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『新しい街 ヴィル・ヌーヴ』

 タイトル聞いたときはね、やっぱり「?」って一瞬なりましたよね。『ブレードランナー2049』とか、今度『デューン』が公開される監督にドゥニ・ヴィルヌーヴっていう人がいるもんですから。これで、そうか、「ヴィルヌーヴ」って、「ヴィル・ヌーヴ」=”Ville Neuve"なのかと初めて気が付きました。日本の名前で言ったら、「新町さん」とか「新村さん」ってことですね。

 そのドゥニさんもカナダ人なんですが、この『新しい街 ヴィル・ヌーヴ』という作品もカナダの2018年作。80分近い長編アニメーションで、白黒の手描きで作られています。昨日土曜日、9/12に東京は渋谷の映画館イメージフォーラムで劇場公開されました。この後、あちこちのミニシアターを回ると思います。最近はあんまりそういうことしないんですが、初日の初回に行ってきました。来場者に、実際に制作に使った原画をプレゼントするという話もありまして、もう、完全にそれに釣られて(笑)。日本のアニメだとそういうの昔よくあって、セル画プレゼントとか、フィルムしおりプレゼントとか。最近の完全にデジタル制作、上映もデジタルっていう作品なのにフィルムしおりがプレゼントって、かなり倒錯してるなあと思いますけれども。僕は昔、『幻魔大戦』(1983)の初日に行ってセルをもらったんですよ。チャーンチャーンチャラッチャーとキース・エマーソンのシンセが聞こえてきたあなたは50代。ワクワクしながら封筒を開けたら、そのセル、真っ黒なんです。黒い絵の具でべったり塗ってあって、真ん中あたりになんかキャラのシルエットみたいな空間がある。フィルムの時代、アニメで何かが光ってる表現をするときに「透過光」と呼ばれるテクニックがありまして、まず、いったん絵を撮影して、フィルムを巻き戻し、今度は光らせたいところだけを抜いたこういう黒いマスクを作って、後ろから光を当てて、それを撮影する。そのシルエットの動きは先に撮った絵の動きと同じタイミングになっているので、その部分の絵が光って見えると、そういう理屈です。で、もらったセルはその「マスク」だったわけですね。当時は飛ぶ鳥を落とす勢いの角川映画できっと全国的に大規模に初日プレゼントやってたでしょうから、もう絵柄なんか一切選んじゃいられなかったんでしょう。しかし、まあ、そういう恨みはなかなか忘れないですね笑。

 いきなり話が逸れすぎました。今回は、ちゃんと絵の入ったの引いたどー!

 ただこのおじさんがどういう人なのか、観る前は分かってない。双子なのかな?とか(結果、一人の実態とガラスに映ってる姿でした)。とにかく、僕は映画を観る前になるべく前情報を遮断したいものですから、あ、これは面白そうだな、きっと観るな、という判断がどこかでついたら、もうチラシの裏なんか絶対に読まない。誰が出てるかも知りたくない(そんなことを言う人間がまだ観てない人に対して、いろんなことを書くのはどうなのか、とも思いますけれども)。去年、とある大学で映画の歴史や修復に関して、小さな講義をした時に今のような話をしたら、学生さんたち、一様に驚いてましたね。とにかく、あらゆる下調べをして、Filmarksなんかで評判も調べて、これなら確実に自分にフィットする、満足できそうだ、と思う映画を観に行くんだそうです。まあ学生さんはお金もないから、損したくない、という気持ちも分からなくはないけれど、そのような生き方から得られるものは残念ながら非常に狭い、小さなものでしかないと思います。

 すぐ話が逸れる。この『新しい街 ヴィル・ヌーヴ』、面白かったです。見終わって思わず拍手をしてしまうとか、「いやー、良かった」と何度もうなずくような感じとは違うのですが。Funの面白さではなくて、Interestingの面白さ。

 話は、一度別れた夫婦の夫の方が、結婚時代に住んでいた家が空いてるというので(その家のある街の名前がヴィル・ヌーヴ)、再び、そこに棲みつき、妻にも電話して来ないかと誘う。二人には大分大きくなった息子があり、この息子はダメ人間の父親を嫌っていて、絶対に行くべきじゃない、なんて言うんだけど、妻はとりあえず行くんですね。ただ、そこでまた一からやり直せるなんてことは思ってない。ちなみにこの夫婦は両方、物書きを仕事にしていて、物語の端々で彼らの書く「詩」が読まれたりする。

 この二人の設定や成り行きは、アメリカの作家レイモンド・カーヴァーの短編がベースになっている。村上春樹の訳で読んだ人も少なくないでしょう。僕も読んでるはずで、たしかにそんな話があったような気もするけど、そもそもカーヴァーってそんな話ばっかりだったような気もする。カーヴァーの映画化と言えば、ロバート・アルトマンがいくつかの短編を上手いこと組み合わせて、それぞれのエピソードが微妙に絡み合うような合わないような群像劇に仕立てた『ショート・カッツ』というのがありますね。アルトマンだから、ということもあるだろうけど、とてもドライで辛辣で、村上春樹訳から感じるようなウェットな感じが一つもなくて、ああ、実はカーヴァーというのは、この感じが正しいのかもしれないなあ、と思ったものでした。

 それで、このアニメーションの監督フェリックス・デュフール=ラペリエールは単にカーヴァーを映画化したわけではなくて、この夫婦のエピソードを1995年のケベックに置いたところが肝。もともとカナダという国は昔からフランスとイギリスの間でワサワサしてたわけですが(雑な説明ですみません)、国の東側にあり、フランス語を話すケベック州はことあるごとにカナダからの独立を考え、それを無理やりに推し進めようとするケベック解放戦線というテロリスト集団が1970年に事件を起こしたりもした。1980年と1995年にはケベック州の独立をめぐって住民投票も行われたんですが、どちらも独立ならず。ただ、1995年の方は賛成反対がわずか1%差での否決というきわどい結果だった。主人公の夫婦、そして息子はまさに、その投票を控えたタイミングに生きていて、会話の中にちょくちょくその話が出てくる、そしてこの映画のラストでは現実とは違う開票結果となって……というひねりがあります。

 もうひとつの要素はタルコフスキーの『アンドレイ・ルブリョフ』。途中、主人公の妻と息子がシネマテークにこの映画を観に行くところがあります(なぜかスクリーン・サイズがその映画の縦横比とは違えてあるので、最初は彼らが観ているのが『ルブリョフ』だという確信が持てなかったんですが、後にその映画の後半を占めるエピソードをそのまま語るシーンが出てきて、さらに……。あまり詳しくは言いますまい。僕は『ルブリョフ』を引用する必然性みたいなものがあまりピンと来てなかったのですが、帰りに買ったBlu-ray(封切りの映画のブルーレイを、その場で買って帰れるのです。これ、新しいチャレンジですが、こういう観る人がある程度限られてくるような映画だったら、アリだな、と思います。特にアニメーションは何度も見ると発見がありますし)に入っていた監督のインタビューを見たら、ケベック州というのは昔からカトリックの色が強く、住んでいる人全体に神秘主義的なベースが備わっている、というような話で、だったら、聖像画家だったルブリョフ、その映画の引用というのはそう突飛なことでもないのかな、と。ここらへんはもう一度本編をちゃんと観て、考えたいところです。

 絵がいいですね。先にも書きましたが、ぜんぶ白黒。まず監督が全部の原画(各カットの動きの基本となる何枚かのキーフレーム)を描いて、アニメーターたち(自身も作家をやっている人たちも参加)がその間の動画を埋め(日本では「中割り」って言います……この映画の場合、1秒=24コマに対して8枚って言ってたから基本、3コマ撮りですね)、さらに別の絵描きさんたちが、その動画をライトボックスで透かして、新しい紙に、筆でなぞって輪郭や塗りを墨や薄墨で描いている。おそろしく手間がかかる手法です。やはりBlu-rayに入っていたメイキング映像(短いバージョンはこちらに)を見ると、撮影は一眼レフのデジカメでやってました。今はスキャナーで取り込むという方法もあると思うんですが、レンズの生み出す味わいとか、絵までの間にある空気も欲しかったということなのでしょうか。

 キャラクターは『ガンダム』のアムロみたいな目をした人が多くて、一見、「上手い!」とか「キレイ!」って絵じゃないんですけど、のそのそとした動きも手伝って、ものすごく存在感がある。あと、白黒にしたのはこれがやりたいということもあったんだろうけど、光とか闇の表現がものすごく巧みです。海をバックに主人公の夫婦が延々としゃべってるシーンがあるんですが、二人はただグレイに塗られたシルエットなんですよ。そのうしろは白く抜けてて。それが、海辺のあの陽光の感じをきちんと伝えてくる。夜中に懐中電灯をかざすところなんかも、光の帯や、それがあたった部分の表現が実に上手い。デジタルのエフェクトを使ってるところもないではないですが(最終的な色や明るさの調整もデジタルで丁寧にやってるとは思いますが)、まず手で描いた絵そのものでそういう表現が既にできている感じがして驚きました。あの光の感じは、やっぱり真っ暗な映画館でまず味わってほしいですね。

 あと、塗りムラが動くの、いいよね。そこに時間が生まれるというか……ディズニーなんて、昔のアニメをリマスターする際に、色もデジタルで塗りなおしちゃって、もともとあった塗りムラももうなくなってたりするんですよ。

 というわけで、思いつくまま、書きましたが、こうした要素がどういう風に一つの作品にまとまっているのかはご自分の目でご確認ください。まあ、ここまで読んでお分かりのように、かなり高度なことをやろうとしている作品で、簡単ではありません。見終わった時は、ヨーロッパのちと小難しい実写映画を観た時のような心持ち。さらにアニメーション、絵による表現の歯ごたえ、旨味がその小難しさを掛け算で増幅させるような。でも、悪くないですよ。考えたくなりますしね。調べたくなりますしね。年取ってくると、そういう欲求を生み出してくれるような作品でないと満足感がないんです。あと、こうやって、ある地域とか、ある時代にきちんと根差したもの。特定の部分を徹底的に掘ると、すべては理解できなくても時代や場所を超えて存在する普遍的な何かに触れるチャンスが増える気がする。あらかじめ誰にも彼にも理解させようと最大公約数的なところで勝負するものは人の深い部分に潜むものに手が届かない。

 アニメーションって表現方法がそもそも難しいものなんですよ。そう簡単じゃない。TVマンガが最初にあったから、あの延長で子どもが見るもの、誰でも見やすいもの、分かりやすいもの、という刷り込みがみんなにある気がするんだけど、アニメには、実写映画のように、そこに映ってるものが基本的には現実世界のコピーである、という前提がない。どんな表現をしても自由なので、見る側は、まず、これから見る世界の土俵は丸いのか、四角いのか、そこから探り探り入っていかないといけない。そしてこういう長めのものになると、途中で、物語の展開にあわせて表現の形態、時間の運び方を変えたりすることもある。そこでまた自分をアジャストしていかないといけない。だから、アニメーションを見るときって、すごく頭のカロリーを消費してるんですね。そして見る側にとっては一瞬で通り過ぎていく一枚一枚の絵に作り手はものすごい時間をかけてるわけで、そこにさまざまな意図も盛り込まれてる。情報量と情念の量がとても多い。だからアニメーション見てると眠くなることもよくあります。処理に疲れちゃうんですね。あと、一回見ただけでは、込められた何かを読み取れてないことも沢山ある。だから何度も見る楽しみもある。というか、何度か見ないと勿体ない感じもある。

『新しい街 ヴィル・ヌーヴ』、久々に、がっぷり四つで取り組みたい相手に出会えて喜んでおります。


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