彼女は関連動画を求めた。そうしていると、実在しない人物が解説する旅動画も見つけたのだ。アニメのキャラかと思えば、それはVtuberという新たな文化の形だと言うことを知り、顔を出さずに楽しさを伝えることが出来るツールなのだと彼女は理解する。

俄然興味を持った。これまで何んとなしに旅や冒険をした自分の、表現できる分野が生まれていたことに驚いた。やってみたいと思ったが、美術の点数は落第点だった自分に、体を用意する準備はない。

また、住み込み先に回線を敷いたりパソコンを置いて負担をかけることもしたくない上に、「自分がそういう活動をしている」というのは、彼女にとって気恥ずかしさもあった。必要な機材などを調べても、高額なPCが必要でどうにもならないと判断する。

女性「何より、こんな可愛い見た目のVtuberでさえ、最近では伸びない時代らしいからなあ……」

調べる内にVtuberの活動準備を進める者たち、活動中の者を見ても、再生数や登録者数は伸び悩む者が多かった。YouTuberを多く見てきた彼女には当たり前の環境なのだが、vtuber発足当初は、デビュー時点で数百人のファンが問答無用でつく異常な界隈だったようで。

そのギャップがあるからこそ、近年では「伸びることを目標としない」「数個の動画の後に人気のなさに絶望して辞める」という事態が往々にして発生している。

1からVtuberを始めるのもいいが、それだとマトモな機材などを整える期間が3ヵ月と長いのだ。出来れば1ヵ月で形にしたいと思った時、女性の目に留まったのは、新人Vtuber募集をしている企業だった。

契約

数分程度の動画で面白さを表現し、送った先で審議、書類選考、そして最終面接が行われる。応募先は「いまなんじ」というVtuber界隈で幅を利かせている大手企業だった。

動画を取ることが出来るか否か。女性は動画を録る術がないので、真っ暗な画面に音声だけを乗せた。概ね、大半の応募者がそうしているように。

そして大半の応募者は気合の入った動画を送るのだが、女性は普段配信したらこうなるだろうという、緩く、のんべんだらりとした、酒盛りの一幕を投稿したのである。


――――――

場所は変わって、Vtuber企業大手【いまなんじ】の選考会。実に数万の応募動画が送られていた。データの収録されたUSBメモリから、高音低音、萌えやカッコよさなど、様々な声が寄せられた。

先行する何人かの社員は、これら全てに耳を通すわけではない。履歴書や応募動機を見て、「これは」と思った人の動画を初めて見るのだ。
ふるいにかけられた数多の応募者から選りすぐられた1000人。5分以内の動画を、全編通して聴く。その作業はひたすら忍耐を求められるが、ここを怠ることだけは決してなかった。

履歴書の職歴、そして応募動機がウケ、女性はこの1000人に選ばれた。「自主退職」で良い部分を、何故退職したのかまで仔細に示したのだ。様々な分野に挑戦していること、Vtuberでさえもその経験の1つだと明言する潔さに、社員は「どんな人物なのか?」と興味をそそられた。

普通の面接ならば落されるが、エンターテインメント性を重んじる界隈だけに好感度は高い。動画内容も、配信風景を容易に想像でき、その場で酒盛りをしているような雰囲気を醸し出している。

数日後、選考に最後まで残った女性は本社に招かれた。交通費は出る。

女性「うわ……結構でかいビルなんだな」

都内にある高層ビル。その5階に、いまなんじは事務所を構えている。スーツなどを着た社会人が脇目も振らずに自分の会社へ足を進めていく。初めて通る回転ドアをくぐった先、いくつもあるエレベーターの1つに乗り込んで、女性は私服の自分を場違いだなあと感じていた。

が、事務所内に入るとスーツを着た者は誰一人存在しなかった。他の応募者と鉢合わせることはなく、ソファや簡素な調度品の置かれた応接室に導かれた彼女は、ややあって入室した2人の男性と挨拶を交わす。

選考するのは必ず、ラフな服装の30代後半男性のCOOと、少し若手の選考部長の2人と決まっている。最終面接の幕が上がった。

女性は面接の受け答えを何一つシミュレーションしていない。途中予想外の切り口から出た質問であっても、自分を貫いて答えた。そうして10分以上会話を重ねていき、唐突にCOOの口から出た質問が

COO「貴女は、この世界でいつまで活動したいか、希望はありますか?」

そんな質問今までしたことないのではと、部長は驚いたが口を挟むことはなかった。そうきたかと、女性は少しだけ悩み、

女性「長くても1年、最低半年は活動したいですね」

あっさりと答えたのだ。「これは、初めて落選するかもしれない」と選考部長は冷や汗をかく。いまなんじの最終面接はいわば、人物の顔見せであり、事実上合格のボーナスイベントである。なのでこれまで誰一人、落選したことはない。

だが、1年以上経って1つのコンテンツにまで育て上げたいという会社の方針とは真逆の主張。半年のみの活動とあっては、リスクが大きく採用も厳しいと部長は考えていた。「せめて嘘でも『いつまでも働きたい』」と言っておけばいいものをと肩を落とす。

COO「Vtuberが嫌いだから半年……と言うわけではないですね。話を聞くに貴女は1つの所に居続けることが出来ない。しかし、重労働を数年も続けている辺り、浮ついてもない。半年の理由を聞かせてくれますか?」

女性「言った通り、私は興味の赴くままに、ここ数年生きてました。土方だって、最初は何カ月かで辞めてしまうかもとか、そう思ってたんです。この界隈のことは本当、最近知ったばかりで、動画投稿とかもロクにやったことはないです。だからここで私は戦えるかさっぱり自信はない。それでも半年は足掻けるし、生き残って見せる。そう思っての、半年です」

真っ直ぐ強い瞳が、COOに向けられた。震えもしない声、臆することも媚びることもしない姿勢。強い女性を前に、COOも悠然と笑った。

COO「なるほど。決意のほどは伝わりました。お疲れ様です〇〇さん。合否は追ってお伝えいたします」

女性が退出した後の応接室で、選考部長は頭を抱えた。

部長「どうします?? 確かに胆力があり、アンチコメントにも相当強いでしょうけれども、半年でいなくなる可能性が高いのでは入れる旨味が少ないです」

COO「だけど、あの個性(カリスマ)に魅せられる、コアなファンは必ず存在するだろうね。これまでのいまなんじファンにはウケが悪いかもしれないけど、他方面の新規開拓には持って来いだ」

部長「いやあ……確かにそうですが……しかし半年かあ……こんなこという人初めてですから、調子が狂ってしまいますよ」

COO「だから良いんじゃないか。同じような人ばかりでは退屈してしまう。声の質、切り返し(アドリブ)の強さ、どちらも申し分ない。それにあの精神力だ。精神力の弱そうな子とデビューさせれば、相互に影響を与えてくれると私は思うよ

部長「そう、ですかねえ……では採用という事にしますか?? いや、その口ぶりだと採用なのでしょうけど。もしも半年で辞める時、どうします?」

COO「その時はその時決めるよ」

ため息をついて履歴書に合格の判を押した選考部長。合格の知らせは1日と待たずに伝えられ、資料は3日後に届いた。新天地への一歩を、彼女は踏み出したのだ。

ママ

1人暮らしのための部屋は決めていた。引っ越しの日、名残惜しむ親方の妻は、「いつでも帰ってきてね」とすすり泣いていたが、親方は笑っていた。

親方「お前ならどこ行っても、好きに頑張るだろうよ。精々人様に迷惑かけない程度に頑張れよ」

そんな感動的な引っ越しを演じたが、引っ越し先は親方宅から歩いて20分しかないため、悲壮感は全くなかった。防音室付きの賃貸マンション。新たな根城にいくつかの荷物を置き、その翌日に届いた高性能PCをセットする。

これはいまなんじの貸出し物であり、セッティングもある程度されていた。直ぐにでも配信が出来るが、その前に女性にはやる事があった。

ママ選びだ。

Vtuber界隈の特殊用語である【ママ】。二次元で活動するための器を作る、絵師、イラストレーター等を指す。いまなんじ発足当初は、体を用意してくれるママの数も少なかったが、有名になるにつれ数多くの絵師が集い始め、現在ではプロアマ問わずに体を生み出す人が多くなっている。

そういう体の一覧が示されたファイルがPC上に存在し、女性は絵柄やママを見ながら回遊した。

単純に絵柄だけ決めればいいというものでもない。ママとて有料で体を作る以上、有名絵師は高額だ。そしてママの性癖や趣味嗜好、性格などにも注意を払う必要がある。

女性はこの一覧の中から、「最も将来性がある人物」をママにしようと決めていた。その体がどんなにへたくそであっても、だ。

プロ絵師にとってみれば仕事の一環で他の潰しがきくだろう。しかしアマチュアやそれ以下の存在からすれば、企業での案件という大きな出来事だ。日の目を見なかった自身の成果を他人に魅せつけることが出来る。

「自分には存在しない、【夢】を持った人物」にチャンスをあげたい。

この選考作業を6日は続けた。選び抜いた末に、成長株で、今後に期待が出来そうなママを選んだのだった。それは、見た目だけならほかのどれよりも劣るが、逆にインパクトも話題性もあるだろうと踏んでの決定だ。

ママ「ほ、本当に良いのですか!!?」

後日、再び訪れたいまなんじの応接室で、ママである生え抜きのイラストレーターの男性と、女性が面を合わせていた。

女性「ああ。ぜひお願いしたいんだ。あまり長く活動できないかもしれないけど、それでも良いかな?」

ママ「か、構いません!!!! ああ、これ、ドッキリじゃないですよね!!? 本当に、私がいまなんじのライバーの絵師に……!!!! あ、あの、まだまだ全然へたくそな絵なのですが、頑張ります!! 精進してもっといい絵を描きますから!! で、どのような体を用意しましょうか!! 出来るだけ可愛く? それともかっこよくいきますか?」

女性「うーん……それだけど。私に似せて作ってくれない??」

いくらでも、姿形を取り繕って全ての外見コンプレックスを払拭できるのがVtuberの良い所だ。だが女性がやろうとする配信などに、ファンタジー要素も、偽りも必要ない。何より、今現在の自分だけでどこまでやれるかを見るなら、過剰なかわいいもカッコイイもいらないのだ。

生み出された体。そしてTwitterアカウント。初配信前の女性は、自分によく似たVtuberの名前を復唱した。

???「さて。今日から暫く、私の名前は……綾瀬川晴美だ」

女性……綾瀬川晴美の初配信が、生誕祭が、その時始まったのだ。




次回【再誕と初配信】

サポート1人を1億回繰り返せば音霧カナタは仕事を辞めて日本温泉巡りの旅に行こうかなとか考えてるそうです。そういう奴なので1億人に到達するまではサポート1人増える度に死に物狂いで頑張ります。