バ美肉×お砂糖×メタバース雑感

 

我々はどこへ

かつて神は人間を創り、「産めよ、増えよ、地に満ちよ。地を従わせよ。」とかなんとか言って野に放った。

数千年間にわたり我々を導いた神もついに死に、依拠すべきものを失った人類は、世界で路頭に迷った。

そして、ここ、メタバースには最初から神などいない。 

 

バ美肉

VRの普及と個人勢vtuberの台頭で、バ美肉という概念とその実践が普及した。

バ美肉は「バーチャル美少女受肉」の略であり、男性が女性のアバターを用いて仮想的に美少女になることを指す。美少女から野太いおっさんの声がするグロテスクさが世間の関心を呼び、各所が取り上げたのも一昔前の話だ。

今となっては「バ美肉」が死語になっていることは否めないが、これは概念の普及が至ったゆえにそれを指す一意の言葉が不要になったためだろう。実際、バーチャルの世界で美少女として受肉する行為はもはや「バ美肉」と呼称しなくても問題ないほど界隈で認知、実践されている。

また、「バ美肉」が「中身がおっさんである」という嘲笑的な意味を包含することも要因だろう。この事実から意図的に目を逸らそうというはたらきがバ美肉を死語にしたのではなく、中身がおっさんである事実に取り立てて注目しなくても良くなったのだろう。バーチャルの世界で女の姿で生活する行為はそれだけ受容されており、最早当たり前であるということだ。

ただ、このように漫然と普及したバ美肉にも功罪がある。

提示された魅力は「オンナノコになれる!」のみであり、また実際それ自体がバ美肉のゴールである。それに惹かれたバーチャル女体化男性達は、バーチャルの世界で、女の姿で生を授かることになる。しかし、バーチャル美少女としてどう生きるか、バ美肉の観念とどう付き合っていくかはどこにも提示されておらず、またそれに対する暫定的な答えも公に存在していないない。

そんな荒野に彼らは、HMDという産道を通して、自身を、敢えて、産み落とすのだ。なにを求めてか。
 

神は二度死ぬ

かつては美少女になることが目的であり、それだけだった。

バ美肉フィーバーも落ち着きバ美肉が一般的になったところで、自身の存在を無条件に肯定する潮流を失った彼らは同時に美少女であることの意義を多少失う。

今は空前のメタバースブームだが、それに乗じてメタバースにやってきた人々が同じような意義喪失を経験するのも時間の問題だろう。

ここで仇となるのが、メタバースが「Virtual Reality」たる、「Reality(迫真性)」だ。メタバースが提供する「Reality」は、(大半の人間にとっては)ゲームと一蹴するにはあまりにも生々しく、ましてそこにいるのが生きた他人の、本人よりも本人らしい写し身であるから、尚更である。

バーチャルの世界に生存危機はない。まず訪れるのは existential crisisである。存在意義を失い、既にメタバースの表面的な部分を遊び尽くした彼らは、最後に、現実のそれに迫る生々しい被投性に直面することになる。

現実との唯一の違いは去る事ができる点であり、実際に去る者もいる。しかし、メタバースの何かにとりつかれた人々は、ここで「生きる」ことを「強いられる」。

どこに行けば良いのか、何をすれば良いのか、何をすれば楽しく、満たされるのか。そんなことは誰も教えてくれず、最後に、それに対する答えは最初からどこにも無かったということに気づく。

表面的な指南はある。「ゲームワールドに行こう」「イベントに参加しよう」とかだ。しかし、こんなものは人生の意味を見つけあぐねている人に「山に登ろう」「友達を作ろう」と言っているようなものである。虚しいまでに響かないのだ。

この問いに対する真の回答は存在せず、これは、自分の存在を以って、実感を伴いながら「獲得」するほかない。

  

お砂糖

お砂糖もまた、バ美肉と同様に、メタバース人のアイデンティティと奇妙な関係を形成している。

お砂糖というのは、メタバース上で他者と恋愛関係を築く行為を指す。新しいのは、ほとんどのカップルが男性同士、しかも女性のアバターを被った男性同士であるという点だ。

昨今のゲイ・ライツ・ムーブメントの再興や、多様性を至上とする世間の風向きを満帆に受けて、お砂糖は新たな性の形としての評価を得つつある。

一方で、お砂糖に対しては「女の格好をした(おそらく現実ではインセルの)男が、また別の女の格好をした男に欲情し、惨めに慰め合い、乳繰り合っているだけ」という批判も存在する。これは世間から投げかけられる心無い軽蔑であり、また部分的には、お砂糖の実践者達が目を背けたい事実でもある。

今のお砂糖の立ち位置は非常にややこしいところにあるのだ。

このような世間による軽蔑から自身を防衛するため、また、自身の内部にある不協和を解消するため、一部のお砂糖実践者は先に述べたような外部的な評価に依拠して自己を正当化する。

お砂糖をすること自体に価値を見出し、お砂糖をする自分を正当化する。お砂糖をすることは素晴らしいことであり、それ故私は素晴らしいのだと。異性との恋愛にかまける者が居れば、「やっぱり女のほうがいいんだね」と軽蔑する。そうして自分と周りの世界との不和を塗りつぶす。そういった、手段と目的を悲しくも履き違えてしまった人がメタバースには散見される。


しかし、お砂糖は実際のところなんら特別なことではない。

「特別なことではない」というのは「(願望の実現に近づく手段があれば利用するのが人間であり、そのはたらきは)特別ではない」ということだ。

言わせてもらえば、「女の子になって百合百合したい」というのは昔から多くのオタクが唱えていたことである。お砂糖の出現が、オタクの価値観がアップデートされたということへの根拠にはならない。

恋愛をしているのは、かつてのそのままのオタク達である。変わったことといえば、手段が与えられた事と風潮が後押ししたということだけだ。

しかし、特別でないからと言って、ダメだとか無意味だとか言っている訳では全くない。ある集団に自己実現の手段が与えられ、それが普及していることに対して、批判する理由も、何か言う理由もない。

また一方で、これに対して「(技術革新が自己実現の自由度を拡張した素晴らしい実例として)特別である」というもう一つの側面が混在するアンビバレントな状態にもなっている。


愛するということ

恋愛とは性欲からのみ起こるものではなく、友愛が昇華して生じるべき物である。相手に対する思いやり、相手と本質的に交わりたいという気持ち、相手と同一になりたいという気持ち。そういった言葉にしがたい純粋な引力があなたと誰かを結び合わせ、恋の形を成す。

しかし、現実の恋愛は、多くのノイズによって歪まされ、ぼやけてしまう。それは容姿や学歴、地位、収入、そして何より、性だ。金銭や生理的欲求といった種々の欲望があなたを惑わし、未成熟な偽の恋の形を成して誘惑する。

現実の世界で真の愛を求めるなら、あなたはこれらを退けなくてはならない。しかし、この物質世界に、また物質的な肉体を持って生きる限り、誰もこの枷から逃れることはできないだろう。

そう、物質世界に物質の体を持つ限り。メタバースにはそれらがない。仮想世界には生存危機も生殖もない。人々は自分の中の何かを反映した仮想的なアバターを各々作成し、それを纏う。そこに肉体的な柵(しがらみ)は存在しない。マーラは去ったのだ。

あなたの目の前にいるのはもはや、いずれかの生殖器をぶら下げた生身の人間ではない。おそらく人間存在のもっと純粋な部分であり、核である。あなたはそれに、場所や境遇、地位、容姿、性的指向のような多くの障壁を越える必要なく、触れることができる。

人間の核と核、魂と魂が触れ合う。そこに現実世界ほどのノイズはない。愛があればそれは、きっとよほど純粋なものになり、おそらく、だからこそ、異性愛者が同性を愛することだってできる。

大概のメタバース人は可憐な女の姿をしている。それが性的指向の超越に貢献しているのかもしれない。それは無視できない。しかし、アバターがその人の何かを写しとったものであり、メタバース上のアバターが押し並べて美少女であるとき、「誰か」に特別に惹かれる気持ちに、嘘はあるだろうかと私は思う。

メタバースというのは、きっと、人類が初めて手に入れた、真の愛を実践できる場所なのだろう。それがお砂糖が讃えられる理由であり、私はそれに対する反論はない。

しかし、愛は誰に何と言われようと愛である。なぜ「お砂糖」というラベルに拘る必要が有るだろうか。これは、お砂糖の特権性を幻視し、その虚像に縋っている人々に向けた問いである。

まさか、自分の愛が「お砂糖」であるということに、自分の愛の真性の根拠を求めているのだろうか。ノイズに塗れた現実の恋愛と対比してお砂糖の優越性を語っているのだろうか。だとすれば、それは因果が逆である。また、あなたの愛はそのような後ろ盾が必要なほど脆弱なのだろうか。

「お砂糖」は、手段でも目的でもない。特権でも勲章でもない。ただの現状であり帰結、それに与えられた名前である。

人を愛することは素晴らしいことだ。しかし、やはり、そこに外部的な意味付けを求めるのは、愚かなことである。自分の愛は自分の言葉で語ることができるべきだ。あなたはこの世界で、一人の他人に惹かれ、愛する。向こうもあなたを愛し、二人の間には魂のつながりがある。そこに「お砂糖」の助けは必要ない。

現実の愛と優劣を比べる必要も、負い目を感じる必要もない。誰かと比べる必要もない。外部からの意味付けを求める必要もなければ、また受けるべきでもない。あなたの愛を信じてあげられるのはあなただけである。ただ胸を張って、その愛を見つめ、パートナーと築くかけがえのない全てを謳歌すればいい。

あなたの抱く愛はあなたのものである。メタバースで人を愛するならば、この無限に開かれた希望と、誰にも縛られない純粋な愛の形を、どうか、何にも邪魔されず、一人、いや二人の存在として、享受してはもらえないだろうか。

 

なんのために生まれて

メタバースに生を授かることは、実に困難な試みである。

現実の実存問題ですら解決できていないのに、新たな世界で、新たな生と、それに付随する諸問題を経験しようとしているのだ。はっきり言って正気の沙汰ではない。

世界の中で路頭に迷った時、何をすればいいのだろう。何を頼りに、どこへ進めばいいのだろうか。

私にはわからない。考えてわかるようなことでもない。

ただ、一つ伝えたい事がある。

いいか、キミたちはメタバースを作る「主体」だ。キミの生き方がキミのメタバースを形作る。すなわちメタバースとはキミたち自身なのだ。

楽しければ楽しめばいい。苦しければ足掻けばいい。それがメタバースで生きるということであり、「世界」で生きるということである。

遊び、苦しみ、生きよう。そのすべてがメタバースを作り、そしてそれだけが、世界とあなたに、ありもしない「意味」を与えられるのだから。


 
 
 


(アフィリエイトなし)

 

 

補遺

メタバースとの付き合い方は人それぞれだ。

ゲームと割り切ってプレイ出来ている者も居るし、もう一つの世界として捉えた上でそこに自己の存在意義を見出せている者も居る。現実での自己実現に失敗し、半ば現実世界を諦めるような形でVRに生を授かった者もいる。もちろん、メタバース自体に魅力を感じず、「時間の無駄」と去るプレイヤーだって居る。

今回述べたような存在危機に直面しているプレーヤーは一部に過ぎないだろう。大半は「そんなに真剣に考えたこと無いわ」という感じじゃないだろうか。しかし、漠然とした「なにをすればいいかわからない」や「居場所がない」という意見が散見されるのもまた事実である。今回はバ美肉から話を広げたが、このような状態に陥る人は別にバ美肉勢に限らなくとも居るはずだ。

こう言った人々は、おそらく、メタバースの世界での、この被投性を認識できていない。(もしくは認識した上で甘んじて受け入れている。)もちろん、従来のゲームは全てをお膳立てしてくれる訳だから、それと同じ心構えでメタバースに降り立った人々がそのギャップに気づけないのも無理はない。しかし、メタバースは仮想「世界」であり、我々が現実を生きるのと同じように、「世界を生きる」という態度がどこかで必要になってくるのだ。

メタバースでは「なんでもできる」らしいが、実は「なんでもできる」というのは非常に残酷なことである。無限に開かれた可能性を自身で開拓しなくてはならない。誰も、何をすればいいか教えてくれず、実際何をすればいいかなど決められていない。当然、何もしなければ何も起こらない。お気持ちや初心者ガイドでよく見られる「vrchatでは自ら行動しなくてはならない」という意見の真に意味するところはこれだろう。

だからと言って、挑戦して失敗をすればそれは全て自分に返ってくるのだ。可能性を収束させる作業は痛みを伴う。メタバースには、現実のそれと遜色ない苦しさともどかしさが存在している。

私自身、vrchatというメタバースで何をすればよいのかわからなかった。他人の真似をして可愛いアバターを纏い、フルトラ(全身の動きをvrに投影できるデバイス)で寝そべったところで、これがどこへ向かっているのか見当がつかなかった。

過去、海外勢にこのフラストレーションの責任の一端を押し付けようとしたことがある。当時は少し冷静でなかったことは事実だが、今でも記事の内容が間違っていたとは思わない。あれは私の目から見た事実である。あの記事は誰を批判するつもりもなかった。世界は、誰が善い悪いに関わらず在り続けるものである。その中で人々が気体の分子のように自由に動き回り、その乱歩が世界にさざ波を起こす。私はその流れ行く世界の中で、一つの分子として、記事を書いた。それ自体に「意味」があったのだと思う。「自ら行動する」とはそういうことなのだろう。

お砂糖については、話の本筋とはあまり関係なかったが、界隈に通底する地獄みにモヤモヤしていたので書いた。色恋だけでも十分に地獄を招くというのに、そこに、お砂糖を過剰に持ち上げる者、持ち上げられたイメージに依拠して自身を正当化しようと試みる者、あまつさえ、そのイメージの威を借るために強いてお砂糖を実践する者までいるのだ。新たな性の形態であるから、社会と自分自身の中に存在する奇異と偏見と軽蔑のまなざしに対して、このような形で武装するのも仕方ないことではある。しかし、愛というのはそういうものではないだろう。外部的な観念に立脚できるものではない。愛というのはもっと自然発生的で、独立したものであると思う。より真に迫った愛を実践できる環境がやっと手に入ったはずなのに、不要なdistractionを作り上げてそれを手放せない人が多い。これに私は苛立っていた。もっと、この、自由で真な愛を育めるプラットフォームを、ただ、何にも邪魔されず謳歌してほしいのだ。

ただ、最も散見される地獄は、一方が本気だったのに、もう一方は、仮想世界における恋人のごっこ遊びのようなものだったというものだが、その辺に関しては人間が二人以上居れば避けられない悲しい何かであり、特に言うことはない。

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