見出し画像

読書記録3:『暇と退屈の倫理学』

 最初に読んだのは、2023年7月の金沢出張帰りのサンダーバード。これは近年読んだ中でもトップクラスに面白かった。

 本業の高校教育の話。youtubeに没頭する生徒、Instagramでみたショート動画の運動量の少ないダンスを再現して動画を撮っている生徒を見て、この人たち本当に退屈なんだな…という思いが湧くことは珍しくありません。そのくせ授業は爆睡してたり、課題の提出は遅れたりする。そんな姿を見て、この人たちは一体何をしに毎日学校へ来てるんだ、と暗澹たる気持ちになるのが、日常茶飯事です。
 もっと将来のこと考えろよ、とか何か有意義なことに邁進してみろよ、みたいな感覚が伴うことも多くあります。高校教育を取り巻く言説をみても「キャリア教育」とか「興味関心に基づく主体的な学習」とか、将来のことを準備しつつ主体的に動け、というメッセージは日々発信されています。

 さて、『暇と退屈の倫理学』を読んでからは、こういう日常の風景の見え方が露骨に変わったのでした。
 パスカルやラッセルたちに導かれ、定住革命説をたどり、そしてハイデガーの議論を整理しつつ、人類が豊かになって暇を獲得したこと、そしてその暇において何をしていいのかわからず、退屈という状況が生まれること、そしてその退屈を解消するための「気晴らし」、などが吟味されていきます。
 この本の議論から見えてくるのは、生徒が日々youtubeなどに没頭していることだけでなく、「将来のキャリアを考えて主体的に動く生徒」、ひいては生徒のていたらくに溜息をつき、寝てる生徒を起こす教員すらも、「退屈」の構図の中にいる姿でした。

退屈の三つの形式の関係は次のように整理できることになる。
人間は普段、第二形式がもたらす安定と均整の中に生きている。しかし、何かが原因で「なんとなく退屈だ」の声が途方もなく大きく感じられるときがある。自分は何かに飛び込むべきなのではないかと苦しくなることがある。そのときに、人間は第三形式=第一形式に逃げ込む。自分の心や体、あるいは周囲の状況に対して故意に無関心となり、ただひたすら仕事・ミッションに打ち込む。それが好きだからやるというより、その仕事・ミッションの奴隷になることで安寧を得る

p353 太字は文中では傍点

 本文では示唆されている程度ですが、この姿はマジメな人ほど強烈だろうと思われます。何なら自分も結構経験した心性でした。暇つぶしにゲームとかしていたあと、「俺何やってたんだろ…」と思って、もっとやるべきことを先にやらないといけない、と思って勉強とか仕事とかに没頭しようとする、という気持ち。
 これを繰り返していくと、現在の時間とは将来に向けた投資の時間となり、来たるべき幸せに向けて備えることに費やす時間に見えてしまう。こうした姿を疎外論で捉えるところまでは順当ながら、さらに「退屈」の辛さからの脱却の心性で捉えてしまうのは、読んでいて膝を打つばかりでした。

 要するに、退屈で時間つぶしている人たちに溜息をついたとしても、「やるべきことを見つけて邁進しろ」という学校のメッセージは、結局彼らを疎外し、別の時間つぶしに邁進せよ、という構図に見えるわけです。後者のほうが、その時間つぶしの社会的評価が高いだけ。やるべきことに邁進し、能力をつけ、キャリアを切り拓いたとして、それは物質的なステータスを向上させるとしても、生徒の生が豊かになることとは別の話だ、という見方ができるわけです。

 本書は、現状の人間が「退屈」とは切り離せないことを捉えたうえで、日々行う気晴らしの中に、人間の知恵と文化が込められていることを指摘します。そして、気晴らしとして行うことも含めて、日々の事物を受け取り楽しむこと、満足行くまで贅沢に楽しむことが、結論の1つとして提示されます。

 このあり方もまた、既に学校現場に萌芽が見られていたことに気づきます。授業の中で「これ何の役に立つんですかー?」と言い出す奴は一定数います。彼らは、その学問が何かのための手段だと見えているわけです。これにマジメな教員は「将来◯◯に使う」とか「日常の●●に使われている」とか言うわけですが、そもそも問いがおかしいわけです。
 役に立つかどうかはさておき、豊穣な世界に浸る経験が確かにある。興味本位で適当に取った授業が妙に記憶に残ったりする。すぐに解体するのに、段ボールをびっしり貼ってお化け屋敷を作る。隣のクラスと客足を巡ってライバル関係になったりする。突然恋に落ちて、わからないなりに全力で考えてアプローチして、砕けて友達に慰められる…などなど。有用性の彼方にある、贅沢なまでに無駄な行動に、人間としての生の楽しみがありうる

 私はアマチュアで吹奏楽をしています。参加費を払って演奏会をして、その時期は毎週隣の県まで行って練習し、疲れて家に帰ります。なんて無駄なのか、と思ったことも少なくありません。別に楽器が上手いわけでもありません。いつまでやってるのか、という気持ちが湧くこともしばしば。
 しかし、読んでから考えてみると、いい演奏ができるともちろん嬉しいですが、「良い演奏が出来なかったから意味がない」という気持ちはあまり持たなかったことに気づきました。何かのためにもならず、卓越に憧れつつも音楽を創るそのことに、私の人間としての楽しみがあったのだ、という考えを、持ちうるものなのではないか。

 と、このように公私ともに自己疎外から引き戻してくれた一冊となりました。
 社会学の中で用いられていた「自己充足」(コンサマトリー)との関係はどうなのだろうか、というところは引き続き気になっています。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?