#とうふレポート ①(1月3日~1月9日)

はじめに

日々のTwitterでの発言や配信をはじめ、2020年ははてなブログでのカッチリ作り上げたものではなくnoteを利用した内容としては比較的軽めの記事の投稿を通じてアウトプットの回数を増やしてきた。Twitter>(twitch配信>)note>はてなくらいの比重。

2021年始早々「せっかくアウトプットがお上手なので、単なる消費者としてのオタクの立場からならではの発信や主張をもっとすべきでは(要約と調子のいい主観による意訳)」というお話を受けて、1週間に1回くらいのペースでイメージとしては普段のTwitter長文ツイートをもうすこし掘り下げるようなnote更新を2021年は継続して取り組めるようであればやってみようかなと。

話を聞いた時はよーしやってみるぞ!という意気込みで今回の記事の準備を始めたわけなんですが、思った以上にTwitterの140字制限っていうのは余計な事を言わないようにするためのリミッターにもなっていると実感しました。

あと、普段口にしないだけでちょっと危うい線のトピックも浮かんでくるしそういう意味ではペースを守っていくの難しいな~と思いつつ、とはいえ質はそれなりに保ちつつ、ということでやっていきたいと思います。

①多様性とかバーチャルの話とか

自分のTLで見えてる範囲での話ではないし、裾野が広がってきたことによる影響だと思うんだけど「バーチャル」とか「多様性」とかの話をしている人たちがいて、その中で「多様性」を認めているようで結局自分の見えてる範囲内とか自分が押し通したいものの為に、その言葉を用いてるような人が最近多いような気がするなと。

僕は自分の知らない範囲での成長や発展を見込めるという意味で「多様性」をできる限り認めたいとは思うんですが個人的な感情としてはそこまで全部を認めることが出来ないな…というのが本音。

結局その人らが使ってる「バーチャル」をはじめとした用語って自分や身内にしか通じないような狭い意味合いのキーワードになっちゃってて、それを合言葉にして「多様性」を叫ぶのは実際の所あまり丁寧な動きではないと思うんだよなと思っていて。(発信する側が想定しているターゲットもいろいろあると思うので、一概には言えないんだけれども…。)

「多様性」って言葉を使いたいのであれば、そもそもの前提として自分にも正直合わないと思う立場の主張を排する姿勢は違うんじゃないのと思うし、結局のところ自分が思うところの意味合いを侵害されたくないという意志のもとの発言なんだよな~と感じてしまったが最後、熱量の割には自分にはあんまり響かない文字の羅列になってしまって自分の偏見によって閉ざしちゃってもったいないな~と感じることもある。

ここら辺はもう少しきちんと大勢宛てじゃなくて個人に対して話をしているのを聞いたり見たりしたいところではあるな…。もともと自分が最初に抱えた偏見のまま距離を取ることが多いので…。

ただ現実的な話をすれば、平成インターネット史と同じく、コンテンツとしてではなく文化としての概念や推移を体系化することが全てではないし、ほぼ不可能なことは自分も承知の上なんだけども。

ただ、そういうことを発信するしないに関わらずこねくり回したりすることをはじめとして「インターネットで育つ」っていうのはそういう答えのなかったりぼんやりしたことを考えたり発信してリアクションが含めてのことだと思うので主観から発生する偏った正しさでごちゃごちゃ外野から言うのは良くないんだよな。意見交換はもちろん大事だけども。

②とうふ流アウトプットの仕組み

これはもうTwitterのツリーで書けるだけ書いたのでもう別にnoteで細かく書く必要ないかな…と思うので良かったら見といてくださいという奴です。良い見出しが思いつかず「とうふ流」とか書いちゃって既にダサさが滲み出ている。

人から言われる「アウトプットが上手い」というのは「わかりやすく話す、文章を構築する」ことなのか「みんながぼんやりと意識していることを具体化する」ことなのか、で大分違うのでその辺りもし伸ばそうと思ってる人がいればその前提から詰めていくと良いと思います。ここら辺実は自分も肌感覚なのできちんとメソッドとして確立はしてないんですが…早いところが関連書籍を読む、に尽きるので読みましょう。

というかみんな言わないだけでいろんなことを考えてらっしゃるのであとは発信するだけなのでは、という感じですけどね。

③幸せな『麻痺』

記事の内容の是非というよりも、今を色めくVtuber界隈の中で活動されている現役プレイヤーの生の感情の吐露が文字資料として起こされていることに対するアーカイブ的側面が強いです。

僕は家長むぎさんのことを特別追いかけていないため詳しく知らないのですが昨年の11月末にnoteを始められて、不定期に更新されているようです。他にもエントリをいくつか更新されているのですが、それこそアウトプットがとても素敵な方だなという印象です。

その中でもこの『麻痺』というタイトルのエントリの内容はあくまで「幸せな麻痺」と形容しながら、一般的な生活を送っているうえではとても想像し難い感情の奔流に対する戸惑いや、自分が大切にしたいものを決して忘れたくないという意志も感じられてとても良い記事だったと思います。

遂にインターネットを通じて人間を簡単に消費するような社会になってしまったのか、という主張も一時期出回りました。ただ結局のところそれって大なり小なり行われてきた営みであって、こうして大きな現象になったからこそ皆の目に着くところとなり、騒ぎ始めたものだと自分は思っています。(もちろんその個人の消費を是とする訳ではないんですが…)

僕の友人が「人間って思ってる以上に人に興味ないよ」と言ったことがあります。僕もそう思いますが、普段はめっちゃそう思いません。何故なら自分の周りの中の良い人たちに僕は正直めっちゃ興味があるからです。そこの案配って難しいんだよな、もちろん他人への興味の度合いなんて個々人の性格によって仲良くたってそんなに興味ないって人もいるだろうし。

なので僕個人としての話になりますが、人間って思ったより好きに類する人間に対しては結構興味がある、動向が気になるもんだと思ってます。

だからこそ双方向のコミュニケーションが発生しない状況になると一方的な興味によって消費することが増えるというか。学校で一番可愛いとされる女子がうわさ話のターゲットになることだって他者からの一方的な興味による小規模な個人の消費だと思うし。

そういう意味ではVtuberとリスナーの関係って本当にそれ以上でもそれ以下でもないし、どうしようもないんだなと感じられてしまって。

僕らは一方的な興味で消費することしかできないし、Vtuber側は常にインターネット上の不明確で不確定なものを消費するしかない。インターネットによって拡張された様々な事象はどうやったって人間のキャパを越えてしまっているのだなあと。

話を記事内容に戻して。

目に見えにくいけれども当たり前の前提として横たわっているものに対して鈍感になっていくことへの恐れについて記載されているけれども、敏感であることのリスクもあるわけで。ここはもう少し自分の中でも詰めてから改めて書きたいところなので深く突っ込むことは控えておくけれども、敏感であることは他人の鈍感に傷つけられるということでもあり、なかなか難しいことだなと。

やはり現代において一番のコミュニケーション上の問題は生きていくうえで接触する人間の数が多すぎるということも大きくかかわっていると思うな~。

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