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満月の夜に灯火を(前編)

 ここは幻想郷。外の世界で忘れ去られし者が集う場所。妖怪から神まで様々な種族が存在するこの世界だが、ここにも人間という種族は存在している。そんな幻想郷の人間は、主に人間の里で賑やかに暮らしている。
「……えー、じゃあ明日はこの宿題を提出すること! くれぐれも忘れないように!」
 そんな里の一角にて、誰かが張りのある声でそう言っているのが聞こえてくる。ここは里の子どもたちが通う寺子屋。この寺子屋で教鞭をとっているのが今発言した彼女、上白沢慧音だ。彼女はとても真面目な性格であり、生徒間では「お堅い先生」として有名である。
「せんせー、宿題忘れたらどうなるのー?」
 そんな彼女に対し、そう問いかける生徒が一人いた。慧音はその子の方を向き、にこりともせず言う。
「そんなのもう分かっているだろう? 宿題を忘れたら先生から皆に頭突きの刑だ」
「えー! もうあの頭突き食らいたくないよー!」
「それが嫌なら、ちゃんと宿題やってきて提出することだな。間違っていても構わん。やってくることが大事なんだ、いいな?」
 また別の生徒――彼はどうやら過去に慧音の頭突きを受けたことがあるそうだ――から悲鳴が上がったが、慧音は平然とそう言い返す。彼がそう言ったのも納得で、石頭の彼女の頭突きはかなり痛いことで評判だ。慧音曰く「嫌なことを避けるためならちゃんとやってくると思って。私も別に好きで頭突きをしているわけじゃない」とのことだが、果たしてどうなのか。
 今日の話すべきことは終わった、と思った慧音は子どもたちを解散させようと口を開く。
「では、今日の授業はこれで終わりだ。この後皆で遊ぶのは構わんが、くれぐれも里の近くの竹林には入らないようにな。あそこは一度入ったら中々出口に戻れないし、妖怪もいるって噂があるくらいには危険だからな」
 最後まで真面目な彼女の話に対して生徒から「はーい」という反応があったところで、この日の寺子屋は解散となった。

 上白沢慧音は、人間の里に住んで教師をしている、ごく普通の人間だ。
 子どもを愛し、この平穏な里での生活を愛する者。

 そう、純粋な人間だったのだ。「あの日」が来るまでは――。

 *

「慧音せんせー、さようならー!」
「さようなら、また明日な。あまり遅くならないうちに家に帰るんだぞ!」
「はーい、分かってますー!」
 また別のある日、寺子屋終わりの時間。早速遊び始めた生徒から挨拶され、挨拶を返す慧音。こういう時にあまり笑顔を見せない彼女だが、実は心の中では微笑んでいたりする。
 慧音は寺子屋に通う生徒を始め、この里の子どもたち皆を愛しているのだ。子どもの成長を見守る身としては、皆が笑顔で元気でやっている姿を見るのが一番嬉しい。それを笑って素直に口に出せばいいものを、慧音は「子どもの前で笑うのはちょっと恥ずかしいから」と言って頑なにしようとしない。まあ、それが彼女の日常なのである。
 慧音は帰路につく。彼女の家は寺子屋からそこまで離れていないのだが、念のための見回りとして人里の外周付近も通ってから家に戻るのが彼女の日課だった。決して誰に頼まれたわけでもなく、寺子屋のある日は毎日、自ら進んでやっている。
 暫く歩いて先日彼女が注意した竹林付近まで辿り着くと、何やら子どもが数人中を覗き込んでいるのが見えた。慧音は歩み寄って声をかける。
「おーい、そこの子たち。竹林は危ないぞ、離れなさい」
「あ、慧音先生! どうしよう……!」
 振り返った子どもの顔を見ると、そこにいたのは寺子屋で教えている生徒のうちの数人だった。その中の一人が泣きそうな顔で彼女の元に駆け寄ってくる。それが予想外だった慧音は、思わず慌ててしまった。
「ど、どうした?」
「僕たちここで遊んでたんだけど、そしたら……」
 彼曰く、竹林の入口付近で遊んでいたら、遊びに用いていた道具が竹林の中へ飛んで行ってしまったらしい。それを追いかけに行った子が中々帰ってこないのだという。
「なっ、竹林には入るなとあれほど言っただろう! 中に入ってからどのくらい経った!?」
「た、多分だけど五分くらい……」
「分かった。説教は明日だ、お前たちは決して中に入るなよ!」
 ――あの子が危ない。
 その思いだけで、慧音は自らの危険も考えることなく竹林に入っていった。入って数分程度なら、まだそこまで入口からは離れていないはずだと思ったのだ。
「おーい、どこにいるー!? 聞こえたら返事をしてくれー!」
 ――教え子を守るのは私の義務だ。あの子に何かがあってはならない。
 彼の名前を呼びながら、慧音は後ろを振り返ることなく必死に前へ進んだ。怪我をしていませんように。妖怪に遭遇していませんように。ただ彼の無事だけを願っていた。
 そして暫く歩いたところで、彼女は気付いた。
「――せい……」
 微かだが確かに、そんな子どもの声が聞こえたのだ。
「そこにいるのか!?」
 その声の聞こえた方角に慧音は竹の間を潜り抜けながら速足で向かった。段々声がはっきり聞こえるようになってゆく。そしてやっと辿り着くと、そこには今にも涙がこぼれそうな目をした、見慣れた顔の少年が立っていた。
「せ、せんせぇ……!」
 その手には、飛んで行ってしまったと生徒たちが言っていた道具が握り締められていた。やはり彼は迷って帰れなくなっていたらしい。慧音は彼の顔を見るなり言葉を発する。
「怪我はないか!? 大丈夫か!?」
「だ、だいじょうぶ……っ」
「竹林には入るなとあれほど言っただろう、この馬鹿……!」
「ごめんなさぁい……」
 迷子になった先で知っている人を見つけた安心感からか、彼は慧音に抱き着いてわんわん泣き始めた。彼女はそんな彼を抱き留め、頭を優しく撫でる。
「……本当に無事でよかった」
 そして、呟くようにそう言った。もう一度彼をぎゅっと抱きしめた後、しゃがみ込んで自分の顔を彼の顔に近付ける。
「……?」
 そんな慧音の行動に少年が不思議そうな顔をしたのも束の間、彼女は普段の三割ほどの力で彼に頭突きをした。つまり、多少痛いくらいだ。
「いたっ」
「もう二度とこんなことするなよ、帰ってこれなかったら親御さんやお前の友達がどれだけ心配するか……! 分かったな?」
「はぁい……」
「……お説教はここまでだ。さて、帰ろう――」
 少々の説教を口にしたところで、慧音は重大なことに気付いてしまった。無我夢中で探していたせいで、自分も帰り道を覚えていなかったのだ。辺りは霧がかかっていて遠くは見えない。巨大な竹が高く伸びているせいで、まだ陽は落ちていないにも拘わらず薄暗い。どうしよう、ミイラ取りがミイラになるとはこのことか、いや落ち着け、こういう時は――と、彼女は頭の中で必死に記憶と考えを巡らせる。
 ――最初は割と道なりに来たはずだ。その途中でこのくらいの方角に曲がったから――
「……行くぞ」
 確証は得られないままだが、慧音は少年の手を引いてそう言った。
「先生、僕たち、帰れるの……?」
 そんな彼女を見て、彼は不安そうにそう言った。慧音は少年の目を見て頷く。
「帰れるかどうかじゃない、何が何でも帰るんだ。行こう」
 彼女は強くそう言い切った。そうするしか、なかった。
 しかしここは迷いの竹林だ。深い霧と緩やかな傾斜が、歩く者の方向感覚を狂わせる恐ろしい場所。彼女が記憶を辿って導き出した方角も、正解に辿り着ける確率はかなり低い。それでもこの子をこれ以上不安にさせまいと、慧音は恐れる気持ちをぐっと堪えて歩き出した。
 ――いや、正確には、歩き出そうとした。前に進めなかったのだ。
「――待て」
 少年の手を引く方と反対側の肩を、背後からそう言った何者かに掴まれたからだ。
 ――まずい、竹林にいると噂の妖怪に出くわしたか……?
 慧音はぎこちなく、ゆっくりと後ろを振り返った。そこには白髪に白と赤の服を身に纏った、外見は人間の女性であろう何者かが立っていた。慧音が口を開く前に、その何者かが先に言葉を発した。
「お前、人里の人間か?」
 それは、地声が低めであろうこともあるが、相手に有無を言わせない力を感じる声だった。慧音は警戒しつつも、思わず震えてしまう声で答える。
「は、はい……そう、ですが……」
 白髪の彼女は慧音の肩を放さないまま、語気を強めて続ける。
「何故人里の人間がこんな所まで入ってきた? ここで死ぬつもりか?」
「いえ、私は、この子を……」
 相手に気圧されてしまった慧音の言葉はそこで止まってしまった。震えながらも彼女と少年の手が力強く握られているのを見た白髪の彼女は、何となく状況を理解して溜息をついた。
「……はぁ、まぁいい。私の後ろついてこい」
「えっ?」
「竹林の出口まで送ってやる。目の前で野垂れ死なれてもこっちが困るからな」
 そう言って、二人の横を通り越して歩き出す彼女。慧音たちがびっくりしてその場から動けずにいると、彼女はすぐに振り返って言った。
「おい、早くついて来い。置いてくぞ」
「い、いえ、行きます! ……よし、行くぞ」
 慧音は慌てて返答して少年の手を引き、彼女の背中を追った。

 生い茂る竹の間を、白髪の彼女は躊躇することなく進んでゆく。暫く無言で進んでいた三人だったが、慧音に手を引かれていた少年がふと口を開く。
「……おねーさん」
「…………ん? 私のことか? 何だ」
 白髪の彼女は、自分が呼ばれたということに気付くまで数秒を要した。彼女が振り向きながらそう応えると、彼は小さく頷いて続けた。
「おねーさんは、人間なの?」
 その質問に慧音は思わず慌てた。確かに自分も気になっていたことではあったが、それを率直に訊く勇気はなかったのだ。もし、それで本性を現すようなら――。
 しかし、慧音の考えに反して目の前の彼女は「そうだ」とあっさり言っただけだった。
「私は人間だ。決して妖怪ではない」
「そうなの? じゃあ里のどこかに住んでるの?」
「いや、私はこの竹林で暮らしている」
 素っ気なくそこまで言って、彼女ははぁ、と一つ息を吐いた。靴が地面を踏み締める小さな音が会話の合間に響く。
「お前ら、途中で兎でも見たのか?」
「兎? い、いえ……?」
「あぁ、そう。じゃあ本当に奇跡だったな。お前ら、あんな所まで入ってきたら本当に帰れなくて死んでいたと思うぞ」
「……そういえば、どうやって私たちを見つけたのですか?」
 慧音がそう問いかけると、彼女は前を向いたままで答える。
「たまたま近くを歩いてたら、誰かが誰かを呼んでいるような声が聞こえたんだよ。そんなこと普段は起こり得ないから後を追ってみたら、お前ら二人がそこにいたってわけ。それだけ」
「そうでしたか……本当にありがとうございます、お陰で助かりました」
「もうこんなことは二度とないと思えよ。この広い中で私が近くを通りがかったのが奇跡だったんだからな」
 そうこうしているうちに、三人は少し先が明るく見える所までやってきていた。無事に竹林の出口まで辿り着けたのだった。慧音は思わず「よかった……!」と呟いた。
「もうここを真っ直ぐ行けば外に出られる。……私はここで引き返させてもらう」
 白髪の彼女はそう言うなり、今来た道をすぐに引き返し始めた。
「あ、あのっ!」
 その様子を見て慧音は彼女のことを慌てて呼び止めたが、彼女が歩みを止めることはなかった。たちまち姿が霧の中へ消えてしまい、送ってくれたことに対するお礼も言えなくなってしまった。慧音の伸ばしかけた手が、宙で情けなく留まっていた。
「……先生、」
「……いや、行こうか。皆、お前を待っているからな」
 流石に諦めざるを得ないと判断し、手を下ろした。彼女の言葉に頷いた少年の手を引いて慧音は出口の方向へ向かった。薄暗い竹の道を進み切って外に出ると、あたたかい光が全身を包み込んできた。そして、付近には心配して待っていたであろう先程の生徒たちが項垂れてそこにいた。
 しかしすぐに、竹林から出てきた先生と生徒の存在に気付き、わっと駆け寄ってきた。
「無事だったんだな! よかった……!」
「戻ってこなかったらどうしようって思ったよ!!」
 そんな友達の声を聞いた少年は、ようやく緊張が解けたのか再びわぁっと泣き出した。慧音の元を離れ、皆の元に駆け寄っていく。
 そんな教え子の様子を見て、彼女はふぅ、と小さく息を吐く。
「……やっぱり説教は明日に回そう。今日のところは許してあげなきゃな」
 誰に言うでもないそんな言葉は、橙色に染まりつつある夕方の空気に静かに溶けていった。

 *

 その数日後。この日は寺子屋が休みの日であった。
「……さて、どうしようか」
 そんな日の昼間に、竹林の入口近くにてそう独り言ちる者が一人。慧音だった。彼女の呟きに応える者はおらず、竹の葉が擦れ合う音が聞こえるのみだ。そんな心地よい音に耳を傾けることなく、慧音は考えていた。
 ――どうやったら、もう一度彼女に会えるだろうか。
 先日、慧音と少年を送り届けてくれた彼女に会いたかったのだ。お礼もろくに言えずじまいだったからだった。真面目な慧音は、お礼や謝罪といったことに対しては特に、自分にも他人にも厳しかった。生徒に厳しく言っている手前、自分だけに甘くするわけにもいかず。
 しかし、その肝心な再会の方法が分からずにいた。前回、彼女と出会えたことは奇跡だった。その奇跡をもう一度起こしに行くのはとてつもなく低い確率だし、かと言って呼ぼうにも何て呼ぶべきかも分からない。そもそも、この広い竹林のどこにいるかも分からないのに、呼んだところで声が届くのか?とも思っていた。
 お礼を言いたい一心で竹林に向かったまではよかったが、そこからの打開策が全く浮かばない慧音は、思わず溜息をついた。
「はぁ……やはり、行ったらどうにかなるという勢いでやるべきではなかったか……」
 竹林の中に入るのは危険すぎる。しかし竹林の外側から探すことはできない。じゃあ一体どうすればいいのか。慧音は頭を抱えた。
「……ん?」
 そんな時にふと、彼女の視界に何かが入ってきた。
 ――兎?
 それは、白色の小さな生き物だった。ぴょんぴょん跳ねながら竹林の奥へ向かう姿を見て、慧音はそれが兎であるとやっと認識した。
 ――何故こんな所に兎が?
 そう思った時、慧音は先日の彼女の言葉を思い出した。
『お前ら、途中で兎でも見たのか?』
「……兎を見たら、何なんだ? 何かいいことでも起きると……?」
 直感的にそう感じた慧音は、既に霧の向こう側へ消えてしまったその小さな生き物を追いかけようとした。少しだけの距離ならまだ入口に戻れるはず。速足気味で、道を真っ直ぐ進んでいく。
「……おい」
 少しして、そんな慧音の足をぴたりと止める声がした。彼女の斜め前方向の竹の中から、がさがさという音と共に一つの人影が現れる。
「何しに来た。また死に損ないにでも来たのか、物好きだな」
「あぁ! 見つけた!」
 目的の人を見つけ、思わず声をあげてしまう慧音。その様子を見て、怪訝そうな面持ちになる白髪の彼女。慧音はそんな表情を気にも留めず、言葉を続ける。
「あなたにもう一度、会いに来たんです」
「……はぁ?」
「この前のお礼がしたかったので」
 慧音が真っ直ぐにそう言う様子を見て、彼女ははー、と呆れたように溜息をついた。
「あのさ、それをするにはあまりにも危険だってこと自覚してる? お前本当に死ぬぞ?」
「今日は兎を見たんです」
「え?」
「あの時、あなたは言っていましたよね。『兎でも見たのか』って。さっき見かけたんです。そしたら、またあなたに会えました」
「あぁ、奴を見たのか。そりゃ本当に幸運だな」
 吐き捨てるように言った彼女に向かって、慧音は頭を下げた。
「――本当にありがとうございました。あなたのお陰で、私も彼も助かりました」
「……それで用件は済んだか? それならさっさとここから出ることだな」
「いえ、まだあります」
「は? まだあんの?」
 思わず素っ頓狂な声をあげた彼女に対し、慧音はにこりと笑って言った。
「あなたのお名前を教えてください」
 目の前の彼女は少し目を見開いた後、ふいっと視線を逸らした。
「嫌だ」
「えっ、それは……どうしてですか?」
「もうこれ以上お前と会うこともないだろう。そんな奴に名前を教えたところで何の意味もない」
 そして彼女は素っ気なくそう言い返し、あの日と同じように竹林の奥へ姿を消そうとした。
「私はこれからもあなたに会いに来ます」
 そんな彼女の背中に向けて、慧音は迷うことなくそう言った。
「……は?」
 その言葉は、彼女を引き留めるには十分だった。彼女は振り返ってもう一度慧音を見る。慧音は思いつく言葉のままに続きを話していく。
「だって……この竹林で、こうして二度も会えるなんて奇跡じゃないですか。これはきっと何かの縁なんです。だったら、この縁をこのまま終わらせたくないんです。私はあなたと話してみたいです」
 「話してみたい」。それが慧音の本心だった。彼女が先日言った通り自分と同じ人間であるのなら、ただただ話してみたかった。単なる興味故の行動にすぎないことを慧音自身も自覚はしていたが、このまま引き下がりたくない気持ちがそこにあった。
 あまりにも慧音がまっすぐにそう言ったからか、目の前の彼女は若干だが面食らった様子を見せた。その場で迷ったように考え、再び呆れたようにはー、と息を吐きながら答えた。
「……妹紅」
「えっ?」
「妹紅。私の名前だ。もう二度は言わねぇぞ」
 妹紅はじろりと慧音を見ながらそう付け足した。
「……妹紅、さん」
「気持ち悪いから『さん』はいらん。妹紅でいい」
「分かりました、妹紅……ですね。私は慧音です」
「……分かった、一応覚えておく」
 そう答えて、妹紅はやれやれといった表情で慧音に言った。
「どうせ、私がここで断ってもお前は懲りずに来るつもりだったんだろう。それで万が一のことに巻き込まれるのも後味悪いからな。
 今後、何か用があったら私の名前を呼べ。お前の声に気付けば目の前に出てくるだろうからよ」
 そして「じゃあ」と言い放って、妹紅は再度竹林の奥へ向かい始めた。
「あ、ありがとうございます、妹紅……!」
 慧音のその声に何も反応することなく、妹紅は姿を消していった。

 *

 それから、慧音は週に一、二回ほどの間隔で妹紅に会いに行った。
「妹紅ー、いますかー?」
 慧音が入口付近でそう呼びかけると、そう経たないうちに目の前の竹から物音が聞こえてきた。
「……あぁ、また来たのかお前」
 妹紅が慧音の前に姿を現すと、呆れたような表情をしてそう言った。
「『また』って何ですか、いいじゃないですか」
「いや、まさかこんな頻度でここに来るとは思ってなかったし……」
「本当に嫌なら無視すればいいのに、妹紅は優しいですよね」
「ぐっ……お前地味に痛いところ突いてくるなよ」
 慧音は先生という職業に就いていることもあり、相手を観察することには長けていた。それもあってか、竹林に通っているうちに慧音は妹紅の扱いを徐々に理解し始めていた。妹紅は案外押しに弱いのだ。しかし妹紅がどうしても慧音と距離を取ろうとするのを感じ取っていた慧音は、何度も話しかけに行って仲良くなろうという作戦を実行している最中だ。
 最初のうちは、慧音を見る度に眉間にしわがよることが多かった妹紅だったが、最近はこんな風に呆れつつも受け入れている様子が見受けられた。
「じゃあ、今日も私の話聞いてくれますか?」
 笑ってそう言う慧音に対し、「どーぞ」と妹紅が答える。これがここ最近の日常だった。

 妹紅に会いに行き始めた当初、慧音は妹紅のことを知りたがった。しかし、慧音が色々と質問を投げかけてみても、妹紅は曖昧な返事しかしなかった。その様子で「多分、この人は自分のことをあまり話したくないのかもしれない」と察した慧音は、自分の話をしてみることにした。すると、興味がなさそうな態度をとりながらも、妹紅は慧音の話をきちんと横で最後まで聞いてくれるのだった。
 それから慧音は、人里でのことを妹紅に話すようになった。ある日は、その日の寺子屋で生徒がしたこと。またある日は、休みの日に里でのんびりしていた時のこと。特に話せるような出来事がなかった時は、自分が普段思っていることを話してみた。どんなことを話してみても妹紅の態度は特に変わらなかったが、どれも最後まで聞いてくれていた。
 いつか妹紅が心を開いてくれた時は、と思うことも時々あったが、そんなことよりもただただ、こうして話せることが嬉しいと思う慧音なのであった。

 そんなある日、変化は突然訪れた。
「今日は幻想郷の歴史を教えていたんですけど――」
 寺子屋の先生は慧音しかいないため、一人でいくつもの教科を生徒に教えている。その中でも、慧音は歴史が最も好きだった。たくさんの過去が重なって今に至っている、それを再認識できるのが好きなのだという。
 一度歴史の話が始まれば、慧音はたちまち自分の好きな歴史について語り出してしまう人だった。丁度この日に教えていたところが慧音の好きな箇所だったらしく、先程生徒たちに語ったのと同じように妹紅にも語り出した。寺子屋の生徒たちだったら退屈で欠伸を噛み殺しているところだが、妹紅は何か考える様子でその話を聞いていた。
 暫く語っていた慧音だったが、その途中で我に返った。
「はっ、しまった、この話題になると夢中で話してしまう……」
 そんな慧音を見て、妹紅はふっと笑ったのだった。
「え、妹紅、今笑いました!?」
「いや、お前の様子があんまりにも面白くてつい……」
 今まで妹紅が見せてきた表情といえば、しかめっ面か呆れた顔か無表情か、大体そんなものだった。そんな妹紅が笑ったのだから、慧音が驚くのも無理はない。
「……妹紅って、笑うんですね」
「なんだよ、私だって笑うことくらいあるさ。鬼じゃないんだから」
 折角の笑顔がいつも通りのしかめっ面になったと思いきや、ふっと懐かしそうな目を見せる妹紅。
「……それに、懐かしい話を聞いたなと思って」
「懐かしい?」
「あぁ。今お前が話してたこと。すっかり忘れてたけど、そういやそんなこともあったなって」
 空の方を見上げながら言う妹紅に対し、きょとんとした表情を浮かべる慧音。
「……まるでその当時にも存在していたかのような口ぶりですね?」
「だからいたんだって、実際に」
「え?」
「私、不老不死の人間だから」
「……えぇ!?」
 突然の告白に、慧音は先程の比ではないくらいに驚いた。接していくうちに、確かに妹紅は不思議な外見をしつつも人間ではあるとは思っていた慧音だったが、まさか不老不死だとは思うはずもなかった。開いた口が塞がらない慧音に対し、妹紅は言葉を続ける。
「お前、ここに来始めた最初の頃に訊いたよな。『どうして人里じゃなくて竹林に住んでいるのか』って」
「あ……はい、というかよく覚えていましたね」
「まぁな。あれはこの不老不死が関係してんだよ。十年二十年同じところに住み続ければ、姿が全く変化しないのは怪しまれる。だから人が寄り付かないこの竹林で暮らしてる。そういうことだ」
 風が吹き、葉っぱ同士が擦れる音が響く。妹紅は変わらず目線を上空に向けたままだ。
「妹紅は……元々は私みたく、普通の人間だったのですか?」
「ん? あー、そうだな……私はお前と違って、外の世界の人間だったけど」
「外の世界!?」
「……さっきからそんな驚く?」
 慧音は幻想郷の中で生まれた人間であり、人里の人間も慧音同様に幻想郷出身の人間が今では多い。そのため、人里では「外の世界」は概念と化しつつあったのだ。そんな外の世界から来た人間で、しかも不老不死?と、慧音の中の常識がこの短い時間で、しかもたった一人の存在によって、一気に覆されようとしていた。
「な……何かが崩壊しそう……」
「いや、落ち着けって。別に私が不老不死であっても外の世界の出身であっても、別に今すぐ何かが変わるわけじゃないだろ。深呼吸でもしとけ」
「そ、そうですね、深呼吸……」
 息を吸って吐いて、を二、三回ほど繰り返したところで、やっと慧音の頭の中が落ち着きを取り戻したようだった。はー、と息を吐きながら慧音は言う。
「いやぁ、本当にびっくりしました。まさか妹紅がそうだったとは……」
「まぁ、私も好きでこんなんになったわけではないけどさ」
「何かあったのですか?」
「んー……簡単に言うなら、父親に恥をかかせた奴への復讐を試みた結果、って感じかな。話せば長くなるから、それはまた気が向いたら話す」
 そう言いながら髪を乱雑に掻いた妹紅は、自分の発した単語でとあることを思った。
「……そういやさ」
「何ですか?」
「お前、幻想郷で生まれたんだろ? それなら親も近くにいるのか?」
 問いかけながら慧音の方を向いた妹紅は、彼女の表情が真顔から寂しさを滲ませたものに変わる瞬間を見逃さなかった。その変化に微かに驚きを覚えつつ、慧音の反応を待った。慧音は静かに首を横に振った。
「私には親は、いないんです」
 そして慧音は言葉を紡ぎ始める。
「記憶も残らないほど幼い頃に私は親元を離れ、里の孤児院に引き取られました。だから孤児院の先生が私の親みたいなものでしたが、その先生も数年前に病気で亡くなりました」
「……そうか、それは辛いことを訊いたな」
「いえ、大丈夫です。今、ちゃんと幸せですから」
 慧音は微笑みを浮かべながら言葉を続けた。
「私、その先生の『子どもを幸せに育てたい』という意思を継いで、孤児院の施設を寺子屋に変えて先生になったんです。だから、こうして過ごせているのは幸せだなって常々思います。
 それに……こうして妹紅という話し相手ができたので、家族はいなくとも私は全く寂しくなんてないのですよ」
 そんな慧音を見て、妹紅はぽつりと呟くように言った。
「……慧音、」
 その瞬間、慧音は再び目を見開いた。
「い、今、私の名前……!?」
「これでも記憶力に自信はあるんだ、ちゃんと覚えてたよ。呼ばなかっただけだ」
 ずっと慧音のことを「お前」としか呼んでいなかった妹紅が、初めて彼女の名前を口にしたのだった。妹紅も再びふっと笑い、言った。
「――私もだ」
「えっ?」
「私も、慧音っていう話し相手ができてから、寂しくない」
 よいしょ、と言いながら妹紅は一旦立ち上がる。そこそこ長い間座っていたため、体が固まっていたのだった。伸びをしつつ、続きを口にする。
「不老不死だし、そもそも昔の人間だし、できるだけ人とは関わらないようにしてたんだ。余計なこと引き起こすのも嫌だったしな。お互い傷付くだけなのは目に見えてた。だから慧音とも、正直距離を縮めるようなことはしたくなかった。
 でも、諦めずにいつも話しかけに来てくれるその姿を見て、慧音なら親しくなってもいいのかもしれないって思ったよ」
 妹紅は振り返り、慧音の方を見た。
「だから、これからも暇人の話し相手になってやってくれないか」
 そんな妹紅の優しい表情を見て、慧音も立ち上がって言った。
「ええ、勿論ですとも。妹紅」

 こうして妹紅とも打ち解け、慧音にはまた幸せな時間が一つ増えた。
 普段は愛する子どもたちに授業をし、里でいつも通りの日常を過ごし、その中で時々妹紅に会いに行って話をする。
 そんな平和なこの日常が、これからもずっと続いていくと思っていた。
 疑う余地も、なかった。


 To Be Continued…

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