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私にちょうどいい本

今日は日曜日。私は近所の喫茶店のテラス席にいて、オレンジフロートを飲みながら煙草を吸っていた。
テーブルに伏せているのはマキャベリの『君主論』…と言いたいところだけど実際には『エリートの教養が2時間で身につく!ビジネス名著100見るだけノート』だ。

すさまじいタイトルだ、書いていて耳が熱くなってくる。
この本では『マネジメント』『銃、病原菌、鉄』『自助論』などの名著と呼ばれるビジネス書を1冊につき1ページないし見開き2ページで解説している。それぞれの思想のコアの部分だけが抜粋されていて、ページの6割をイラストが占めている。これを読んでいるあなたが優秀なビジネスマン、もしくは敬虔な読書家であったなら卒倒しそうな内容だ。
だけど私にとってはこれが本当にちょうどよく、面白く読んでいる。学ぶべきところもたくさんある。

Twitterのフォロイーたちは今日も古典や高度な思想書を読んでいるというのに(難解な本を読んでいる人のツイートは面白い場合が多いのでそうなる)私はこんな俗っぽいものを読んでいていいの?とすこし不安になる。
だけど同時に私はこれでいいんだ、ここには今の自分に足りない重要な事柄が含まれていて、今こうしているのは間違いなく良い行為だという確信を持ってもいる。

本の内容を問題にしたいわけではない。
「自分にとって『ちょうどいい本』を選ぶことができるようになったことが私は嬉しい」
というのが今日のテーマだ。

本を読む、という行為について考えるとき、思い出すのはユウちゃんという女の子のことだ。

大学時代同じサークルに所属していた一学年上の先輩で、だけどみんなが彼女のことをユウちゃん、ユウちゃんと呼んでタメ口で話していたので私も自然とそうするようになった。当時サークルにはたまたまユウちゃんと同学年の人がいなくて、私たちと仲良くしてくれていたんだと思う。
文化系で女子ばかりのサークルとはいえ、九州というのは上下関係にはかなり厳しい土地柄で、今考えるとそれはかなり珍しいことだった。

小柄で、リスやハムスターを思わせるかわいらしい風貌とは裏腹に、表情に動きがなく寡黙な人だった。
年上なのに控えめでめったに口を利かなかったけど、たまにボソっと挟みこむツッコミが愉快な人だった。
いつもつるんでいたわけではなかったけど、飲み会に呼べば大抵こころよく来てくれて、私たちはみんなユウちゃんのことが好きだった。


本棚の話だ。
引っ越しや卒業なんかのタイミングでいらなくなった本を、サークル部室の本棚に置いていく、という慣習が当時の私たちにはあった。
それを勝手に持ち去ったり、古本屋で買ってきて補充したりということが日常的に行われていて、その本棚には常時20冊ほどの本がおさまっていたように記憶している。

画集や写真集、谷崎潤一郎の『痴人の愛』や三島由紀夫の『禁色』などに紛れて、ユウちゃんが置いていったその本はあった。
正確なところは失念したが『完全無欠のいい女を作るための10箇条』といったようなタイトルの本だった。多くのページに蛍光マーカーが引かれていて、何度も繰り返し読んだ跡があった。私たちはそれを見て笑った。

文学部の、さらに文化系のサークルに在籍していて、落書きだらけの壁にはアングラ演劇のビラが貼られたサークル棟のボロボロのソファでシケモクを吸っていた当時の私にとって、読書というのは自己啓発本ではありえなかった。
ましてや『完全無欠のいい女を作るための10箇条』であってはいけなかった。

自己啓発本というのはそれを読まない人間にとっては「読むだけでやった気になるバカが、繰り返し鳴らし続けるでんでん太鼓」のような印象を与えるアイテムのように思う。
それを真剣に読んでいるユウちゃんってなんなん?
ウケるわ。やっぱ天然だな。
だけどひとしきり笑ったあとユウちゃんと一番仲の良かった同級生が言った言葉に私は息を飲んだ。

「でもユウちゃん、これ線ひいたとこ全部実践しよんやんかー」

無口だけどいつもキュートで、優しいユウちゃん。虚勢は張らないけどフル単で、就活も卒論もキチっとこなす、かっこいいユウちゃん。
あ、完全無欠のいい女だ。
【本に書いてあることに感銘を受けたらそれを人生で実践すること】それがユウちゃんの読書だった。すごくシンプルだ。
当時の私にとっての読書は、もちろん喜びもあったにせよ【それを読んでいる自分が人にどう思われるかを演出すること】がかなりのパーセンテージ含まれていたように思う。恥ずかしくて胸に木片が刺さったような感じがした。

それから紆余曲折あり、30歳を過ぎた今の私は自己啓発本を、それも特にバカ向けの自己啓発本を積極的に読むようになった。
当時21歳だったユウちゃんの足元にも及ばないけど、1冊通して読んで、ほんの数センチでも今いる場所が良い場所に変わると良いと思って読んでいる。
そのためには難しすぎてはいけない。今の自分のレベルから逆算して、具体的な行動の契機につながる内容が書かれてある実用書を読みたいし、自分や周りの人間の感情について何か具体的なヒントが書かれてある小説を読みたい、そう考えるようになった。

それが果たして正しい読書なのかはわからないけど、読書を初めて30年近くたって、ようやく自分にちょうどいいやり方で本を読めるようになってきたことが嬉しい。

ひと足先に卒業したユウちゃんには二度と会っていない。
入りたかった業界の入りたかった会社で働いていて、好きな人と結婚したと数年前に聞いた。

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