ついったらんどの功罪
わたしとツイッター
最初にツイッターのアカウントを作ったのは2008年だったと思う。
たいしたつぶやきもせずゆるく眺める程度で、2010年結婚を機にアカウントを消した。
次にアカウントを作ったのが2013年、国家資格試験に合格したので同期合格者や同業者をフォローしつつまた特につぶやかず、2015年にはアカウントを消した。
その後仕事関係の情報収集用にまたアカウントを作ったものの、いわゆるROM専で、ツイッターがどういうものなのかについては疎かった。
2010年代後半、バカッターなどと揶揄され倫理観のない若者の投稿が事件化するのをニュースで見ていたが、ふうんと思う程度で。
時は2019年。前職での積もり積もった不満がとある出来事をきっかけに爆発し、転職をした。
それまでずっとROM専だったのは仕事で不満があっても公言すべきでないという気持ちが強かったからで、転職してその気持ちから解放され、今までのWMの扱いに関する不満やつらかった気持ちを吐き出したい、同じような経験のあるWMや転職して思い描くキャリアに復活できたWMとつながりたい、そんな気持ちでいわゆるWMアカウントを始めたのが2019年2月。
2019年4月に上の子が小学生になったこともあり、仕事の敗者復活かつ小1の壁を乗り越えるWMアカウントとしてつぶやきを重ね、2021年1月にはフォロワー4400を超えていた。
そのアカウントも、当初の目的を達成することができた(前職でのWMの扱いに関する不満やつらかった気持ちは十分吐き出せたし、同じような経験のあるWMや転職して思い描くキャリアに復活できたWMともつながることができた)し、ツイッター自体が当初思っていたのとは違う世界に思えてきたので、2021年1月に閉じた。
ツイッター自体は非公開アカウントで続けていて、気心知れた相互さんとひっそりではあるが相変わらずツイ廃ライフは続いている。
ついったらんどの功罪
「ついったらんど」とは、ウェブ上の活動空間としてのツイッターという閉じた世界を表す言葉である。
ついったらんどには本当にいろいろな人が生息している。
フォローする相手は自分で選べるとはいえ、非公開アカウントにしない限り、自分の些細なつぶやきが老若男女・実生活でまったく接点のない環境の人の目にも触れる。
そうなるといろいろ大変である。
前提が違いすぎて相互理解ができない。
心無い言葉が飛び交うのも日常茶飯事である。
思考を整理するツール
思考を整理するツールとしてのツイッターは、非常に有用である。
わたしはツイ廃だが、自己顕示欲や承認欲求でつぶやいているのではなく、頭の中に溢れるいろいろな感情やアイディアを言葉にして整理していくための吐き出しツールとして使っているからツイ廃になるのである。
日常のメモも兼ねているので、あの日あの時の自分の言動について確認することもできるし。
頭の中をすっきりさせるためのツールとして使っていると、必然的につぶやきが増える。
ある種の脳内デトックスである。
これが、頭の中に考えやアイディアが溢れていない人には到底理解できないようで、自己顕示欲や承認欲求でツイッターをやっていると思われる。
フォロワーが増えてくるとその傾向は顕著で、バズり狙いと思われることもあった。
永遠にわかり合えないついったらんど。
仲間が見つかっても現実ではマイノリティのまま
同じような悩みを抱えていたり同じような境遇にあったりする人、現実ではなかなかわかってもらえなかった悩みや境遇を理解してくれる人と何十人、何百人とつながることができ、自分はマイノリティじゃないと錯覚してしまうことがある。
しかし、現実で理解者が見つからない状況はさほど変わっておらず、今も現実ではマイノリティなのだ。
マイノリティが集まりマジョリティだと錯覚して市民権を得たように見えても、ここはあくまでウェブ上の活動空間、ついったらんどである。
所詮匿名だし。
これについてここ最近強く感じることがある。
男子がピンクを選んでもいい。(そう思う!)
ピンクを選ぶ男子を差別するな。(そう思う!)
女子だからピンクと決めつけるな。(決めつけはよくない)
女子だからってピンクを選ばなくていいんだよ。???
最近この4番目が本当に多いと思う。
ピンクを選ぶ女子は固定観念にとらわれているに違いない、解放してあげよう的なお節介。それいる?
それから、自分や我が子がマイノリティであることを認めたくなく、自分や我が子の存在を根拠に反論するタイプ。
男の子は○○な子多いっていわれるけどそんなことない。うちの子は違う。(それはあなたの子が世間的にはマイノリティ)
うちは女の子だけど○○。男の子だからってことはないと思う。(それはあなたの子が世間的にはマイノリティ)
男の子だから○○、女の子だから○○って決めつけるな。(決めつけはよくないが、一般にそういう傾向があることと決めつけは分けて考えよう)
この現象について長らく考察しているが、自分や我が子がマイノリティであることを受け入れられずカッとなる、ムッとする人は本当に多い。
わたしは子どもの頃からずっとマイノリティ(田舎育ち、理系に進んだ女子、マイナーな職業)、自分自身が世間一般にいう女の子に当てはまらなくてもわたしはみんなとは違うから~っていう程度の気持ちで生きてきて、自分がマイノリティじゃないって否定することに労力を使ったことがほとんどない。
2019年初頭についったらんどにやってきたのも、ここならわたしを理解してくれるマイノリティ仲間がいるかもしれないと思ったからだ。
マイノリティであることを自覚し、受け入れてもらう、受け入れる、ただそれだけだと思っている。
今までマジョリティを生きてきた人ほど、自分がマイノリティになったときにマイノリティではないと主張したいように感じていて、マイノリティになったことに敗北感、疎外感があるように思う。
すべきことはマイノリティでないと否定することではなく、男の子は○○、女の子は○○の一般論から外れてる子を否定しない、受け入れる、だと思うのだが・・・ついったらんど、このところいつもこれで争っていて虚しい。
ついったらんどで仲間が見つかっても世では今もマイノリティ、そこは覆せないし、マイノリティの自分や我が子を受け入れて生きていこうよ。
マイノリティであることは自覚した上で、みんな違ってみんないいんだよ。
割かれるのは時間より脳内リソース
最近の最も大きな気付きだが、そもそもわたしはついったらんどに向いていない。
今更だが、ツイッターはわたしに合ったSNSではなさそう。
わたしは基本的に頭の中の整理、アウトプットがしたいので、ネタ垢やビジネス垢はびこるついったらんどのマウント、自己顕示欲をインプットしたくないのである。
脳内デトックスがしたいのに、余計な情報に脳内リソースが使われていき、デトックスとは真逆のことが起こっていた。
これを自覚したのは8~10月前半、国家資格試験受験のためにツイッターをなるべく見ないようにしていたときで、10月後半、ツイ廃に戻って改めて、ついったらんどは手を替え品を替え同じ話をしているだけで、脳内デトックスがしたいのにタイムラインを流れる大量のデブリを脳内に送り込んでいるのではないかと気付いてしまったのである・・・。
ツイ廃の問題は、時間の使い方というより脳内リソースの使い方だった。
ついったらんどがツイ廃から奪うのは時間だと思っていたが(もちろん時間もだいぶ奪われるが)、知らず知らずのうちに脳内リソースが多分に奪われ、そっちのほうが時間よりずっと大きな問題だったのである。
以上、いろいろ気付いたついったらんどの功罪。
自分の思考整理、それからフォローしている方々の日常が流れてくればそれで満足なのに、それでは済まないついったらんど。
今後のついったらんどとの付き合い方を模索する。
(2022.10.30 21:00 追記)
わたしはマイノリティとして生きてきたので、自分がマジョリティになることに対して漠然とした不安があるのかもしれない。
ツイッターの以前のアカウントでフォロワーが増えて(現実ではマイノリティとはいえど)ついったらんどではマジョリティになる道が見えたこと、わたしにとって望ましくはなかった。
わかる人だけわかればいい。マジョリティは目指していない。
マジョリティになれば自我が保てなくなる気がする。
マジョリティとして生きてきた人がマイノリティになったときに感じる敗北感、疎外感があるとしたら、わたしはその逆で、マジョリティになると自分自身が波に飲まれる、埋没してしまう感覚があって、唯一無二のマイノリティな自分と思っていないと自我を保つことが難しいのかもしれない。