僕らはずっと子どものままで
――「16時に公園集合ね!」って約束してるのに! こんな日に限って先生のバカ!
そんな思いで少女は学校からの帰路を必死に走っていた。本来は二十分くらい前には家に帰れていたはずなのに、急遽先生に呼ばれて帰りが遅くなったのである。教室を出る頃には約束の十五分前。急いで帰ってランドセルを置かなければ遅刻は確定だった。
少女は校門を出るなり、数年間通ってすっかり慣れた道を順番に曲がってゆく。後ろに背負っているランドセルの中身がガタゴト音を立てて上下に振られていた。走る時に、ランドセルの右側についているパスケースが無造作に揺られるのが鬱陶しいので、彼女は毎回右手にそのパスケースを握り締めている。流石に十分近く走り続けるのは苦しいので、途中で歩いて呼吸を整えはしたものの、彼女は自宅に着くまでの間ほぼずっと走っていた。
「ただいまぁっ……!」
やっとの思いで目的地まで辿り着けた少女はドアを手前にガチャリと開き、そう言いながら自分の部屋まで早足で向かった。そして机の横にランドセルを急いで引っかける。
「舞、おかえりー」
そんな急いでいる彼女に対し、彼女の母親は正反対にのんびりと、笑いながら声をかけた。
「ただいま……だけど僕もう行ってくるね! 里乃が待ってるから!」
「あらあら、忙しいわねぇ。行ってらっしゃい。気を付けるのよー、あと里乃ちゃんにもよろしくねー」
最低限の持ち物を手にし、舞はスニーカーを履くのもなあなあに再び自宅の外へ駆け出した。
*
舞が公園に着く頃には、約束の時間を五分ほど過ぎていた。夕方が近い時間の公園には他の子どももたくさんおり、舞は公園内をきょろきょろと見渡す。すると、元気に動き回っている子どもの風景の中に紛れて一人、端のベンチに静かに座っている一人の少女がいた。それを見つけた途端、舞はそこを目指して走り出す。
「里乃ー! 遅れてごめんねー!」
舞が彼女の名前を呼ぶと、里乃はパッと顔を上げた。
「舞! 珍しく遅刻だねー、どうしたの?」
「ごめん、帰り際に先生に捕まった……これでも急いで走って帰ってきた……」
「ありゃりゃ、それなら仕方ないねぇ」
「今日に限って……本当に勘弁してほしかった」
舞と里乃は同い歳の幼馴染み。ご近所さん同士で仲良くなったことがきっかけだ。今でも家同士はそこまで遠くないのだが、小学校は別の所に通っている。だからこうして、二人は定期的に会って遊ぶ約束をすることにしていた。それぞれの環境で仲良くなった友達ができても、この約束だけはお互いに必ず守っていた。
おっちょこちょいな舞と慎重な里乃。正反対にも見える二人だが、不思議と気が合うのである。
「何しよっか! ブランコは今並んでたよね」
「ん-、取り敢えず機関車行く?」
「あ、そうだね! 機関車登るかー」
二人が集合した公園には、ジャングルジムがない代わりに機関車をモチーフとした登れる遊具があった。そこに登って上で話すのがお気に入りだったりする。幼い頃は階段代わりの取っ手を登るのも段差を乗り越えるのもやっとだったのに、今では二人とも軽々と目的の場所まで行けるようになっていた。
「よいしょっと……着いたー。あー疲れた……」
「え、もう疲れちゃった? 休む?」
「違う違う、学校から家まで走ったからそれもある。大丈夫だよー」
「よく走ったねぇ……舞はドタキャンしないの分かってるから、私待ってたのに」
「大事な約束なんだからやっぱり遅れたくはないよー。こうでもしないと中々里乃には会えないんだもん」
小学生といえども、二人が会えるのは大体月に一回程度。これから学年が上がるにつれてもっと忙しくなれば、会える頻度はさらに減るだろう。舞も里乃もそれをなんとなく分かっていたから、絶対に約束は守ろうと思っていたのだ。
舞は遊具の縁に腕を乗せ、組んだ手の甲の上に顎を置いた。その顔は、里乃に会えたというのに少々つまらなそうだった。どうやら色々と思うことがあるらしい。
「あーあ、何で僕も里乃と同じ学校行けなかったのかなぁ。同じ公立なのにさー」
「まぁ、家からの距離とかもあるしねぇ……親が決めちゃったし」
「そこは『一緒の学校にしましょう』とかなかったのかね? ……あーでもマイペースなうちの親が言い出すことはないかぁ」
「……舞ん家のお母さん、おっとりしてるもんねぇ」
苦笑しながら里乃はそう答え、舞の横で頬杖をつく。少しずつ夕暮れの息がかかりつつある色の空を眺め、綺麗だなぁと心の中で呟いていた。
「舞は学校楽しくないの?」
「え、普通に楽しいよ? でもやっぱり里乃と一緒にいる時が一番楽しいってこと」
「そりゃあ、私はそんじょそこらの人より一緒にいる歴長いもん。当たり前でしょっ」
「里乃って何故か急に自信たっぷりになるよね!?」
「ふふ、だって舞は私の幼馴染みであって親友だもん~。自信ありありよっ」
里乃はまるでおかしそうにクスクスと笑う。そんな里乃を見て、舞もつられて笑った。
「でも里乃だって学校に友達いるでしょ?」
「普通にいるよ? でも一緒に遊ぶとかはないかなぁ」
「えっ、何で?」
「私もその友達も、本読むのが好きだから。だから一緒に図書室行って本読むとかならよくある」
「えっ、それ一緒にいる意味ある?」
「あるある。帰りに本の感想言い合ったりするもん」
「あぁ、なるほど……そういうもんなのか」
僕にはよく分からん、といった表情をしつつも舞は頷くことにした。
「でも、それなら僕とはこうして公園で会ってくれるよね? 何で?」
「『何で』!? うーん……何でって言われても、なんかそれが当たり前っていうか……?」
「じゃあ今度は図書館で集合って約束したら里乃はどうする?」
「……いや、舞とは一緒に本読むより、こうして話してる方がいいなぁ。却下」
「却下って、そこまで言わなくても!」
舞が思わず体を起こして反応するのを見て、里乃はあはは、と声を上げて笑った。
「ほら、そういうとこだよ。それが好き」
そして突然さらっと告白なんてするものだから、舞の顔が少し赤くなった。照れ隠しをするかのように、舞は口を尖らせて言葉を返す。
「……はいはい、里乃が僕を大好きなのはよく分かってますよ」
「またまた照れちゃって~」
「はーいはい、そこ! ちょっと黙ろうね!」
まるでカップルか、と突っ込みたくなるようなやり取りを繰り広げる二人。最後にはお互いに可笑しく思えてきて、二人の笑い声が夕方の空に上って行った。
どちらかというとアウトドア派で、休み時間はクラスメートと校庭で遊んでいる舞と、どちらかというとインドア派で、教室や図書室で読書をしていることが多い里乃。お互いに小学校に入ってからはっきりと遊び方が分かれたものの、こうして会う時にどちらかの遊び方を強要するようなことは一度もなかった。それも幼馴染みだからこその理解なのかもしれない。
ひとしきり笑った後、里乃がふと視線を下に向けて何かに気付いた。
「あれ?」
「ん? どうしたの里乃」
「あの人……なんか困ってない?」
そう里乃が指さす方向を舞も見た。そこには車椅子に座っている女性が、何やら困ったようにその場に留まっている様子が窺えた。二人は顔を見合わせてすぐに「ちょっと行ってみようか」となった。他の子どもの邪魔にならないように、且つ少し速足気味にそこへ向かう。
「あのー、大丈夫ですか?」
先に地面に降り立った舞が、車椅子に近寄って声をかける。すると、車椅子の女性はパッと舞の方を振り返った。
「あぁ、お声掛けありがとう。車椅子のタイヤが溝に嵌まってしまって、身動きがとれなくて少々困っていたんだ。申し訳ないんだが、少し手を貸してもらえたりするかな?」
その女性は、丁寧なような、でも相手に有無を言わせない力を感じるような、不思議な話し方をしていた。しかし舞はそんなことを気にするよりも、女性を助けることの方が優先順位が高いと即座に判断した。そして、後ろを追ってきた里乃に指示を出す。
「里乃! 僕が右側を引き上げるから、里乃は左側からこっちに押してくれる?」
「あ、うん! 分かった! こっちからだね?」
幼馴染みの二人は、「せーの」で息をぴったり合わせて車椅子を溝から外した。無事に車輪が地面に戻ったことを確認した女性は、再び振り返って言った。
「ありがとう、助かったよ。君たちが来てくれなかったら立ち往生する羽目になっていたよ」
「どういたしまして! でもここ、ボール飛んできたりしてちょっと危ないんで、向こうのプールの近くまで押しましょうか?」
「それはとても助かるな。お言葉に甘えて、是非お願いしてもいいかい?」
「はい!」
見知らぬ人にでもこうしてすぐに親切にできるのが、舞の行動力の凄いところだ。と、里乃は舞の行いを見る度に感心している。慎重な性格もあって引っ込み思案気味な里乃は、そんな舞のことを密かに羨ましいと思っていた。
でも。
「里乃、行こ!」
そんな里乃をいつも引っ張ってくれるのもまた、舞なのであった。
「うん!」
車椅子を押す舞の横を、里乃は歩き出した。
*
「この辺りならもう大丈夫だと思います」
二人が集合した公園は割と規模が大きく、公園内には市民プールが併設されている。全体的に子どもの姿が多いこの公園でも、その辺りまで行けば遊ぶ子どもたちの姿は大分減るのだ(プールの施設前では遊んじゃダメと注意されるから)。舞が女性にそう声をかけながら足を止めた。
「お気遣いありがとう、本当に助かったよ」
「どういたしまして! 困っている人がいたら助けなきゃですし」
「優しい子なんだね、君たちは」
女性はフッと笑い、二人を見上げた。そして問いかける。
「君たちは友達同士なのかい?」
「友達というより、幼馴染みなんです。今日は一か月ぶりに遊ぶ約束をしてて、ここに来てたんです」
「そうだったのか。そんな時にお邪魔してしまって申し訳なかったね」
「全然大丈夫です! では、僕たちはこれで」
「あぁ、本当にありがとう。優しいお二人さん」
そう言って、車椅子の女性は公園の外に伸びる道の方へ向かって行った。
「舞、凄いね」
それを見送りながら、里乃がぽつりと呟いた。
「え、何が?」
「ああやって知らない人にもすぐに親切にできるの。私、ああいう時ためらっちゃうから」
里乃のその言葉に舞は一瞬きょとんとしたものの、すぐににっこり笑いながら答えた。
「さては自覚ないな?」
「えっ?」
「最初にあの人に気付いたのは里乃だよ? あの時に里乃が気付かなかったら、僕も行動は起こせなかった。だから里乃のお陰!」
「でも、気付いただけだし……」
「何を今更! 僕が至らないところを里乃はいつもカバーしてくれたでしょ? その辺こそ自信持っててほしいんだけどなぁ」
風でそよそよと揺れる木を背景に、舞は得意気に笑った。
「あ、ねぇ! プールの入口の自販機でパン買おうよ、僕ちょっとお腹空いちゃった」
「えっ、買い食いしたらお母さんに怒られない?」
「大丈夫だって、僕たちだけの秘密にすれば!」
心配する里乃をよそに、舞は里乃の手を引っ張ってプールの施設の自動ドアへ走っていく。そして数分後、そこには菓子パンの袋を一つずつ手に持った二人が現れた。二人はそのまま、近くのベンチへ腰かける。
「いただきまーす」と、舞が早々に封を開けて食べ始めた。そんな様子を見て、横で里乃はクスッと笑った。
「舞、よっぽど食べたかったんだね」
「いやもうさ、走ったこともあってさっきからお腹空いてて……」
「あはは、パンは逃げないからゆっくり食べたらいいのに」
そう言いながら、里乃も開封して一口齧る。真ん中にキャラクターが描かれたチョコレートのあるソフトデニッシュ。たまにこうして食べるのだが、今日も甘くて美味しかった。
「……僕、大人になりたくないなぁ」
暫く食べ進めていると突然、舞がぽつりとそう言った。空は先程よりも夕暮れの色が濃くなっている。
「どうしたの、急に」
「いや、さ……やっぱり、こうしている時間がいいなって思ってさ」
いつの間にパンを食べ終わっていた舞は、空になった袋をくしゃっと握り締める。
「今でも月に一度会うのがやっとで、でも多分学年が上がるにつれて、またさらに会う頻度は減っちゃうじゃない」
「そうだねぇ……今よりはきっと忙しくなっちゃうよね」
「この先、卒業して中学校行って高校行って、って考えたら、どんどん里乃と会えなくなるような気もしてさ」
舞はふぅ、と息を吐く。里乃はまだ残っているパンを齧ったが、あれだけ美味しかったはずなのに、急に味が遠くなったような感覚を抱いた。
実は、舞が言った言葉がそこまで間違ってもいなかったからだった。里乃は家で、私立の中学校に進学するか否かを丁度両親と話していたのだ。
「この先里乃と中々会えなくなるくらいなら、正直ずっと子どものままでいたいよ。そしたらこうして話していられるのにね」
舞が放ったその言葉は、子どもにはよくありがちな願望だった。遊んでいたいから、今がいいから、これ以上大人になりたくない。大人になって振り返ってみれば大したことない思いでも、今の舞にとってはそれは紛れもなく本心だった。
「……私も、舞と同じ気持ちかなぁ」
舞の言葉を受け取った里乃も、そう答えた。
その時、どこからか少し強めの風が吹いてきた。二人して思わず「わっ」と声を上げながら目を瞑る。舞が持っていた空き袋はどこかへ飛ばされてしまった。しかし、風は割とすぐ収まったので、二人が再度目を開けると――。
そこには、先程別の方向に行ったはずの、車椅子に座っていたはずの、あの女性の姿があった。
「――その願い、叶えてあげようか」
そう言いながら、彼女はそこにいた。
「あなたは、さっきの……?」
里乃はそう答えつつも首を傾げていた。何故なら、顔と髪は先程の彼女と同じだったが、服装と腰掛けているものが先程と全く異なっていたからである。角帽のような帽子に長い前掛けのある服装、そして手には鼓。腰掛けているものは車椅子ではなく、肘掛けのある重たそうな椅子。何か変だ、と思っていた。
そんな困惑している二人に対し、目の前の彼女はその問いかけに頷いた。
「そうだとも。あれから少し離れたところで、二人の様子を見させてもらったよ。……実に相応しい」
「相応しい……? って、何がですか?」
「人のために動くその思いやり、欠けたところを補い合う心、そして……その『大人になりたくない』という願い。全てが条件に合っている」
彼女が並べたものの意図するところは舞にはよく分からなかったが、これだけは察していた。
――多分、このままじゃヤバそうだ。
「――里乃っ、行くよ!!」
彼女に対していち早く危機感を抱いた舞は、里乃の手を取って帰り道の方向に走り出した。急に走り出した舞に引っ張られながらも、里乃も必死に走る。
――あの人に捕まったら、きっとまずいことになる。
そんな思いで、転びそうになりながらも二人は細い道を真っ直ぐに走ってゆく。ここを走り切って角を曲がれば、舞の家はすぐそこだった。ひとまずそこまで行けば安心だと思った。
しかし。
「もう遅い」
そんな彼女の声がどこからか聞こえ、それと同時に視界の目の前にいた人の背中にいきなり扉が現れた。
「成長を望まぬ、他人に尽くせる者たちよ。我が傀儡となるがよい」
そこに勢い余って舞が、それにつられて引っ張られて里乃が、その扉の中に転がり込んでゆく。
その中は真っ暗で、二人は重力に逆らうことなく落下する。扉から入る、元いた場所の光がどんどん上へ遠くなってゆく。
「うわぁぁぁぁああ!!」
舞の叫び声が空間に響く。
「お母さん、お父さん、助けて……!!」
必死の思いで里乃が叫ぶ。
しかし二人の声は、暗闇の中へ虚しく溶けてゆくだけだった。
どこへ向かうのか、自分たちはどうなるのか。
何も分からないまま落ちゆく二人は、やがて意識を失った。
――二人のかつての記憶は、そこで途切れている。
橙色に染まる夕空の中、数羽のカラスが鳴きながら空を飛んでいる。
そんな空の下、三分の一ほど食べられた菓子パンが一つ、細い道の途中でぽつんと取り残されていた。
fin.
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