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それは共通認識を作る作業

【自己紹介】
初対面の人に自分の名前・身分・経歴・趣味などを自身で言い知らせること。

新村新 編 広辞苑 第五版より

自己紹介が苦手だ。

何となく話し終わった後に「話過ぎてしまったか」とか「求められているのとはこういう情報だったのか」などと思いがちで、程よい加減の正解が解らない。

本来ならもっと気楽に「こんなことが好きです」とか「こういう性格です」などと言えればいいのだろうが

そんなことにしてさえも、いちいち「好きって言っても本当にそう言えるのか」とか「とはいえこういう性格って言いきれないし…」という考えが頭をもたげてきてしまうのだから始末が悪い。

それを回収しようとすればだらだらと話が長くなり
そうなってくるとこんなことまでみんな聞きたいわけじゃなかろうにと焦り
結果「ああ、なんかやっぱり苦手だなぁ」となってしまうのだ。




新しい場所に行けば、「自己紹介」はついて回る。
避けて通れるものでもない。

さすがに大人となった今では、回数を重ねたこともありそれなりに対処法を考え乗り切ってきた。

手紙と同じ
メールと同じ
自己紹介にもひな型を準備しておくという、いたってシンプルな方法だ。

あらかじめ話す内容の型を作っておく。
型があればそれに沿って穴埋めをするように内容を組み立てていく。

大抵の場面であれば、なんとかたどたどしくも自己紹介らしいことが話せる仕組み。

それでもまだ、「自己紹介」に対する苦手が消えない。

そんなとき、ある音声配信で場所によって自己紹介の仕方を変えるという話を聴いた。

全ての肩書を見せるのではなく
こういう層には取得している資格やメディア出演などの話を
この世代にはSNSなどでの発信活動を通したインフルエンスのある面を

といったように
その場の会場の層によって自身の活動内容の伝え方を変えるとより興味を持ってもらいやすいという話だった。

なるほど…


職場などではこういう情報だけ
プライベートではこういう情報だけ

開示する情報をあらかじめ場面によって絞り込んでおくという方法。


どんなことにも言えることだが
他人に何かを伝えようとするとき、なんでもかんでも話せば良いというわけではい。

私が自己紹介が苦手と感じていた原因はここにあった。

自分のことを「説明」しすぎていたのだ。
自分のすべてを説明しなければいけないように感じてしまっていたから、混乱していたのだ。

もちろん、自己紹介程度の内容で私自身のことを「わかりやすく説明」なんて不可能だ。

そのことが腑に落ちてからは変に焦ることも少なくなってきたように思う。




「自己紹介」とはつまるところ、その場を共有する人との共通認識を作る作業なのだと気づく。

自身をわかってもらおうとすることも大切なのかもしれないが、それ以前にその場で交わされる交流に必要な情報開示、という位置づけの方がしっくりくる。

これで私の苦手意識も少しはましになるだろうか。


ちなみにこのnoteではこんな自己開示をしています。
ご興味ある方は覗いてみてくださいませ。




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