死刑制度についてちょっと考えてみる

最近また死刑判決が出た。そこで私が感じている死刑制度について書いてみたい。先に言っておくが、賛成とか反対とかそういうものではない。  

 死刑制度ってOECD(経済協力開発機構)加盟国(34か国)中で日本を含めて3か国と調べてみると死刑制度をある国って思った以上少ないことが分かる。これはすごいざっくり言えば、人であることの価値や人権などは侵害しちゃダメだからいくら国家でも人殺しはよろしくない。みたいな事だと思う。

 もちろん死刑制度には犯罪の抑止効果もあるとも言われている。言い方は悪いかもしれないが、合法的に仇討ができるってもあるかもしれない。ただ、ここでは最初に書いたとおり賛成・反対を書きたいわけではないので、このあたりの話は詳しくは書くのはやめておく。

 そしたらここで何を書きたいかっていうと、この死刑を行う際に関係する人の事である。私みたいに死刑執行するまでに何もかかわらない人が多数だと思う。ただ、裁判員制度が導入されてから誰でもこの死刑執行までの手続きにかかわる可能性がでてきた。今まで弁護士とか裁判官で行われていた部分が裁判員制度の導入で法律も分からない一般人がこの死刑について考えなきゃいけないのだ。しかも裁判員制度って死刑が関連するような重要な裁判でしか呼ばれないなからたちが悪い。個人的には冤罪が多い痴漢の裁判とかの方がまだ良いのでは?なんて思ってしまう。

 話はちょっとずれてしまったが、よくよく考えてみると死刑を執行するまで多くの人がかかわっていると思う。メディアを通して見た事件で死刑は当然だ!って第三者の立場からなら簡単に言える。ただ、いくらそう思ってもいざその手続きの1つだと分かっていても、自分が人を殺すのにかかわってくるとなると話は違ってくる。 まず、当事者についてはそれなりの理由があるので死刑を求めてもしょうがない。これは復讐とか仇討って言葉があるぐらいだし。ただ、これが当事者には実質的に関係がない状態で死刑について判断するとなると話が違ってくる。弁護士や裁判官はもしかしたら法律というバックがあるから判断が出来るかもしれないが、それでも重い判断だし、ましてや裁判員など法律がバックがない人にとっては想像しただけでも恐ろしい。自分の意見で人が死ぬ。冤罪だったらどうしよう。って絶対に頭によぎると思う。 それに、これはあくまでも個人的な予想もあるが、裁判員とかではなくても日本はハンコ社会なので死刑執行するまでにたくさんのハンコを押すと思う。手続きだとはいえ自分がハンコを押すことで人が死ぬって考えるだけでも怖いし、死刑を執行する時もボタンを押すらしいが複数人で行い、誰が押したか分からないように配慮しているらしいが自分かもしれないって思いながら生活するのは精神的につらいものだと思う。

 戦争で人を殺してしまった人、交通事故で人を殺してしまった人が精神が壊れてしまい、最悪の場合自分で命を絶ってしまう人がいるほど人を殺すっていうのは精神的にきついものなのが分かる。死刑の執行は簡単に言ってしまえば法的手続きの1つであることは分かるが、その執行するまでにかかわる人の事を考えると個人的には死刑制度を考えるとき、裁判員だけではなく死刑執行までに関わる人のことをもっと議論した方が良いのではないかと思ってしまう。

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