Don't let your curiosity be put aside的な

子供の好奇心には毎度驚かされる。

先日、フランス人の姉弟をご案内した。
姉はフランスの大学院でMBAに通いながら、ダブルディグリーで現在は韓国・ソウルに留学しているらしい。
家族がソウルを訪れたタイミングで日本にも足を運んだとのことであった。

ガイド中に干支の話になった折、とても興味を示してくれた様子であったので、時間を割いて陰陽道・道教・易経にインスパイアされた日本文化の話をした。
聞くとフランスの特に若い世代の間では、自身の干支を割と一般的に把握しているらしい。

年だけでなく月、日、時間、方角にも干支があてがわれていること、それらの大元はエネルギーの属性や性質を表していたもので、便宜上動物のシンボルが充てられたこと、12の動物はレースの着順で選ばれて、猫はネズミに騙されたために参加できず干支から漏れたこと、それを恨んで今でもネズミを追いかけ回していること、ネズミは賢く、牛の頭に乗って一着を獲得したこと、多くの日本人は干支についてそこまで知らなくても、慣習や言葉には今も色濃くその影響が残っていることなどを話した。

終盤、「弟が質問があるって」と言われた。
彼は9歳でまだ姉ほど自由に英語を話さない。
「干支はなんで12個あるの?」というものであった。

全く子供の好奇心というのは恐ろしいものである。
僕らがいつしか当たり前だと思って疑問にすら抱かなくなったようなことを、彼らは大層純粋に疑問としてぶつけてくる。

「確か天体の公転周期に関係があった気がするけど正確にはわからないや、ぼくも調べてみるけどあとで調べてみてね」としか答えられなかった。
まだまだ私には知らないことだらけである。

子供の純粋な好奇心は、時として私が「知らないということすら気づけていないこと」に目を向ける機会を与えてくれる。

私としてはそういう好奇心の萌芽に際して、なるべくその芽を摘まないような回答をしたいと心がけているのであるが、子供たちが世界に向ける純粋な眼差しは私の態度と知識の範疇を容易に超えてくるから恐ろしい。

以前、カリフォルニアから来ていた家族の女の子が石碑を見たときに、「あんなに大きな石を昔の人はどうやって運んだの?」と訊かれた。

子供たちの着眼点以外にも、ガイド業をしていると「自分が知らないこと」を訊かれる場面は往々にしてあるわけであるが、私はなるべくのこと「わからない」でその好奇心の芽を摘まないことを心がけている。

そういった、自分が答えを知らない質問に直面した時、小手先ではあるが心がけていることの一つが、「具体から抽象、抽象から別の具体へシフトし、あくまで持論として仮説を挙げる」というものである。

たとえば先程の例であれば、

「この石碑がどうかはわからないんだけれど、"大きな石を動かす方法"の話で言うと、エジプトにピラミッドってあるよね?写真とかで見たことあるかな?あれを作る時は、大きな石の下に丸太を並べて、その上を転がして運んでたんだって。だから、もしかしたらこの石碑も同じように運んだのかもしれない。でも確かなことではないから、ちゃんと調べてみるね。」

と答えた。

特定の事象から一般論の話を展開し、同様の他の事例から自分の引き出しにあるものを並べて仮説とするわけである。

論文でいうと質問がリサーチクエスチョンにあたり、私の回答が仮説にあたる。当然研究には検証と結果、考察が必要なわけで、私の場合は必ずその正答を調べるようにしている。「答えられなかった疑問」と、「腑に落ちる理由を見つけるまで調べた過程」は、自分が「なるほど!」と思えたときの新鮮な驚きの熱量を持って新たなガイドの引き出しとなる。そんなサイクルを毎日繰り返して、絶えず自分の世界を広げ続けることができるわけだ。

新たな学びを得られるような着眼点は、子供や外国人などの、「当たり前」が凝り固まっていなかったり、私たちの「普通」から距離のある人の視座であることが多いように思う。

ちなみに私が呈した2つの「仮説」は、ありがたいことにどちらもほぼ正解であった。おれの仮説構築の筋もなかなか悪くないじゃないか、などと一人少し得意顔である。

さて今日は一体どんな好奇心の発現に立ち会えるだろうか。

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