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どこの問題が誰の何なんだ

最近のTwitterの殺伐具合は本当にすごい、と思う。
ちょっと前までは「正義の殴り合いだ…」と感じていて、その時点で充分ドン引くに足る状態だったけど、最近は「正義って必要なんですかね」みたいなレベルになってしまっている。すごいよ。よくない意味で。

実際、ネット上で積極的に発言している人って世の中の数%に過ぎないんだろうけど拡散力が大きいから怖い。少数の声がまるで「全体の世論」であるかのように語ることが出来るし、結果的に「全体の世論」になってしまったりする。それが社会の改善に向けば意味があると思うけど、最近は「叩き潰し大会」みたいになっていて、正直なところ、あそこで大きな声をあげる事は、これまでほどの意味はないんじゃないかと思う。
(※「かいちぐ」は別ですよ!あれは世に大きなムーブメントを起こすためではなく、当事者がゆるりと繋がるためにやっているので…)

ところで。
Adoちゃんの新曲「アタシは問題作」を聞いた。楽曲制作者のピノキオピーさんからAdoちゃんへの宛て書きのようで笑ってしまうが、先述したSNSでの関係も想起させられ、なるほどな〜というかんじ。

歌詞では、自己評価と建前と本音がめちゃくちゃになっていく様子が描かれているものの、曲はアップテンポでコミカル。そのギャップが、他者からの言葉に振り回されてテンションがブレる不安定さを表していて、つい苦笑いしてしまうようなリアリティがあった。
見えない目線にまで配慮して、オロオロする。そして、それを表現するのも、恨みや悔いに満ちたメロディではだめ。カラ元気でも、明るい形で。「誰かから見たらこう見えるように」が幾重にも連なっている。

私は私のままで良い、と自分では思っても、自分を「良くない」とする目線を意識し続けないといけない…というのが今なのよね。

アタシは問題作?アタシは問題作?
あーでもない こーでもない
予防線を張ってごめん…
別に良い奴ってわけじゃないけど 君が思うよりそんなに最悪な奴じゃない
たぶん

Ado – アタシは問題作

話は戻って、ネット上での「叩き潰し大会」について。

社会をよくするためであれば、叩き潰す事ばかりではなく、共に力を出し合う方向に向けることにも力を入れるのが筋だと思うのだけど、どうしてそういう方向にならないんだろう。
「多くの人が、叩き潰す快感を得ている」というのも悲しいかな、事実だと思うけど、その裏には「自分も叩き潰されるかもしれない」という恐れがあるんじゃないかと思っている。

間違えて橋から落っこちそうになった時、ギリギリ手を取ってもらえるような社会であれば、その後に持ち直して皆で進むことが出来る。
けれども、自分がそうなったとき手を取ってもらえないとなれば、話は別だ。是が非でも橋にしがみつかなくてはいけないのだから、わざわざ他者にその手を差し延べたりはしないだろう。
差し延べるどころか、蹴落とさないといけないのである。自分の陣地のために。
そういうのが、ネットでの叩き潰し大会の正体なんじゃないかなとぼんやり考えている。

でも、こんな俯瞰で見てたって、何にもならないんだよな。

少なくとも自分はこの流れに参加しないぞ、と頑なになりつつ「しかしこれは、さすがに叩き潰した方が良いのでは?」と思うことも多い。
NOと思えばそう言う。違うと思ったら批判もする。けれどもそれは、潰すためではなく、進むためだ!
その感じは、意識していたいなあと思う。

大きな過ちに対して、確かに制裁は必要なんだ。でも毎度毎度、極刑に処していたら誰もいなくなっちゃうよ。


今日の絵

まだ自分でも決めてないのに

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