『冬乃くじのBFCトリロジー』


 冬乃くじによりBFC4に投稿された三作は内容的に共通する点があり、三部作として読むことで完成される。と、いったような要旨。 
 1.は前二作の三部作における位置づけ。2.は三作目の意図するところについて。

1.
 「サトゥルヌスの子ら」(以下「サ」)は主人公と、抑圧的な父親、父に才能を搾取されていた姉の三者の関係の物語だ。
 「あいがん」(以下「あ」)は主人公と、抑圧的な母親、母から溺愛されていた飼い犬の三者の物語だ。
 どちらの作品も三者の関係が織りなすエモーショナルな線により貫かれていて、幻想的な描写はエモーションを増幅するための装置として用意されている。読者の感情を動かすための仕掛けは実はとてもシンプルで、指す方向がはっきりしている。だから読者は、仮に幻想描写における象徴の読み取りに困難を感じたとしても、作中で迷子になることがない。手の込んだ、正体を掴みにくい印象の作品が多い本選のなかで、このわかりやすさ、読者をけん引する力の強さは群を抜いて強力な武器だ。
 「サ」は腕の変容という幻想と本筋の絡み合いが緊密で、分離できない。一方「あ」は全体を段落ごとで六つに区切った場合、乱暴な言い方をすれば①と⑤に該当する幻想パートがなくても話としては成立する。「サ」に比べ、構成としては整理されていない。
 八十代のピアニストが主人公で、天才作曲家一族の才能をめぐる葛藤劇という大時代的な道具立ての一作目より、二作目は多くの読者にとって舞台が身近なものになり、ごく普通の一女性のモノローグが続き、抱えている悩みも共感しやすいものだ。勧善懲悪的といってもいいようなストレートな構造の前話に比べ、母親への愛憎相半ばする感情は、安易に明快な結末にいたることがない。
 決勝作発表前、「サ」は抑圧者を打倒する話、「あ」は抑圧者と共存(共棲?)する話、とまとめることができるとしたら、では三作目はどうなるのだろう、と考えた。抑圧者役に父母以外の誰かを連れてこなければならないし、エモーションの転がっていく先もできれば前作までとは違ったものであってほしい。あるとしたら「和解」だろうか?しかしこれまでの物語を読む限り、抑圧者と言葉が通い合う余地はなさそうだ。さて。
 ところが。
 三作目は意外な設定を採用していた。これはそれまでの作品の流れと一見無関係のようだが、そうではない。意表の妙手であるように思った。

2.
 第三作「健康と対話」(以下「け」)の登場人物は主人公と妹。これまでと異なり、三角形のもう一つの頂点に対応する抑圧者役の人物がいない。本作で代わりにその位置を占めるのは主人公自身の大腸であり肛門括約筋だ。これは彼ら三者の物語だ。
 前二作の無力な姉や飼い犬と異なり、妹は主人公と対等のパートナーであり、ともに困難に立ち向かってくれる。肛門括約筋は頑固に主人公を苦しめるが、妹と力を合わせ知恵を持ち寄る中で、便秘も遂に克服される。だがそこで行われるのはこれまでのような、闘争、ないし逃走ではない。タイトルにあるように、対話なのだ。
 肛門括約筋は彼女自身の一部であり外部に存在する敵ではない。主人公を力づくで、あるいは精神的に支配しようとしているわけでもない。腹を裂いて退治することも物理的に距離を置くこともできない。関係を改善するための努力から逃れることはできず、根気強い対話が必要とされる。本編はほぼ、大腸及び肛門括約筋とコミュニケートする方法の検討と実践で占められている。これまで抑圧者との関係を表現するためにある意味便利に使われていた幻想パートはなくなり、便秘解消のための具体的な行為の積み重ねが記述される。
 「サ」から「あ」にいたる流れはこれを追う読者にとっても息苦しさが増していくものだった。これは便秘に苦しむ主人公の状況に対応しているといえる。三作目である「け」は読者をそれまでの緊張状態から解放することを目的としているようだ。作品の結末で主人公が試行錯誤の末頑強な抵抗を示していた肛門括約筋と「和解」を迎えるが、それは読者の感情の解放もまた意味している。

 広大なコンサートホールで始まった三部作がスケールダウンを繰り返し遂にトイレで終幕を迎える。
 美しい結末だ。

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