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人と話をすることは得意じゃなかったんだけれど

もうすでに会社員を辞めて、支給される年金に加えて細々と自営のような仕事の収入で生活しています。
退社してからは家にいる時間が長く、人と話をすることはとても少なくなりました。夕方に仕事から帰ってくる妻と食事しながらたわいもない話をするだけで、早めにベッドに入ります。その後に妻は撮り溜めたテレビの録画を見ているようです。そうやって何日も他人と話をすることがない日が続いています。スーパーのレジの人に「ありがとう」というのが一日で唯一の発話だったりします。それでも寂しいと思うことはなく、本を読んだり音楽を聞いたり、一人の時間を楽しんでいます。
子供の頃からあまり話をしない子だったと思います。引きこもっていたわけではなく、当時は引きこもりという言葉も一般的ではありませんでしたし、僕自身も放課後は近くの神社や小学校の校庭に出かけていきました。でもそこで話をしたという記憶はありません。周りの子供達と一緒にブランコで遊んだり野球したりしていたと思いますが、無口だったんじゃないかな。

無口だったことに加えて、集団での行動が苦手だったようです。手と足の動きを揃えて行進するのは苦手でしたし、団体競技にも不向きでした。その頃から運動会は苦手でした。小学校の高学年になると少し知恵がついてきて、運動会でもみんなと一緒に行進したりトラックの周囲に腰掛けて応援したりしなくて良い方法を見つけました。それは放送の係です。日頃は昼休みや下校の時間にアナウンスしたり、音楽を流したりします。運動会の時には来賓の横のテントの下で天国と地獄のレコードをかけたり、先生方がお話しするマイクの準備をしたりしました。この仕事のおかげで、炎天下のグランドで座っていなくても良くなりましたし、行進からも逃れることができました。中学に入ってからはこの仕事に加えて、写真を撮ることを始め、運動会などの団体行動から良い距離を置けるようになりました。
みんなの中にいるより、少し距離を置いて眺めているのが好きな子供だったんでしょう。

その後もできるだけ一人でできる何かを志向していました。
仲の良い友達もできましたが、とことん付き合うというようなことはなかったと思います。

そんな僕でしたが、縁あって会社員になりました。
大学4年生の夏休み、帰省して家でゴロゴロしている時に研究室の先生から電話があり、就職先を紹介されました。名前は知っている会社でしたが、どんな仕事をすることになるのかわかりませんでした。「先生はどう思いますか?」と聞くと、詳しいことはわからないけど、名前をよく聞く会社だから悪くはないんじゃないか、ということでした。
特に就活もせず、就職できなければ消去法で大学院に行くのかなあ?と漠然と考えていた頃だったので、面接を受けてみることにしました。午前中に会社の研究所で、午後に本社での面接がありました。数日して採用する(内定)との連絡があり、郵便で会社の資料がたくさん送られてきました。その時になって、会社の概要がわかった次第です。その頃はインターネットもなく、図書館で調べるくらいしかありませんでしたから。

そうやって入社した会社でよかったことは本当にたくさんあります。そのうちのトップ3を紹介します。

その1
人としての基本である「話をする」ということを教わった。
団体での生活や集団行動の苦手な僕にとって、人と接することは少なく、どちらかというとそれを避けていて、人間関係というものもほとんど意識していませんでした。
最初に配属されたグループに数年歳上の先輩がいました。その姉のような人は気さくで、そのグループには家庭的な温かさがあったと思います。
その姉に嗜められたことがあります。「君は何にも考えないで喋ってるんじゃないの?」当時の僕は、無口のままではいられないと思って、できるだけ話すようにしてました。でもそれは反射的な行動で、言ってみればボタンを押せば自動で出てくる言葉を発していただけだったんでしょう。あまりの意味のなさに、あるいは無責任な態度に僕は嗜められたんだと思います。ダニエル・カールマンの言うシステム1だけで話していたんだと思います。これには僕はショックを受けました。自分が何も考えていないということ、それに自分で気がついてもいなかったことにショックを受けたわけです。会社には、社会にはいろんなルールや決まり事がありますが、ちゃんと考えて話すこと、行動することは基本中の基本だと理解しました。
その会社には35年以上勤め、いろんな仕事に携わることができましたが、僕の社会人としてのイニシエーションは、僕が姉のように慕うその先輩の発言がきっかけだったと思います。

その他でも、僕は会社の多くの先輩たちに影響を受けました。お世話になった人も多く、迷惑をかけたこともたくさんあったと思いますが、今にして考えてみると、たぶん本人がそれほど気にせずに発した言葉が僕にとっては大きなインパクトになっていることもたくさんあったように思います。そう言う天から降ってきたような刺激、それは複数の他人が共通の価値観と利害関係を持ち、運が良ければ家庭的な雰囲気の中で活動できる会社員であったからこそ得られたんだと思います。
もちろん環境に恵まれないこともありました。その時は辛く感じることもありましたが、そんな時期はいつか過ぎ去ります。今では忘れることもできていると思います。
会社員であったことは、そしてその環境に恵まれたことは、僕が社会の中で生活していく基盤を作ったと言っても過言ではないと思います。

その2
毎月収入があったこと
僕の父は自営業で、父の兄弟も母の兄妹もほとんど自営業の人たちでした。大阪にいた父の妹の一人が会社に勤めていたと聞いていますが、年に一度会うかどうかで、僕にとっては会社員というものがどんなものなのか、知る機会はありませんでした。ですから、会社員で定期的に収入があるとはどんなことなのか、会社員を始めるまで知りませんでした。初任給は13万7千円だったと思います。それからバブルの頃もあり、少しずつ上がっていきましたが、結婚してすぐの頃の給料日前には「今日は財布に五百円しかなくて、銀行の残高も1000円未満でATMで下ろせないからどうしようか?」と妻に相談されたこともありました。クレジットカードは持ってましたが、使える店は限られていました。今とは隔世の感があります。その日の夕食はツナ缶の料理だったと覚えています。

長い会社員生活の中では、「ああ、何もうまく行かないなあ。今月は仕事しなかったようなもんだなあ」と思うことがあります。僕の場合それほど多くはありませんが、少なくもありません。それでも定期的に収入があるというのはありがたいことです。
その後、徐々に給与も多くなり、たくさんの厚生年金と税金を引かれるようになり、ボーナスをもらっても手取りの少なさ(控除額の大きさ)にがっかりしたことも覚えていますが、定期的に収入があるということは嬉しいものです。今もらっている年金もこれまでたくさん払ってきた厚生年金が戻っているんだと思うと、少し嬉しくなります。元を取るにはだいぶ長生きしなくちゃいけませんが。

その3
会社員の頃には随分いろんなところへ出張に行かせてもらいました。海外も20カ国くらい訪問しました。
会社員にならなければ、こんな機会はなかっただろうと思います。僕の父も母も海外に行ったことはありません。父や母の兄妹たちにしても、会社員ではない僕の従兄弟たちにしても、個人的な旅行以外で海外に行ったことはないでしょう。
僕の海外出張は1993年から始まり、2005年くらいから増えていきました。
出張先ではいろんな人と会い、いろんなものを見て、いろんなものを食べて、そこでしか得られない経験をしました。また、飛行機の中やホテルなど、一人になれる時間も十分に確保されていて、集団での活動が苦手な僕にはちょうど良い生活空間だったとも言えます。

出張にはカメラを持って行って、メモの代わりに記録する習慣がありました。当時の写真やデジタルデータを見返してみると、結構楽しいものです。
その各々の記録をnoteで紹介しています。今後もいくつか発信する予定です。
良かったら眺めてみてください。

#会社員でよかったこと

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