準備としての学習
読書記録4:『目的への抵抗』を書いている中で「準備としての学習」という概念を使ってみました。なかなかに根が深く、腰を据えて対峙していくべき概念であるように思われます。この言葉についてもう少し形を探ってみます。
まず、学習をするときには「何かを」学習することにはなります。学習内容は常に対象として付随し、対象を持たない学習は存在しない。学習者からすれば、その対象は学習行為において当座の目的として映ることでしょう。何かを知り、何かの世界に接近するために、その対象を学習するわけです。
しかし、その学習対象との関係性・距離感には、実は多様なあり方が想定されます。習得するまで距離を詰めることだけでなく、その対象に出会い、触れ、戯れることが志向される場合もあります。
かつて「トリビアの泉~素晴らしきムダ知識~」という番組がありました。数々紹介される「ムダ知識」について、紹介と説明から目を離せなくなる人が続出する人気番組でしたが、これも学習の要件を満たす行為でしょう。一時的であっても、その対象と戯れ楽しむことは、十分に学習としての性質を備えます。
このような程度のレンジが存在するならば、対象=学習内容とは「学習の目的」と凝り固めるほどに確固たるものではなさそうです。あくまで当座のものであり、学習の方向性といった程度のものと言えるでしょう。学習とは、対象へと方向づけられた接近であるわけです。
これは学習を最も広義に捉えたものです。実際にはどういう対象について、どのような接近をどの程度行うか、にはバリエーションがあります。
興味深いのは、対象への接近の仕方には、熱心に長時間の学習を積み上げていくことから気軽に話だけ聴くだけのことまで幅広くあるにもかかわらず、学習者がどれほど接近・習得できるかには幅があることです。根を詰めた学習を繰り返していくうちに接近・習得することもあれば、戯れているうちに気づけば接近していることもあります。同じ人の中でも、年齢が違えば学習の接近幅は変わり、また他の学習の前後関係によっても変化があります。
様々な対象について、様々な接近方法を、それぞれに応じた強度で行う。学習とはこのように極めて多種多様なあり方を示すものだと見えてきます。
さて、「準備としての学習」とは、学習の多様なあり方の1つであるはずです。しかしこの学習は、学習以外のところから多くの価値観を持ち込んでいることに気づきます。
まず「準備としての学習」における対象とは、学習の外にある目的に至るため、他律的に要求されるものとなります。次に、接近の強度は「習得」に固定されます。「それ自体は目的ではないが、目的に至るまでに習得すべきもの」を学ぶのが「準備としての学習」となります。本来の目的に至るまでの回り道となり、高速化・効率化の欲望も湧いてきます。すると、「それ自体が目的ではなくなる」ばかりか、「それ自体をできるだけ省略しようとする」性質すら帯びます。
学習者に視点を移すと、接近の強度が「習得」に固定され、習得の先に別の目的が見えているわけです。こう見ると、遠くをめがけて走るとき、近くの光景が飛ぶように行き過ぎるように、学習そのものを捉えることすら難しくなることが想像できます。
何かになる「ための」学習は多様なあり方の1つでありながら、現在では学習の中心意義そのものであるかのように見なされつつあります(そうではない学習は「不要不急」のカテゴリーに入っていきます)。遠くの目的に向けて学習を黙々と消費し、「役に立つ」ことを求め、高速化・効率化(チート)を探す姿は、本来多様な学習のあり方から疎外されていくものである。このことが、『目的への抵抗』から確認できたのでした。
「準備としての学習」を志向する人々とは違ったモデルとして、「求道者」と「オタク」とが想定できるのですが、それについてはまた別途。