BFC4 本選Dグループ 感想文

たそかれを 「日記」
 
 タイトルからすればこれは日記の記述なのだろうが、誰かに読んでくれるよう頼んでいて、つまりこの文章を読むような親しい人が身近にいる。語り手は最低でも三回は離婚を経験している。アルバイトで生計を立てている。親の介護、葬式など考えているところからして、それなりの年齢なのだろう。読んで欲しがっている“少し前にあった出来事”の話は、要約すれば三度目の離婚のきっかけになったマーセル紙を偶然手にして昔を思い出した、というだけのことで、何故こんな話を聞いて欲しかったのかはよくわからない。全編が、語られた内容だけ取り出せば無意味ともいえるような日常の些事だが、落ちてきた紙をキャッチする場面の妙に引き伸ばされる感じ、“そのときはたまたま何も考えていなかった”から“じゃあ何を考えていたかと言うと~”の反復の奇妙さ、“知らんけど”で唐突に締められるラストまで、文章から語り手のキャラクターとここまでの人生模様がにじみ出ているようでもある。


冬乃くじ 「サトゥルヌスの子ら」
 
 力関係の上位にあるアーティストによる下位アーティストの作品の剽窃、盗用を扱っている。師弟関係はもとより、恋人同士や家族間でのそれは特に隠微であり露見しにくい。主人公の父親は偉大な作曲家であったが、彼の成功は妻や娘の才能を収奪することで成立していた。主人公は不明の理由により発現した特殊能力で事実に気がつき、父親=サトゥルヌスの腹を裂き喰われた姉を取り戻す。
 曲と作曲家の個性が不可分であることが彼らの腕の再現によって表現されるアイディアと、何が起きているのか読者が無理なく呑み込める、手順を踏み手間をかけた形態変化の描写が出色。クライマックスに向かって記述は速度を上げ、父が“男”になり、佳寿子は“老女”になる。ラストは彼ら個人を離れ、全ての奪われた人々の復讐を描いた一幅の絵画のようだ。
 疑問があるとすれば、何故、佳寿子は引退後十年経ってピアノを再開したのか。一度は手放したピアノを取り寄せたのは何故か。彼女にとってピアノはコンサート中に卒倒するほどのストレスをもたらしていた筈だが、歳月が抵抗感を緩和したということなのだろうか。
 また、この不思議な能力について、彼女がほとんど疑問に思わずすぐに馴染むのも、ここまでの基調がリアリズムであるため不可解ではある。(この能力自体が彼女の妄想で、彼女が実は知っていた、もしくは強く疑っていた事実を能力に語らせた、ということだろうか。だがその点の解釈を宙吊りにするような記述はなかったように思う)
 この二点が大きな瑕疵だとは思わない。気にしない人は気にしないだろう。ただ、ちょっとした説明がどこかで加えられた方が、展開が自然になるのではないか、より多くの人にとって没入しやすい物語になるのではないかとは。


由井堰 「予定地」
 
 他人とわいわい絵解きしながら読んだ。一首が短いから共有するのが容易で、読み上げてああだのこうだの言い合うのが面白かった。自分一人で首をひねっているだけではなく、話すことで得るものが多いのは小説も同じだが、より余白が多く解釈に幅が設けられているため腑に落ちるイメージを探すのにゲーム的な楽しさがあった。
 初めに提示されたイメージが、後の言葉が重ねられるに伴い変化していく。単に並べただけでは無関係な別個の言葉でしかないものが、リズムにより繋がりが作り出されイメージが溶けあい変容して行くプロセスは刺激的だ。
 あからさまに馴染みのない情景や文物を扱わないのは、小説以上に読者の創造的協力が必要な短歌というジャンルの特性を考慮し、BFCという場で戦うために選択した方法なのかもしれない。
 訳がわかり過ぎては詰まらない。しかし手がかりがなさ過ぎると“何か意味があるんだろうけどわかんない”ものになってしまう。門外漢の目から見て、この綱渡りを大体において上手くクリアしているように感じた。

 

北野勇作 「終わりについて」

 日暮れに、“路面電車の終点”で降り、彼方の“消失点”へ“終わりに向かって歩いている”。終末のイメージがこれでもかと続き、主人公は目的地もそこへ向かう理由も了解しているようだが、では終わりとはなんだろう。世界の終わりと呼ばれる場所に到着して自分の記憶の不鮮明さを語り、“そして最後に巨人が登場する”。全ては主人公も演者に含まれた芝居なのかもしれない、という可能性も残しつつやがて最後の巨人の存在も消え、物語は終わりを迎える。
 筋立てらしきものは“終わり”が描かれるにあたり読者が読み進めやすいよう設置された通路のような役目を果たしていて、細部の整合性を気にする類の物語ではないのだろう。ぼんやりした懐かしさのようなものすら感じる終末の風景は美しい。
 もし匿名でこの作品が出品されていたとしても北野勇作(ないしは熱心なフォロワー)だとわかっただろう。アイデンティティが曖昧化していく様子、そのこと自体には特に不便も不安も感じていない主人公、先行する記述がはぐらかされ、ひっくり返されていく手筋、など、北野勇作作品の特徴が多く見られる。作品単体の出来とは別に、従来からの読者がいるプロ作家の有利不利はそこにあるように思われ、選評でどう評価されるのか興味深い。


西山アオ 「王の夢」

 とても今風な人物類型を描いた作品。全編が、キングという信頼できない観察者から見た世界を解説する、という形で進んでいく。街の人々が彼を嫌悪し、敵意を向けるというのもあくまで彼のゆがんだ認知を通して見た風景で、事実は恐らく異なる。少女が彼の想いに“何かしらの反応”をしたという大切な思い出もまた。
 これが例えば、佐藤とか山田とかいった普通の名前であれば、現実に寄り過ぎてもっとやり切れない話になっていただろう。彼の一人称の語りだったら、より殺伐とした内面表現が前に出ていただろう。
 キングという実像から遠い呼称のもたらす滑稽さと、全体の程よく距離を置いた冷静な語りが、彼の孤独や感じやすさ、言い訳のきかない醜悪な行いや、思い出にすがるもの悲しい姿を、くっきりと浮かび上がらせる。突き放す一方ではなく、どこか憐みのようなものがあるのが、この救いのないお話に僅かばかりの慰めをもたらしている。


津早原晶子 「死にたみ温泉」

 冒頭の文章が、詩的なイメージの唐突な転調や飛躍で語られる全体のリズムを予告している。少し油断するとあっという間に一月二月過ぎていってしまう、幽霊の特異な時間感覚が上手く表されていたし、作中の幽霊が体験している速度と、読者が読みながら感じる速度が一致していくような心地よさがある。生ぬるい暗闇に浸されたような作品で、幽霊以下の存在に再び戻っていくラストの表現まで、採用した語りの魅力をフル活用している。読者もまた“私の温泉”に浸かっているかのようだ。
 内容は剣呑だが、優しいといってもいいような語り口なのでともすれば勘違いしそうになるが、やっていることは貞子とか伽椰子とか、ああした存在と同じである。もしかしたら彼女たちの視点からは世界がこう見えているのかもしれない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?