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読書リハビリ:一般

昨年、東京で行われた文学フリマへ初めて行った。
前日に急遽行こうと思い立って、ざっと出展を確認して購入したいものをリスト化した。
当日は朝早くから参加したこともあってか、リストに入れたいくつかはまだ出展していなかった。

あと、男性2名が腕を組んで並びで座っていたところは、気後れして購入できなかった。
男たちの目線は一定で、前を強く意識しており、ただ正面を向いていた。何か話す風でもなく、ただ並んで座っていた。
そしてテーブルには1種類のZineがうず高く積まれているのみだった。
なんか、いかついラーメン屋みたいな感じだったので、そこはスルーした。

ひとまわりして、数冊購入したのだけど、いつも通り読む方は遅々として進まなかった。
ようやく、年末年始に1冊を読み終えた。
オルナタ旧市街の「一般」だ。

一般:オルタナ旧市街

以前に文學界のエッセイ特集で目にして気になっていたので、購入してみようと思いリストに加えていた。
文学フリマ当日、出展スペースにて「一般」を購入、もう1冊も一緒に購入してしまおうかとも思ったのだけど、
初めての文学フリマだったので、序盤に勢いで買いすぎるのも何かなと、購入を見送ってしまった。
オルタナ旧市街の出展はいかついラーメン屋のようではなかったので、安心して購入できた。
ただ、こういう時、何か話すべきなのかどうかがわからず。
知っているのに、「内容はエッセイ集といった感じでしょうか?」のような質問をしてしまった。
多分、何度行っても慣れないと思われるので、正しい応対のテンプレートを作っておきたいものだ。

一般

旅行記やエッセイをまとめた作品集。
個人的に行ったことのある台湾、宮古島といった場所の旅行記があったのも購入の理由であったかもしれない。
ただ、ぼくが最も好きな一編は旅行記ではなく、祖父の話だった。

バス停、顔たち

痴呆症になった祖父と同居していた頃の話。
痴呆症と言っても年中話が通じないわけではなく、唐突に話が飛んでしまったりするらしい。
昨日はダメだったけど、今日は大丈夫ということもあったり、機嫌が良かったり、悪かったり。

中でもバスが来るエピソードがやはり印象深い。
徘徊してしまうようになった祖父を見守り、外出する際には筆者が付き添うようになっていた。
そんな中に訪れた祖父の行為が、バス停に向かうことだった。

「バスが来るよ」
祖父はひとことだけそう呟いて、何もない道端でしばらく立ち尽くしていた。
わたしはそのまるい背中を見つめて、数分ほどそうしたあと、今日はバスはおやすみらしいよ。と平然とのたまって、祖父を帰路にうながした。
それが祖父に唐突に訪れた、最後の日課だった。

「一般」オルタナ旧市街

認知症になった祖父は何を感じていたのだろう。
そのメカニズムは一旦置いておいて、自身が感じたことを行動に移すだけだったのかと思った。

その短い巡礼が何を意味するのかはまるでわからなかったし、初めて祖父のことを怖いと思った。いったいどの時代の、どこにあなたは立っているのですか。隣にわたしは存在していますか。それはどんな顔をしていますか。わからない。わかれない。わかろうとしていたことが、愚かだった。

「一般」オルタナ旧市街

認知症になると、配偶者のことすら忘れてしまうらしい。
孫ならなおのこと、顔も名前も出てこないのだろう。
でも時には思い出したり、思い出したふりをしたりしているのかもしれない。
それはもう「件」になった「私」が見知った人に囲まれているような感覚なのかもしれない。

祖父はたった一人で強制的にタイムトラベルをさせられていたのだ。目が覚めるたびに、まばたきをするたびに、ドアを開けるたびに、時代も場所もめちゃくちゃに飛び越えてしまう。いつだって混乱していて当然の状態だと思う。

「一般」オルタナ旧市街

祖父の行動にはその瞬間には本人にとって整合性の取れた行動だったのかもしれない。
ただし次の瞬間にはその起因するものすらどこかに行ってしまっている。
忘れる、のではなく次の認知がやってきて次の行動が始まる、または行動が止まる。

良かった。これは良かった。
購入して良かったし、何度か読み返したくなるものだったな。

オルタナ旧市街のnoteもあった。


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