やばいファン

「私、結婚するの。」
久しぶりに実家に帰ってきて開口一番、娘はそう言った。
「へえ?相手はどんな人なんだ?」
両親への挨拶もなく結婚を決めるなんてどんな馬の骨の野郎だ、そう言いかけるが、本音を押し殺して顔色ひとつ変えずに言う。この時代だ。21世紀ともなれば、そんな結婚の形もあるのだろう。
「そんなにびっくりしないでよ。私もう22歳だよ。」
「驚いてなどいないが。質問に答えなさい。」
どんな相手であろうと受け入れよう、受け入れるべきだ。俺はこの家の大黒柱だ、ちょっとやそっとのことでは動揺などしない。何にしろ、22年間ひたすらに、愛情を注いできた娘が結婚するというのだから、親として祝福しようじゃないか。
「相手は前に話した好きなバンドのギタリストなんだ。認知もされてる。結婚しようねってDMには、ハートが押されてたし。」
「……ん?」
「あ、DMっていうのは、インスタグラムっていうSNSのメッセージだよ。」
「いや、そうではなくて……」
それは合意の上での結婚ではないぞ。そう言いかけるが、それもぐっと堪える。
「……よく、考えてみなさい。相手も、結婚したいと言っていたのか?」
「ハートが押されてたってことは、結婚したいっていうことだよ」
「そうだろうか」
「そうだよ」
娘は凛とした目で言う。その目に一切の曇りはない。
「いいか、結婚というのは、お互いに合意がないとできないものなんだ」
「だから、DMにリアクションが来たのが合意だって言ってるじゃん」
「そうか?」
「そうだよ」
「……。」
娘は眉間に皺を寄せ、コーヒーを一口飲んだ。
「……ごめん。本当はわかってる、私が一方的にすごく好きなだけなんだ。今でいうガチ恋だとか、リアコってやつ。でも本当に結婚したいって思ってる。これは本当」
娘はそう言って少し目を伏せて微笑んだ。
「いつかパパに紹介できるようにもう少し頑張るよ。私もバカじゃないから、さ。」
「……そうか。」
そこまで言うなら俺は、何も言わない。
そりゃ、無謀だ。娘の好きなバンドは武道館でライブをするようなバンドだ。
「メッセージにリアクションが来たのは、良かったな」
「うん、気まぐれな人なんだ」
「もっと彼の話をしてくれ。息子になるかもしれないんだから……いや、息子になるんだろ?」
「そうだね。じゃあまずはこの曲、いやライブ映像のほうが……いや……」
そう語る娘の目は輝いていた。今日は暖かいな、とふと思った。
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俺は30年前、好きだったアイドルに毎月ラブレターめいた手紙を書いていた。ある日返事が来た。いつも応援してくれてありがとう、手紙読んでいます、という取り止めもない内容だった。
嬉しくて、手紙を送る頻度が増えた。相手も時々返事をくれた。
人気アイドルではなく、いわゆる「一発屋」と言われているアイドルだった。テレビ局はすぐに彼女を取り上げなくなったし、世間の話題はすぐに移り変わった。
それでも、俺は好きだった。ある日、「○月○日○時、銀の鈴の前で待ち合わせませんか」と書いて送った。相手から返事の手紙が来た。
浮かれた。大学生なりにとびきりのオシャレをして、待っていた。
相手は何時間経っても来なかった。日付を間違えたのかと、それから1週間ずっと毎日通った。
手紙を書いた。待っていましたが、見つかりませんでした、と。返事の手紙は二度と来なかった。よく考えてみれば、返事の手紙には、行きますなんて一切書いていなかった。
俺は、いわゆるやばいファンだった。
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「パパ、どうしたの?見てる?」
「いや……なんでもない。見てるよ」
昔のことを思い出してしまっていた。こんな青臭い記憶はもう忘れていたはずなのに。
思わず、目の前で汗だくでギターを弾く彼に、自分の愛していたアイドルを重ねてしまう。俺は、娘の気持ちが痛いほどわかってしまうのだ。
「お前の気持ちはよくわかった。ちゃんと、彼と結婚するんだぞ。俺との約束だ」
そう言うと、娘は不思議そうに曖昧に微笑んで、頷いた。
晴れている日の約束は必ずなのだと、俺は信じているのだ。

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