文通相手に会う旅
今回のテーマ: 私の旅行記
by 萩原久代
初めての一人旅は、大学を卒業して就職前の春休みに決行した20日間欧州旅行だ。目的はフランス、ドイツ、オーストリアに住む3人の文通相手(ペンパル)に会うことだった。あの頃、インターネットもSNSも、スマホもなかった。ガラケーすらなかった。そんな遠い昔の旅のお話である。
主要都市マップ、観光やホテル情報については「地球の歩き方」がバイブルだった。「地球の歩き方」と提携企画された旅行パックに参加した。その旅行パックは、東京からの往復フライトと到着地ロンドンのホテル2泊、ユーレールパス(2週間分)、帰国前のローマのホテル2泊、そこからギリシアに飛ぶフライトとアテネのホテル1泊が含まれていた。そして、「地球の歩き方」欧州版とトーマスクック列車時刻表、お腹に巻く貴重品袋とやらももらった。ロンドンの後、ユーレールパスで列車乗り放題の2週間は自分で旅程を決め、最終的にローマのホテルに到着しなければならない旅だった。
当時文通をしていたフランス人とドイツ人、オーストリア人の3人に会うため、出発3ヶ月前から準備した。手紙を出して返事が来るのに早くて2週間、通常やりとりに1ヶ月くらい時間がかかった。Eメールもなかった時代だ。国際電話とファックスはあったが、費用がめちゃ高くて手がなかった。
旅行出発前の手紙で、日程を伝えてペンパルの電話番号をもらった。そして、彼らの住む街に着く前夜に私から電話をすることにした。その際に列車の到着時間を伝えて、駅に迎えに来てもらう約束をした。みんな初めて会う人ばかり。でも何年も文通しているから親しい友人のように(勝手に)感じていた。
予定通りロンドン2泊を終えて一人でパリに向かった。まだユーロスターはなく、フェリーでドーバー海峡を渡った。パリではマレ地区にあるユースホステルに3泊した。この申し込みは、出発2ヶ月ほど前に郵便でやり取りして予約を確定していた。地下鉄サンポール駅が近くて便利な場所にあった。滞在中にカナダ人大学生と仲良くなり、彼女と一緒にベルサイユ宮殿に行ったり、パリの美術館をまわった。この宿では金沢出身の女性Kさんとも出会い、数日後に一緒にドイツに行くことにした。
ドイツの前に、私はパリからフランス中部のブリーブという街に行った。高校時代から数年文通していた男の子の家を訪問した。彼は2歳下だったが心臓病を抱えていて、私が欧州旅行に行く前年に亡くなっていた。彼の死後はご両親が手紙やクリスマスカードを送ってくれた。彼は小さい頃に空手を習ったことがあり、日本が大好きだった。
ご両親は駅で出迎えてくれ、フランス式の双方ほっぺた交互に2回キスで大歓迎してくれた。私のことをよく聞いていたそうで、私の好きな食べ物や音楽などを知っていた。お墓参りをして、思い出話を聞いたり、近くを観光をして2泊お宅に泊めてもらった。ご両親は街の靴屋さんだった。好きな靴を持って行きなさいと言われたが、もう一足をスーツケースに入れるスペースはなくてご遠慮した。
心優しいご家族の住むブリーブからパリに戻り、ユースホステルで出会ったKさんとパリ北駅で待ち合わせて、一緒にドイツのブレーメンに向かった。ブレーメン駅に、ペンパルの女性が迎えに来てくれた。彼女の家でランチをご馳走になり、彼女が手配してくれた小さなペンションに私とKさんは2泊した。ペンパルがブレーメン観光案内をしてくれて、次の日の夜は彼女のボーイフレンドとその仲間の男性4名と一緒に夕食をした。ボーイフレンドはイラン人で、仲間もイラン人だった。炊き込みご飯みたいなイラン料理を食べた。Kさんは、イラン人が毛深いとびっくりして「えらい、濃いがや~」と金沢弁で言うので大笑いした。
そのあと私はブレーメンから一人で、オーストリアのウイーンに住むペンパルの男性を訪ねた。彼には日本人の友人が沢山いて、そのひとりの女性のアパートに2泊させてもらった。彼女はウィーンでお菓子作りを学んでいた。優しく素敵なお姉様で、ウイーンの美味しいケーキ食べ歩きでご馳走していただいた。ペンパルの案内でショーンブルン城や美術館も見に行った。3月中旬なのにウイーンは雪もちらつく寒さだった。
これで3国のペンパルに会う旅、ほぼ1週間は終了した。その後はのんびりと暖かいイタリアと南仏に行こうとトーマスクック時刻表をしっかり調べておいた。
ブレーメンで別れたKさんと、ウィーンからベニスに行く夜行列車に一緒に乗る約束をしていた。Kさんが一人でウィーンに来れたか心配したが、ちゃんと列車のホームで待っていた。ラインもEメールもない時代だから、道中でお互いに連絡し合うツールは何もなかった。パリでもウィーンでも、彼女と同じ列車に乗る約束をして、ホームで待つだけ。よくちゃんと会えたものだ。私は22才、彼女は21才、気が合った。
ベニスでは宿を決めておらず、数軒ホテルをまわって値段交渉した。3月は観光シーズン前で、空室の多い3星ホテルが格安料金になった。ベニスから先は未定だったが、結局、ローマまでKさんと二人で珍道中をすることになった。一人旅でなくなってしまったが、ホテル宿泊は二人でシェアしたほうが経済的だし、二人の方がレストランにも入りやすい。
ベニスから南仏、モナコ、フィレンツェなどを観光してローマに到着。グーグルマップはない。着いた駅の観光局オフィスで街の地図をもらってその街を歩いた。
当時の旅行の現地支払い方法は、これまた、今では信じられない状態だった。学生の私はクレジットカードさえ持ってなかった。ドル現金とドル建てトラベラーズチェックを持参した。これをお腹に巻いた貴重品袋にしまって、肌身離さず持って旅行するわけだ。欧州通貨ユーロの導入前だから各国で通貨が異なっていた。次の国に行く前に両替をしておくように、と「地球の歩き方」に記載されていた。なるべく使い切るよう、無駄なく両替をしておくのは、けっこう高度な技を必要とした。
若かったから怖いもの知らずだった。人との巡り合いが楽しかった。行く先先の土地で多くの人に助けてもらった。トラブルも事故もなく、本当にラッキーでハッピーな旅だった。
そして旅を終えた春、私はピカピカの新入社員生活を始めた。
そういえば、昔、おばあちゃんが「私が娘の頃は、電話やテレビなんてなかった」と言ってたのを思い出した。私もついに「私の若い時は、インターネットもスマホも、グーグルマップもなかった」と言うことになってしまった。
追記: 当時の写真が手元になくて画像埋め込みできなくて残念。写真は実家にあるんですが。。。ぼちぼち廃棄対象物になっています。↓
萩原久代
ニューヨーク市で1990年から2年間大学院に通い、1995年からマンハッタンに住む。長いサラリーマン生活を経て、調査や翻訳分野の仕事を中心にのんびりと自由業を続けている。2010年からニューヨークを本拠にしながらも、冬は暖かい香港、夏は涼しい欧州で過ごす渡り鳥の生活をしている。
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