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読書記録4:『目的への抵抗』

 『暇と退屈の倫理学』で國分功一郎さんの卓越した思考に魅了され、続いて手に取ったのが『目的への抵抗』でした。

 2篇の講話が収められており、前者は「コロナ禍における移動の制限」を、後者は「不要不急」を切り口に、論が展開されます。まさしくコロナ禍の思想。

 前半の論考においては、2020年4月のことを鮮烈に思い出しながら読んでいました。コロナの中で「県外への移動」が悪であると扱われていたあの頃です。各地が軒並み臨時休業、お店も入店制限、というあの頃です。一斉休校の中で細々と家で時間を潰していたのを思い出します。
 「コロナ後」という表現が根付こうとしている(誰かが根付かせようとしている?)中ですが、私たちはあの狂乱の2020年を無かったことにしているところがあります。移動の自由が制限され、経済活動の自由にも相当の制限がかかった世界は、あれほど簡単にやってくるわけです。

 前半の論考の本旨とはずれるのですが、ある一節が痛烈に印象に残りました。コロナ禍における移動の制限について、賛否の軸で議論してしまうと、問題に接近しすぎてしまい、当の問題でまだ考えられていないことを考えられなくなってしまう、という部分の一節。

意見が飛び交う中で、実は忘れられている営みがあるのではないか。それは問うことであり、考えることです。意見を述べることと、問うたり考えたりすることは別です。もちろん、意見を述べることが問うことや考えることにつながる場合もありますし、それはとても望ましいことです。ですが、意見を述べ、ある事象について反対か賛成かの態度表明をすることが、それ以上ものを考えるのを妨げてしまう場合がしばしばあります。

『目的への抵抗』p36

 意見を表明することと、問うこと考えることとを別として捉えること。こう考えることが出来たのか、と膝を打ちました。というのも、以前から「話し合い」と「討論」の区別がつきにくい多くの人々に違和感を覚えていたからです。「ひろゆき」氏があれほど評価される理由がよくわからず、「論破」とか「一刀両断」とかの表現で評論家を持ち上げるメディアにも不信感を持っていました。
 「どう思う?」と聞かれたときに、「いいと思います」というライトな「賛成」すらも、ある意味それ以上考えないようにする態度だったと言えるでしょう。表面的な意見を述べることで、思考を回避する術を、私たちは身につけている。子どもたちも身につけていっている。

 第二部の「不要不急」を巡る論考は一層面白かった。ここで「目的への抵抗」という表題の面目躍如となります。目的に対して適切な手段を選ぶこと、これを徹底した姿を「<いかなる場合でもそれ自体のために或る事柄を行うことの絶対にない人間>」と表現します。なんというパンチライン。

 それを行う目的は何か、というのは教員の仕事をしていて頻繁に問われます。かつては私もそれを疑わず、何なら生徒に「遠足に行く目的を考え」などと言っちゃってたわけです。現在でも、あらゆる行事を計画する際に実施要項が作成され、そこには「目的」が最初に書くべきものとなっています。授業を行っても、「ねらい」は何かと問われます。すべてのことは、目的に合わせて設計されていなければならない、と思わせるには十分な頻度です。
 生徒もきちんと反応しており、「受験のために勉強する」「部活のために学校に来る」と大変適切に目的合理的に動きます。

 「こんなこと学んで何の役に立つねん」という耳だこ表現も未だ健在ですが、先程のパンチの効いた人間像に照らすと、こういう言い方をする人には、「準備としての学習観」が見て取れます。学習とは、何かのための準備である。子どもとは、大人(労働者)になる準備である。より良い準備をした者は、よりよい社会的立場を獲得できる。教育と人材育成とが同値になる瞬間がここにあります。

 本書では「目的への抵抗」として、「その物事そのものを楽しむ=遊ぶ」という「贅沢」が提唱されます。激しく同意。今、同僚たちとも「学校行事を面白く」という言葉をしばしば交わします。物事に、合理性を超えた肩入れを夢中にしていく。バタイユの「蕩尽」の概念が見事に符合します。これについてはまた別で書くことにします。

 これを書くに当たり、前半の「移動の自由」と後半の「不要不急」とを再読していたのですが、この2つが批判する対象として新自由主義的人間像があることが、一層了解出来たように思います。
 高校教育に近づけると、「賛否を示してそれ以上は考えない」ことと、「準備としての学習観」とは、非常に効率的な学習を望む姿勢です。コスパ・タイパの良い姿勢です。そういえば、教育改革の中で「飛び級」も検討されているのでした。現状で「飛び級」が実装されたら、ますます高校は準備のために効率よく通り過ぎる場所となるでしょう。何なら飛び級で進んだ先の大学すら、飛ばしていくのかもしれない。とっとと飛ばして、金を稼ぐ。「飛び級」という発想は「準備としての学習観」の最たるものです。

 少し立ち止まり、物事そのものを楽しむという視点は、どうやら大変魅力的な考え方であるらしい。もう少し論考を積んで、ものにしていきたくなっています。

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