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【SPIRIT of SEAGULLS】vol.5「やってやれないことはない、やらずにできるわけがない」紺野太典(’07年度卒)


「SPIRIT of SEAGULLS」とは…
多方面で活躍するSEAGULLS OBに、在籍中に感じたことなどについて執筆してもらう連載企画です


「門を叩こうと決心」

 高校3年のインターハイが終わり、引退を迎えた。進路を考える時期を迎え、当時の私は葛藤の毎日であった。母親が高校の体育教員でバスケットボール部の顧問だったこともあり、幼少期から体育館に連れて行ってもらい、その姿を見て、小さい頃から体育の教員になってバスケットボールの指導者になりたいと志していた。私が在籍していた高校は県内有数の進学校であり、推薦で入学し、手前味噌であるが成績は上位であった。高校在学中は勉強・部活動とも自分なりに取り組み、ある程度の結果を得ることができ、高校入試のように入試を失敗したくないという思いから、体育系大学・学部への進学ではなく、他の大学へ指定校推薦で進学しようと考えていた。そういった中で進路について家庭で話を繰り返し、小さい頃からの夢にまで背を向け、そのような保守的な考えを持っていた私は母親の一言で目が覚めた。「あなたは小さい頃から何になりたかったの?体育の教員になって、バスケットボールの指導者になりたいんじゃないの?」自分自身の弱さを痛感すると同時に「今まで何のためにここまで努力してきたのか。」と自問自答を繰り返し、「小さい頃からの夢を掴むためにここまで努力してきたんだ。小さい頃からの夢を大事にしたい。」と決心するに至った。そこからは早かった。周りと比べるとバスケットボールの素質も能力も無い自分であるけれど、夢・目標に向けて勝負するなら、

「たった一度しかない人生「強豪校で勝負したい。」

と考えるようになり、陸川コーチが就任してから関東で急成長を遂げていた東海大学に惹かれるようになった。私の一つ上の学年には、当時「Jファイブ」と呼ばれていた竹内譲次さん(’06年度卒/現・大阪エヴェッサ)、石崎巧さん(’06年度卒/元・琉球ゴールデンキングス)、内海慎吾さん(’06年度卒/現・京都ハンナリーズ)、阿部佑宇さん(’06年度卒/元・パナソニックトライアンズ)、井上聡人さん(’06年度卒/元・東京サンレーヴス)がおり、私自身プレイヤーとして華々しくプレーできなくとも、将来指導者としてより多くの人との縁を築きたいとの思いもあり、東海大学へ進学することを決め、門を叩こうと決心した。


「光と影」

 入学して間もなく、Bチームに入った。Bチームは大学の体育館で練習することもあったが、平日の週2日程度は近隣の中学校や公民館で練習。Bチームといえども練習中は緊張感が漂い、ハードワークすることが求められ、Aチームからきたプレイヤーや全国大会出場経験のあるプレイヤーもいるなど、非常に高いレベルでの練習であった。入学当初は特に、大学でのバスケットボールの戦術や練習内容はもちろん、チームに対する様々な考え方など、先輩やスタッフから教えていただいたこと全てが目新しく、今までのバスケット観・人生観を塗り替えるほど、私にとってはカルチャーショックの毎日であった。しかし、多くの先輩方、スタッフ、そして生涯の友である同期に恵まれ、支えられながら日々吸収し、「Aチームに入りたい。」「代々木体育館でプレーしたい。」そう抱き続けて練習に打ち込んだ。

同期である小林慎太郎(右/元・熊本ヴォルターズ)と

 結果的にAチームに入ることができず、代々木体育館でプレーすることも叶わなかったが、陸川コーチの存在が私の心の支えであった。陸川コーチはAチームだけでなく、Bチームのメンバー一人ひとりとのコミュニケーションも大事にしてくれ、時折Bチームの練習にも顔を出してくれるなど、「陸さんはいつも自分たちの事も見ててくれているんだ。」そう感じ取りながら練習していた頃が思い出される。また、当時はAチームの試合にBチーム全員で応援に行き、Bチームが試合のときにはAチーム全員が応援に来てくれる。これがまさに「BIG FAMILY」の姿の一つである。確かに表面上ではAチーム・Bチームに分かれているが、一人ひとりが家族のように思いやり、支え合い、励まし合う。これだけ愛に満ち溢れているチームは全国を探してもそう多くないであろう。

 そういった陸川コーチの姿勢やチーム愛を感じ、大学2年生頃から、徐々に私自身のバスケットボールに対する考え方が変化し始めた。「Aチーム」「Bチーム」にこだわるのではなく、

「SEAGULLSとして、どうバスケットボールに向き合っていかなければならないか」

と考えるようになった。当時のSEAGULLSでは「爽やかに、ひたむきにバスケットボールに取り組み、愛されるチームになる」ことが風潮としてあったため、自分自身、チームのために何ができるのかを考え続けた。考え悩んだ末、バスケットボールの力も才能もないからこそ「コート上で目一杯Spiritsを表そう」と決め、誰よりも声で鼓舞し、誰よりもルーズボールに飛び込み、誰よりもハードワークすることを心掛けた。その姿勢を周囲が感じ取ってくれ、どんなときでも支えとなってくれた同期のメンバー。そして当時の学生コーチであった学年一つ下の鳩貝雄太(現・茨城県古河第一高校教諭)、小滝道仁(現・秋田銀行女子バスケットボール部監督)が自分らの意志を汲み取ってくれ、時にはぶつかり合い、時には共に泣き、いつも練習しやすい環境を作ってくれた。仲間の支え、協力があったからこそ、目先の結果に囚われず、自分なりに考えたSEAGULLSのバスケットボールをやり抜くことができた。関わってくれた全ての方々に感謝している。


 この大学生活4年間で学んだこと、それは計り知れないが、陸川コーチの姿勢そのものが、今の指導者生活の根幹となっている。決して光だけを重視するのではなく、影にも目を向け、一人ひとりの小さな行動や努力を認め、信頼関係を築き、チーム全体として進化・成長していく。

「人は必ず一剣を持している。」この言葉と陸川コーチの姿勢が重なる。そういった想いを胸に、後に紹介する卒業後の指導者生活へと繋がっていく。

「やってやれないことはない、やらずにできるわけがない。」

 大学卒業後はなかなか教職につけず、長い下積み生活を経て、平成26年から現在の古川学園高等学校に着任し、男子バスケットボール部の顧問となった。当時のバスケットボール部は「部員が毎日揃わない」「無断欠席は当たり前」「目標・目的がない子ばかり」「少し熱を持って指導すると練習に来なくなる」など、私が思い描いていた指導者生活とは全く別物であった。ある日、雑誌で京セラ・KDDIの創業者の稲森和夫氏の文面に出会った。「企業業績と経営者の全人格はイコールだ。会社の業績はあなたの全人格のそれ以上でもそれ以下でもない。」まさにその言葉に胸を打たれた。指導者として忘れてはいけないものを忘れかけていた。そこから部員や生徒にではなく、自分自身の行動こそ見直さなければならないと痛感し、次第に「古川学園でバスケットボールをしたい。」と言ってくれる生徒が増えるようになった。現在チームは県ベスト8に位置しており、生徒らは日々の練習に熱心に励んでくれている。

 私の目標は「地方のチームで、地方出身の選手で全国大会に出場する。」である。当時陸川コーチから教えて頂いた言葉がある。

「やってやれないことはない、やらずにできるわけがない」

この言葉を胸に、目標に対して真摯に向き合い、知恵を絞って活路を見出し、強い思いは必ず実現すると信じ、日々の指導に邁進していきたい。

 全国各地でプレイヤーとして、各カテゴリーの指導者としてSEAGULLSのOBが数多く活躍している。高校の指導者目線の話になるが、育成世代は競技結果が全てではないと考える。我々がSEAGULLSで学んだことをいかに地域の子どもたちに伝え、その子どもたちがどういった人間となって世の中で生きていくのかが重要であると考える。

 今年度、初めて高校の教え子が東海大学に進学し、SEAGULLSの一員になることになった。より多くのSEAGULLSイズムを持ったOBが全国各地でバスケットボールに携わり、学んだことを波及させることで、その地域・県・日本のバスケットボールが成長・進化すると確信している。

 私にとってSEAGULLSは「広大な庭」で、自分で庭を耕し、雑草を取り除き、草花の種をまき、それを育む場所であった。指導者となってもSpiritsを忘れず、育てた大切な花をいつまでも持ち続け、共感してくれる子どもたちと共に、目標に向かって強く歩んでいきたい。

遠い地より、東海大学男子バスケットボール部SEAGULLSの益々のご発展を祈念するばかりである。


・紺野太典(こんの だいすけ)
宮城県大崎市出身。東北学院高等学校を卒業後、SEAGULLSでプレイヤーとして活動。平成26年より現在の古川学園高等学校に着任。平成29年から宮城県国体少年男子のスタッフを務める。令和元年度茨城国体では宮城県少年男子監督を務め、準優勝を果たした。

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