生成AIだ!

なんか今朝からツイッターが騒がしい。見ると15日から規約が変わって、ツイッターがもつAIに色々使われるらしい。

まあいつものかと思う。いまさら学習されることに何を騒ぐのか。

そもそもAIが学習することに関しては法律に触れてないし、特定の作者のイラストを学習するのは著作権違法になると聞いているが間違いなのだろうか。

つまり学習することに関しては何も言えない、違法じゃないから。これをどうにかしたいのなら法律を変えよう。

騒いでる人も生成AIは現行法で対処できると理解しよう。「私の絵柄を露骨に学習してる!」と感じたのなら訴えを起こせばいい、特定の作者のイラストを学習するのは著作権違法とされているはずだ。

気に入らないのはそういうことをせずにツイッターで勝手にパニックとヒステリック起こして騒いでいることだ。なにがウォーターマークだ。法律的に学習はどうしようもなくて、でも特定の絵柄を学習するのは違反になりうるという話は認めないのにそれは信用するのか。

反AIは安心したいだけ。というツイートを目にした。そのとおりだと思う、彼らはAIをどうにかしたいのではなく、自分が安心したいだけなのだ。

車のコピペのようだと挙げられていた。確かにそうだ。

女『車のエンジンがかからないの…』
男『あらら?バッテリーかな?ライトは点く?』
女『昨日まではちゃんと動いてたのに。なんでいきなり動かなくなっちゃうんだろう。』
男『トラブルって怖いよね。で、バッテリーかどうか知りたいんだけどライトは点く?』
女『今日は○○まで行かなきゃならないから車使えないと困るのに』
男『それは困ったね。どう?ライトは点く?』
女『前に乗ってた車はこんな事無かったのに。こんなのに買い替えなきゃよかった。』
男『…ライトは点く?点かない?』
女『○時に約束だからまだ時間あるけどこのままじゃ困る。』
男『そうだね。で、ライトはどうかな?点くかな?』
女『え?ごめんよく聞こえなかった』
男『あ、えーと、、ライトは点くかな?』
女『何で?』
男『あ、えーと、エンジン掛からないんだよね?バッテリーがあがってるかも知れないから』
女『何の?』
男『え?』
女『ん?』
男『車のバッテリーがあがってるかどうか知りたいから、ライト点けてみてくれないかな?』
女『別にいいけど。でもバッテリーあがってたらライト点かないよね?』
男『いや、だから。それを知りたいからライト点けてみて欲しいんだけど。』
女『もしかしてちょっと怒ってる?』
男『いや別に怒ってはないけど?』
女『怒ってるじゃん。何で怒ってるの?』
男『だから怒ってないです』
女『何か悪いこと言いました?言ってくれれば謝りますけど?』
男『大丈夫だから。怒ってないから。大丈夫、大丈夫だから』
女『何が大丈夫なの?』
男『バッテリーの話だったよね?』
女『車でしょ?』
男『ああそう車の話だった』

バッテリーコピペ


というコピペだ。男女の感覚の違いとしてよく見る。つまるところ、女は車の不調を共有したくて男は不調の原因を調べて解決したいという脳の違いを書いたものである。

反AIはAIをどうにかしたいのではなく、勝手に学習されていることへの不安を共感して共有したいだけなのだろうという意見だ。自分もこれはそうかもと思う。

もちろん本気でAIをどうにかしたい人もいるだろう。しかしそういう人たちにとっても共感したい層は味方とは限らない。いざ戦おうとなったときに隣にいてくれるとは限らないだろう。そんな大事になると思ってなかったと消えるはずだ。

ウォーターマークやらに安心するのも納得だ。効果の是非はともかく、何かしたという実感が欲しいのだろう。

反AIの人との論争を眺めたりもしていたがやけに話が噛み合わないというか聞き入れてもないことが多かった。だけど相手は解決したいのではなく共感してほしいのだから。

どうしたらいいのか?

まずパニックになるのをやめよう。人はパニックになりやすいし伝播するものだ。その焦燥は本当に自分で起こしているか?その怒りは本当に自分で起こしているか?

AI自体はどうにもならないことを理解しよう。技術というのはいくら危険でも作れるとわかった時点で繁栄してしまうものだ。もしAIを断絶できるのなら、とっくの昔に銃も、核も、麻薬も断絶できているだろう。

学習は免れないというのも理解しよう。法律上、学習は違法に当たらない。それにインターネットを使うにあたって既にいろいろ学習されてもいる。いまに始まったことでもない。さっき言った通り特定の絵柄に寄せていたりすると著作権違法になりうる。これは手書きでも同じだ。自分の絵柄が真似されてると思ったら訴えたらいい。

学習をどうにかしたいのなら法律を変えるしかない。それは政治家なりなんなりになるしかないだろう。少なくともツイッターでヒステリック起こしている場合じゃない。

それでツイッターをやめよう。いやインターネットもやめよう。そんなところで騒いでも何もならない。ツイッターは世界ではないのだから。プラカード持ってデモ行進でもしたほうがよっぽどいい。

AIイラストか否か見分けるのはやめよう。無理です。前にあらいずみるい先生がAIを疑われていた。恐れていたことが起きたと戦慄した。結局AIは使ってないのだが、疑った人は謝らないし、いまだに疑う人もいる。これからわかることはAIか否かを見分けることは不可能ということだ。疑うのなら確たる証拠を持ってからにしよう。

外に出よう。プラカード持って。ツイッターをやってる人なんて殆どいないのだから。生成AIがどうとかも知らない人がいる。そういう人に教えるためにも外に出た活動をしたほうがずっといい。運動にもなる。日にも当たろう。

最後に

自分はAIのべりすとに課金してイラストAIに触れることができたが、正直イラストAIも小説AIも補助ツールでしかないという感想だ。イラストはいつまでも欲しいイラストは出さないし、小説はバカみたいに冗長だ。結局自分で書けるのが一番凄いし偉い。

生成AIは便利な存在であるはずだ。結局のところ悪い人間が使うから悪いという、いつものやつなのでつまらないとも思う。

法律上問題がないならそれに従うしかないのだ、法治国家なのだから。それを感情で覆そうとするのは司法に対する挑戦だろう。感情で裁判が行われる世界がどうなるのか、少し想像してみてほしい。

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