クラシックと教養。

クラシック音楽の敷居を下げると、エンタメと芸術の違いとかってちょっと前に流行った。コロナの影響でクラシック音楽は大ダメージ、生の演奏というのはますます孤立した特殊な体験になっていくのだろうと思う。コロナ影響後の音楽産業において、その他の芸術や、音楽に比べて、クラシック音楽のあゆみは一歩遅れてしまうだろう。例の問題はその一つの原因でもあると思うし、一度言いたかったからかく。

まず、クラシックの語源はラテン語のclass、「最高の」という意味を持っている。はっきり言う。敷居は高くて良い。クラシックの敷居という言い方にそもそも語弊があるけど、個人的にクラシックの目指すところはあくまでこの「最高」であるべきと思う。そこにランクが存在するのも事実と僕は思っている。

ヨガをみるとわかりやすい。言うなれば、最高の音楽というのはインドの修行僧のするヨガ。では街中のホットヨガは?ダイエットや、姿勢矯正、健康をうたい多くの人を魅了する。誰でも簡単にヨガの「恩恵」を体感することができる。敷居を下げるというのはこういうことだ。しかし、ホットヨガスタジオに仮に30年通えばインドの修行僧に匹敵する悟りが開けるだろうか?否。

絵本はどうだろう?子供のために書かれている。難しい言葉はない。それでいて、純文学と同じくらい生活を豊かにしてくれることもある。子供に純文学を渡す人はいない、まず絵本を渡す、10代になると本らしいものを読み、中高生になれば漱石を手に取る。これは単純に情報能力の問題だ。

それでいうと、クラシックは高度な情報の集まりといえるだろう。巷のアイドルの歌う曲に比べれば難しい書き込みがたくさんある、構成も複雑だし技術ももとめられる。高度の情報を読み取った先に、この微妙な体験がある。それはインドの修行僧の悟りのように鍛錬が必要なものだと思う。

だがクラシック音楽は教養がなければわからないと言われるとそれは違うと言いたくなる。音楽は教育ではないからだ。教育には良い悪いを判断する基準があるが、音楽にはそれがない。クラシックの「最高」は最高度の情報による体験である。そこに良し悪しはない。

クラシック音楽はよくわからない、難しい。と言わないでほしい。30年, 40年、何年でもあなたが生きた人生、たくさんのものを見て来たあなたに、自信を持ってあなたの目と耳で体験して欲しいだけなのである。あえていうならば、教養とは自分の体験に自信を持てることであるかなと思う。

乱文になったが、これをはっきりしておくことはとても重要。クラシック音楽の中にこの「敷居」や「エンタメ」、「芸術」とかいう見方が出始めているのは事実。どれが正しいとか良いとかではなくて、クラシック音楽の「最高」の形が残ってくれることを願っている。また、単純に昨今こういった事情でジャンルというものがあてにならない。「ロック」といれると如何にも主張の激しい昔ながらの奴らと、真面目な格好して速いビートを刻む奴らがいる。「クラシック」というジャンルもそういう細分化を始めている。


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