[短編小説]目には雷を、歯には鉄槌を

※この物語はフィクションです。実在する団体、個人名とは一切関係ありません。本編は無料で最後まで読めます。

お呼び出しの時間

 悪魔を呼び出す五芒星の描き方が、動画配信サイトでも手軽に学べるようになった時代。頬が赤く腫れている少年が、5時間かけて作り上げた五芒星には、とにかく強い悪魔が来るように様々な供物が捧げられていた。

「地に這い、闇に溶け、月光を糧とする悪魔に捧げる。煮干、佃煮、牛乳、牛肉(特売)、梅干し、ヨーグルト、プリン、シジミ汁、納豆、卵、ホウレン草……我が願いを叶えんとする悪魔よ、出でよ!」

 しかし、こんな供物で来るもの好きな悪魔はそうそうない。故に1分……3分……7分……11分……少年は祈り念じ続けたが、健康志向の供物が置かれた五芒星には何の反応もない。それでも諦めずに少年は必至でお祈りを続けた。1時間、2時間、卵はそろそろ常温で温かくなり、牛肉(特売)からは血が漏れ出て皿を赤く染めている。

―――諦めずに祈る事4時間、

 唐突に五芒星から闇色の光が噴出した。部屋の中に極彩色のオーロラが現れる。これは遂に成功したのかと、少年は魔法陣から這い出てくる悪魔を凝視した。

過剰苛烈

 頭蓋から生えたまっすぐで深紅の角が、額1本と側頭部2本で計3本。目も口もない、黒より更に深い黒色の、暗黒のっぺらぼう。極太の首には血管が浮き出ており、ガタイの良い肩幅と無駄な脂肪のない腹部、鎧のように皮膚から浮き出た白い外骨が全身の黒い部分をより強調していた。

『やぁやぁ。君がこのお世辞にも素敵と言えない供物をくれた召喚者かね』

 身の丈は2mにも届きそうな長身。青いマントが魔法陣からの風で吹き上がっている。その声は落ち着いた物腰で、今にも飴玉をくれそうなノリだ。

「そ、そうです! 気に入ってもらえず残念です!」

『まあ、最近はどんなに安くてもダイヤモンドとか電子機器とかで雑魚は釣れるけどもねえ。今度からは良い物を用意してくれることを祈るよ……と、与太話はこのくらいにして。折角呼ばれたんだ。君の願いを聞き届けようじゃないか』

「僕をイジメる同級生の【スガル】君に思い知らせてあげたいんだ!」

 粗暴で弱肉強食な悪魔の中で、物腰の低い悪魔程恐れられる者はない。それは自身の力に絶対の自信を持っているからだ。そんな悪魔に対して少年はこの物語初めての固有名詞を臆さずに告げた。

『……ほほう。愉快! 国の一つ二つ、先導者の二桁、堕落させた人間は数知れずの私に、そんな簡単なお願い事をするのか君は。安くはないぞ? この供物では全く足りない。成功の暁には君の魂の年齢……何だまだ10歳なのか君は、心身共に幼いなあ……では乳歯を10本捧げてもらうとしよう。そのスガルとやらに、この世に生まれたことを後悔するような地獄の責め苦を味合わせるとしようか』

「いやいやいや待って待って!!? そこまでしなくていいんだ!」

 悪魔は首を右に350度捻って『何故』と尋ねた。

「僕は小学校に入学してから、ずーっといじめを続けられている!『殺せばいいではないか?』いやだからそこまでしなくていいんだってば! ほんの少し、【もうこれ以上イジメる気が失せる程度】の仕返しがしたいんだ! それが叶うなら乳歯なんてあげるよ! 大人の歯が生えるし!」

『ほうほうほう。(首を左に600度旋回)なるほどねえ。ではスガル君の家を焦土と化して、イジメている場合じゃない状況にしよう。大丈夫、良心が痛むかもしれないが、火災保険に入っているかもしれないから、ほんの少しで再建できるよ』

「いやあの……ああ、うん……加減が利かないってこんなに難しいのか。皆はどうやって悪魔とコミュニケーション取っているのか物凄く気になって来たよ」

暇つぶしの手解き

 悪魔を呼び出して10日が経った。

『ほら勇気君、この程度の高さで怖がってはいけないよっ…と』

 上空300Mの青空に飛んだ悪魔が、右手で掴んでいた少年=勇気の足を放した。落下の風圧で涙も鼻水も皮膚も歪んで絶叫と共に落ちていく。河川敷に到達する残り1Mで、急激に落下速度は0へと向かい、青臭い雑草の中に放り出された。

「死ぬ! 死んでしまう!! お願いだ悪魔さん、他ので!」

『何を言ってるんだね勇気君。私は死者を生き返らせる術もあるんだから万が一死んでも血液が飛び散るだけだから大丈夫だよ。それに契約を破棄して帰るなんて悪魔の私にとっては屈辱でしかないのでねえ。君がキッチリ、スガル君を追い詰められるよう……度胸と腕を付けてあげているんじゃあないか』

 いつの間にか高度500Mまで連れて行かれた勇気は、拒否の言葉を幾つも投げかけたが悪魔には一切聞き入れられなかった。

「悪魔って皆こうなのかあああああああぁぁぁぁ……!!」

 またしても残り1Mで勇気は助かった。

 契約の日、悪魔からの報復案は勇気にとってどれもこれも過剰防衛だった。拳骨一発入れて泣かせて二度とイジメないようにする程度で良いのに、「家を燃やす」だの「一回殺して生き返らせる」だの、心に深い傷を残す物ばかり。相手は殺しに来ない以上、そこまでする必要は何処にもない。

『じゃあ君がやるしかないね。私のコーチで』

 悪魔はこれまで勇気に名を名乗らなかった。名乗ったらもっと重い契約に移るということで、勇気もそれ以上聞かなかった。殴るためのフォームを教わることは基礎として、体を作るための栄養管理を母親を洗脳して行わせたり、度胸を付けるために落下やチキンレースの参加、洗脳したボクサーとのスパーリングにも通った。

「僕がやらなきゃスガル君は……いや、世界が、殺される……」

 最後の最後、妥協案として提示されたのが勇気を鍛えて出陣させることだった。悪魔曰く『それも出来ないなら面倒くさいから超爆発で町を消す』。勇気は後悔した。ちょっとした仕返しのために町が滅ぼされるかもしれないと、追い詰められている。

「よぉ勇気、お前最近付き合い悪いなあ」

 だからだろう、学校でいじめのために絡んでくるスガルを見ても、何一つ恐怖を感じなかった。スガル退治のために特訓を続ける事20日。勇気の眼と心は据わっていた。

クロスカウンター

 スガルには噂がある。兄が中学校で一番強い存在として君臨し、その囲いも大勢いる事。スガルには甘い事。何かしようものなら報復されるという事も。

「スガル君。話があるんだ」
「なんだぁ勇気?」

 昼休みの校舎裏。

 小学四年生にしてポーカーで仲間と遊んでいるスガルは、勇気をじろりと眺めた。少し前ならその睨みで委縮していただろうが、クマやキングコブラに睨まれ襲われた日々を考えると何一つ威圧感がないと勇気は苦笑した。

「もう僕をイジメるのをやめてくれないかな? それだけでいい、本当に」
「イジメる? はぁあ? え、俺イジメてたっけ? なぁ? おい」

 笑顔でトランプを捨てて詰め寄るスガルは、迷わず勇気の頬に平手打ちをかました。悪魔を呼んだ日と同じように頬に怪我を負ったが

「そっか。話し合いすら無理か」

 迷わず勇気はがら空きの腹に重い一撃、胃の中を逆流させるようなアッパーで反撃した。何が起こったのか理解出来ないスガルは、ガクガクと震える膝を地につけてただただ悶絶。苦悶の表情で勇気を睨みつけた。

「でめ゛…ごろ、じでやる!」

 居合わせた仲間が勇気に拳を振るうが、受けても良い攻撃と避けて反撃する攻撃を冷静に見極めてあっさり撃退した。連携も何もない直線的攻撃だったので、勇気は肩透かしを食らう。

「おぼえでろよ、お前なんか、お前なんか!」

 ボロボロの仲間たちと共に敗走したスガル。最後まで謝罪の言葉もない、しかし確かな勝利に戸惑うばかりの勇気だった。

―――その夜

『おめでとう勇気君!』

 洗脳した家族たちと共に悪魔は盛大に祝福してくれた。供物とはこういうものだと言わんばかりの料理が卓に並べられている。

『君の乳歯10本を取るのは、食後に麻酔をしてからにしよう。これで私もスッキリと魔界に帰れる。いやあ大変な日々だったねえ』

「本当に大変だった……だけど、なんだろう、勝った気がしない」

『おやおや浮かないねえ? しかし勝ちは勝ちだ。暴力に暴力で返して勝ったなら何も後ろ暗いことはないはずだよ。さあ噛み締めなさい』

 インターホンが鳴った。洗脳された家族は人形のように反応しない。仕方なく勇気が代わりにドアを開けた。「こんな夜遅くに誰が」と言い終える前に、体に何かがまとわりついた。それは力強い指……巨大な拳が勇気を包みこむと、締め付けの強さで両肩の骨が外れ、そのショックで気絶してしまう。


――――――――


 次に勇気が気付いた時、そこは薄暗く広い倉庫の中だった。外れた肩は治っていたが、羽交い絞めに拘束されて動けずにいる。

「勇気、とか言ったっけか? 俺の可愛い弟が随分世話になったようじゃねえか」

 囲まれている。羽交い絞めの1人と、スガル、その兄含めて9人。全員柄物のシャツや木刀などの武器を持ってにやにや笑っている。

「ぼっこぼこにしてやってくれよ兄ちゃん! あの時キッカーがいたら殺せたんだからさあ!」

「そうだな。隣町の生意気な高校相手に、戦争で狩りだして済まなかったよ。まさか俺たちに逆らう奴がいるとは思ってもいなかったんだ。今度からずっと見張らせよう」

 ずしんずしんと、平べったい大きな足で闇から現れる何か……身の丈3Mの明らかに人間ではない赤い皮膚の悪魔が現れ、次いで拳がやたら大きな悪魔も現れた。

「先ずは、弟の分!」

 スガルの兄が木刀を振るって勇気の体に一撃を加える。打撃痕はしばらくうっ血することになるだろう。しかしその一撃で終わりではないことを、勇気は冷静な頭で理解していた。

「やられたらやり返すってな。目には目を、だっけか、なっ!」

 蹴り。木刀の刺突が勇気を襲った。「やりすぎっしょ」とゲラゲラ笑う取り巻き、上機嫌のスガル。勇気は満身創痍に陥ったが、その目は死んでいない。今打てる逆転の手立ては、ない。それでも自分は謝るようなことはしていないと強い意志を持っている。

「なんだよその目……もういいや。タイタン、お前の拳で跡形もなく吹っ飛ばしちまえよ」

 羽交い絞めが解けて冷えた地面に投げ出された勇気。鼻息を荒げた悪魔が指の骨を鳴らして近付く。「死ぬ」と勇気は思った。

「逝っちまいな!」

 ―――故に、助かるとも思った。

バトンタッチ

『驚いたねえ。死ぬ寸前まで魂から救助の意志を感じなかった』

 タイタンと呼ばれた悪魔の拳は強大だ。かつては鎧に身を固めた兵士たちを殴殺し、城壁を揺らすほどの威力を誇る。スガルの兄が学校を支配したのも、召喚に成功したタイタンの力によるところが大きい。殺さずとも圧倒的な力を見せて戦意喪失を狙える、まさに生ける兵器。キッカーという弟と共にスガル兄弟と契約していた。

「だって、死んだら……乳歯、取れないじゃんか……」

 勇気はそう言い残すと、ぷつりと緊張の糸が解け、気絶した。

『やれやれ。君が死んだあとに乳歯を取って帰ることも出来たんだよ私は。そんな妙な博打をするほど強かったっけか、君の心は』

 勇気の悪魔は、タイタンが契約後に初の殺害を決めるためのパンチを、2本の指でピタリと止めていた。絶対の自信があるパンチを止められたこともそうだが、目の前にいる悪魔を見て、タイタンは慌てて拳を引っ込めようとした……が、全く動かなかった。指に吸い付いているかのように、引くことも押すことも出来ない。

『ああ。タイタン君だっけか、懐かしいねえ。人間20人殺したけど、弓矢で黙らされた残念怪力君。動いても無駄だよ。今君の運動を全部無為に変換しているから』

「お、おいタイタンなにやってんだ! そんな細ぇ悪魔早く倒せ!」

 突然の乱入者にタイタンが何も出来ずにいる。キッカーは明らかに動揺していて体を震わせていた。

『そんな悪魔……とは失敬な。私の名は【エリムリッド】。ほんの少し世界を焼いただけの上級悪魔さ。以後、お見知りおきを』

 無為にしていたタイタンの運動エネルギーを、タイタンの身に全て跳ね返す勇気の悪魔=エリムリッド。高速で吹っ飛んだタイタンは倉庫の壁に激突し、背骨を折って倒れ伏した。

「あ、ああ、た、たい、タイタン……??」

 力の象徴であった自身の悪魔が、何も出来ずに戦闘不能にされた。その事実をスガル兄は受け入れられない。握っている木刀は震えていた。

『大丈夫。悪魔の背骨なんて10年もすれば治るからさ。ねえキッカー君』

 同意を促されたキッカーは、千切れんばかりに首を縦に振った。その様子にスガルも不安な顔になっていく。

『さて困った。私は今日こそ魔界でゆっくり湯に浸かれると楽しみにしていたのに。邪魔が入ってしまった。どうしてくれるんだいスガル君、君の往生際が悪いせいで私のプラン台無しだよ』

 キッカーが地に頭をこすりつけた。スガルは後ずさり、逃げた。が、開け放たれているはずの倉庫の扉には、見えない薄い膜が張られていて出られない。自慢の悪魔を勝手に土下座させ、何もせずに戦闘不能にもした勇気の悪魔エリムリッドを相手に逃走不可という事実。それは居合わせた9人に絶望感を与えるには十分すぎた。

「ざ、っ、ざっけるなよてめええ!」

 ネズミは追い詰め過ぎれば強大な猫にだって噛みつく。無謀とも言える起死回生を狙って、スガル兄は突進、木刀を振りかぶり、エリムリッドの体に一撃を与える

『ほほう、なんだなんだ、中学生だからすっかりないと思っていたら、意外にキレイにあるじゃあないか』

 寸前で、運動エネルギーを完全に打ち消された。タイタンと同じことスガル兄はその身をもって味合わされている。

『3本も。ね』

 運動エネルギーを解放すると、スガル兄の口から白い欠片が3つ噴き出た。直後、彼は口元を抑えて絶叫し、じたばたと足で空を蹴って悶絶する。

『そうだよねえ。確かに契約時に【乳歯10本貰う】と言ったが……そうか、してやられた。誰の乳歯かなんて指定してなかったじゃあないか。いやあ失敗失敗。数百年ぶりの召喚でボケているなあ私も。そうだよねキッカー君』

 キッカーは笑えばいいのか否定すればいいのかわからず呻いて地面に額をこすりつけた。答えを誤ればどうなるか……背骨のように時間が経てば治る怪我で済むかすらわからないと、本能的に察していた。

「にぃちゃん!?」「あわわわわ」「た、助けてくれええええ!」

 逃げ惑う8人にエリムリッドは上機嫌な笑い声をあげた。愉快愉快と手を叩いて喜んでいる。

『君たち。私に八つ裂きにされるか、それとも面白いゲームに参加するか。好きな方を選んでくれたまえ。返事は10秒以内でお願いするよ』

 薄い膜を作り出している結界は、球形状に倉庫を包んでいる。出口らしき場所を見つけようと必死だったが、そんなものはどこにもない。そして露骨にゆっくりと示されるカウントダウン。もしも逃せば本気で全員行方不明にされかねないとし、全員一致でゲーム参加を選んだ。

二度と悪さの出来ない方法

『私はね、乳歯があと、7本。欲しいんだ。ペンチで引き抜くなんて惨いことはしない。私の前に立ってくれたら即刻抜いてあげるよ。さあ、言っている意味は分かるね。スガル君のお兄さんは3本抜いちゃってるから、他の子達で7本献上しなさい。それで八つ裂きは勘弁するし、勇気君への暴力も許してあげるよ。どうだろうかね?』

 本来。他人を思いやれる集団であればこの状況で「1人1本ずつで7人が犠牲になれば良い」とあっさり答えは出るだろう。失うのは所詮乳歯で、その場限りの痛みなのだから。だが、スガル兄の集めたこの集団は、彼のカリスマに惹かれたわけではない。スガル兄の有するタイタンの威光の影で悪さ出来るからと、お零れに預かろうとした仁義の欠片もない連中だ。

 タイタンを赤子のように扱い、『椅子がないなあ』の一言で弟のキッカーが率先して椅子になりに行くような悪魔エリムリッド。顔のない無表情ゆえに、何を考えているかもわからない恐怖。スガルでさえこんな状況下、怯え竦むばかりで何も出来ない。

「お、おい、お前……」「やだよ、お前行けよ!」「全部抜かれたらどうすんだよ!」「助けて助けて助けて」

 7人の中学生が皆怯え切っている。自己犠牲の精神はない。ただ面白おかしくつるんでいただけの連中のために何でおれが犠牲にならなきゃいけないと話し合いをしている時、エリムリッドは一言添えた。

『そうだよねえ。君たちがわざわざ犠牲になるなんて理不尽だよねえ。わかるよお、その気持ち。だってそもそも、こんな事態に陥ったのは……勇気君をイジメていたスガル君のせいなんだから』

 びくりと震えたスガルは、7人を見ると、皆自分を戸惑いの眼で見ていることに気付いた。

『そうでなければ君たちは、雑魚のタイタン君とキッカー君を引き連れて今日も人間相手に威張り散らせていたんだからねえ。そう。スガル君のせい』

 差し出しても良い存在と仕立て上げられたスガル。咎を受けるべき理由があり、スガル兄の威光もない今、最も脆弱なのは彼だ。

「待ってよ、俺に手を出したら兄ちゃんが黙っちゃないぞ!」
「うるせぇよ」「お前の兄ちゃんが凄いのは、木刀持って、タイタンがいたからだ」「タイタンもいねえ、お前の悪魔も椅子変わりの状況で何が出来るってんだ!」

『愉快だねえ愉快だねえ。キッカー君見なさい、君が弱いせいで、いや、愚図な兄のせいで昨日まで仲良くいきっていた彼らが……仲間同士醜く楽しく生贄を選んでいる。懐かしいなあ。小国を滅ぼす時、姫か兵士たちの命か選ばせた時のことを思い出すよ』

 侮蔑的言葉を投げかけられても、契約者がピンチであっても、キッカーは椅子であることをやめられずに唸り声をあげているばかりだ。

「ま、待て……!」

 そんな時、エリムリッドの足元に転がっていたスガル兄が声をあげた。

「俺が……残り7本の乳歯を、だ、だから弟は……」

『美しい兄弟愛だねえ。でも君の歯はもう要らないんだよ。ごめんねえ』
「大人の歯でも良いから、だから」
『うう~ん……そうか、そうか。素晴らしい兄弟愛だねえ』

 スガルが「助かった」と心の底から安心していたが、エリムリッドは情けや愛の寸劇など微塵も興味がない。何故なら人の情を転がして笑う悪魔だから。

『それなら本当はいらない……君の歯を、全部。貰おうか』

 絶句。スガル兄は表情を凍らせた。

「ぜ、んぶ??」
『全部だ。これから君が生やすであろう大人の歯も全て、献上してくれるなら、それでも良いよ。どうする??』

 乳歯は替えがある。だがそれ以上は替えが利かない。中学生の身でその選択肢を選ぶことは出来ない。例えそれが弟のためと言えども。

「やっちゃってよ、俺が、弟が、歯を抜かれるかもしれないんだぞ兄ちゃん! 威勢よく俺を守るって」
「限度があるだろう! 何だよその言い方は!! 俺だってお前のために」

 そこから、兄弟同士の罵詈雑言が響き渡った。人は他人にさえ、気に食わないことは塵程でも存在する。常に一緒にいる兄弟なら、気に食わない点は山積しているものだ。それでも家族と言う何物にも代えがたい絆が、許す心のゆとりをくれるから致命的な喧嘩に至ることはほぼない。

 しかし。我が身可愛さにお前の歯などどうでも良いと可愛い弟に言われたら、それまで守ってきた兄は激昂して然るべきだろう。

 楽しい。エリムリッドに顔があれば、喜悦の笑みを浮かべていることだろう。楽しいと、手を叩いて高笑いしている。

 ―――さり気なくエリムリッドは、契約遂行にも余念がない。

【もうこれ以上イジメる気が失せる程度】の仕返しを、スガルに与えるためにはどうすればいいか? エリムリッドは世の汚泥や流血の沙汰をその目で幾度も楽しんできた故に、勇気の考える仕返しが生易し過ぎることを悟っていた。彼の性格からしてその仕返しは中途半端に優しさや遠慮を加えることも知っていた。

 4年もの間玩具としてイジメてくるような輩が、中途半端な逆襲をされてどんな気持ちになるか? それは報復、再調教である。現実に勇気は報復を受けて気絶し、その過程に勇気への遠慮など欠片も存在しない。どころか殺害にまで至ろうとした。

 悪魔召喚などと言う物がない世界なら他の解決策も十分あるだろう。

 だがこの世界には悪魔が普通に存在し、その力を背景にする人間も大勢いる。エリムリッドは、考えた。

『悉く背景、その関係、全て……塵にすればいい』

 兄弟関係。友人関係。主従関係。そして「勇気に危害を加えたら再び何かしらの報復をされる」という強いトラウマ。

 暴力には暴力で以て解決する。それも同等の痛みではない、より強い痛みを与える、それが悪魔の流儀である。

『目には雷を、歯には鉄槌を』

 醜い兄弟喧嘩、そして友人と言う名のお零れに預かりたい連中、全てが責任放棄して逃げを撃ちたくて、まさに混沌としていた。その後も醜態晒しは続き、要所でエリムリッドは唆す。

『キッカー君の骨をくれたら』『殴り合いで勝った1人は候補から除外』そんな闘争を煽るようなことばかりし続けた結果、悪魔の契約関係も解消される事態に陥った。乳歯もしっかり回収した後、最早彼らの関係は修復不可能なものにまで陥っていた。

 これでスガルは二度と何かを背景に戦うことはないだろう。そしてこの夜の一件で、勇気に仇なせばどうなるかを思い知り、以後は伏し目がちに登校する日々を送るのだった。

エピローグ

 勇気が目覚めると、エリムリッドの姿はなかった。代わりに置手紙と、赤いビー玉のような宝石が転がっている。

『勇気君、お疲れ様。君ではなく別の人から乳歯を回収したから、私は魔界に帰るとするよ。もうこれ以上イジメる気が失せる程度の報復はしておいたため、安心して登校してくれたまえ。受けた傷も反転して返しておいたから気にしなくていい。それと、その赤い玉は記念品だ。何かまた困ったことがあればそれを使ってくれたまえ ではまた 勇気君の悪魔より』

 エリムリッドを無条件で呼び出せる触媒は、古き時代なら血で血を洗う争奪戦になるであろう至宝である。だが勇気は机の奥底に封印し、二度と呼ぶつもりはなかった。

「……やり方は色々問題あるけど、ありがとう。結局名前を聞きそびれちゃったな。次……が仮に、万が一あったら、ちゃんと聞いておこう」

 勇気は玄関の扉をくぐり、学校へと向かった。空は雲一つない清々しい陽気だった。

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