例の応募作の原文(第3部のつもり⑤)

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 10日ほど後、私はまた島崎先生との憂鬱な汽車旅を経て新潟に降り立った。市葬は数年前に建てられたばかりの公会堂で行われた。モダニズム様式のすっきりした造りの建物を見た時、出征直前の青海君が川沿いの道を歩きながら、この公会堂のことと芸校建築科の先輩で五人展をともに開いた熊谷さんの話をしてくれたことを思い出した。「熊谷さんは在学中、『ハイカラな建物を新潟にぼんぼん建てるんだ』って言ってたんだけどな。今は建物の面構つらがまえなんてどうでもいいんだってさ」とこぼしていた横顔が、まぶたの裏にくっきりと浮かんだ。
 青海君はきっと、北日本最大という時計台も備えたこの瀟洒な建物を遠くから望んだだけで、熊谷さんの変貌を想起しただろう。彼にとって裏切りという言葉とつながってしまった可能性もある公会堂で、故郷から引っぺがされるようにして戦地に赴き、「お国のため」という合い言葉のもとに命を散らした人々の葬儀が行われようとしていた。お国のためという言葉とは正反対の場所に落っこちてしまったいくつもの命が、とむらわれようとしていた。
 本来は音楽会や演劇の公演に訪れる客を迎え、彼らのわくわくした思いを倍加する役割を担う場所であろうロビーに、私と島崎先生はいた。先生は「新潟にこういう建物があるなんてなあ」などと言いながら歩き回ってはしつらえに目をらしていたが、私は調子を合わせたりせず、外を見るでもなく見ていた。ただ、先生の靴音が耳障りだった。
 車寄せに、ひとりの人間によって延々と続いてきたのであろうお喋りの声とともに、男達の黒い塊が現れた。その真ん中にいたのが、小塚だった。
 おつきを従えて「さあ嫉妬しろ」とばかり速足で歩いてきた彼だったが、損得以外のことに価値や面白味を見出そうとしない人間性が透けて見えるのは相かわらずだ。外套がいとうは一見して高級品と分かったが、その中で彼の貧相な体、いや小塚という薄っぺらな人間が泳いでいるようだった。彼と鉢合わせしないうちに便所にでも逃げ込んでおけばいいものを、私はなぜかそうしなかった。
「やあ、先生! 島崎先生」
 わざととしか思えないほど快活に手を上げてみせた小塚の馬鹿でかい声がロビーの天井に跳ね返って、居合わせた人の驚きや呆れた視線とともに降ってきた。
「お久しぶりです。先生も、今日は弔辞を読まれるそうで」
「そうだよ。君は変わらないな」
「え、変わらないですかねえ。
 いやあ、少国民画報社から『青海君の市葬で、小塚先生に弔辞を読んでほしいと新潟市から依頼されている』と連絡が入って初めて、彼が戦死したことを知りましてね。卒業制作で首席になったのは風の便りで聞いていたんですが」
「『少国民画報』で大人気、毎号巻頭を飾る漫画『一宇くん』の作者であらせられる、小塚みのる先生のお出ましだ」と取り巻きに言わせればいい。地元民が人だかりを作った中で「ふん、田舎者が」と薄笑いするところを夢想していたんじゃないのか。そう声をかけてやりたくなった。しかしこちらに気づかず、言葉を交わす機会もないならそれに越したことはない。
「ここでは、これから葬儀が行われる。そんな大きな声を出すものではない」
 彼に上からものを言える人間など既にいなかったのだろう、ほんの少し怒りの表情を見せた頬に不自然な笑みを貼りつけた小塚に、島崎先生は「そこに大畑君もいる。彼が二席に入ったのは知っているか」と言い、慌てて視線をそらした私を指した。その瞬間、「こちらは人気漫画家の小塚みのる先生です」と叫んで逃げてしまおうか、参列者が相手をしてくれるだろう、などと思ってしまった。しかしそんな馬鹿なことはできないし、地元の人のほうがよほどわきまえているだろう、彼らがこんな所で「先生、先生」と小塚を取り囲むはずがない。
 ロビーにいた参列者の中には既に、目の前にいる馬鹿があの人気漫画家なのか、と言いたげな視線を小塚に向けている人もいた。ここにいる誰かの目撃談が少しずつ、やがて全国に広まって「少国民画報」の売り上げががた落ちになればいい、なんなら廃刊になったっていいんだ、と思った。あれがうちの店頭から消えたら、代わりに何を並べようか。
 いや、似たような国策雑誌を並べるしかない。子ども達は戦争が続く限り、そんな本を「よいもの」だからと無理やりあてがわれて勘違いを植えつけられ、やがて自らの意志でそれらを手にとって読みふけり、次号の発売日を心待ちにするようになるのだ。子どもの客といえば、そんなのばかりじゃないか。
「よう、本屋の若旦那。相かわらずだな」
 この男にとって私との対峙たいじなど毛ほどの意味もないはずだ、私にとってもそうであるはずだがとにかく面倒くさかった。
「ああ、どうも」
 そうだ、本音とは正反対の言葉を返し続ければいい。とりあえず「ご立派になられて」と言ってみた。この男にとって、ちやほやされる喜びは慣れっこであり、人が集まる場所でそれを感じられないと物足りなくなってしまう(どころかその喜びを常にむさぼっていたい)ほどだろう。肥大した自己愛を適当に刺激しておけば時間が流れて、そのうち会場係がロビーで時間をつぶす我々に「会場へお入りください」と声をかけてくれる。あるいは市の人間がこいつを迎えに来て、弔辞の打ち合わせか何かのために控室へ連れて行ってくれるだろう。それまでの辛抱だ。
「お前の店では『少国民画報』は売れてるかい、どうだ」
「はい、大好評です。お陰様で稼がせていただいております」
「卑屈な態度はやめてくれ」とでも言えばいいものを、小塚はすっかり悦に入ってやに下がった顔になった。誰かが眉をひそめたのが視野の片隅に入ってきて、なぜか後押しされているような気分になった私はこの大先生の足元をすくう一言を吐いてやりたくなり、その言葉ときっかけを探り始めた。
「お前は出征しないんだろう? その身体じゃ、なあ。丁種か」
「そうですね」
「実は俺も出征しないんだ。俺の場合は、お国のほうで便宜べんぎを図ってくれたんだけどな」
 ロビーにいる誰もが我々のやりとりを聞いている、と悟ってすっかりいい気分になってしまったのだろう、小塚の声がさらに大きくなった。
「陸軍大臣直々じきじきに、こうおっしゃってくださった。『小塚先生は少国民の心を育てる大事な人材です、素晴らしい才能をお持ちの先生を戦地に送って無駄死にさせるわけにはいきません。大船おおぶねに乗った気持ちで、執筆活動に励んでいただきたい』ってさ。まあ俺もいくらか包んだんだ、額なんて言ってもお前達には想像もつかないだろうけど。
 そうだ、こんなことも言ってたな。『先生が芸校をおやめになった年の冬に視察に行きましたが、いくら文弱とはいえ、いやあ、あれは』って、笑いをこらえながら。いったい何をやったんだ?」
「猿芝居、ってところでしょうかねえ」と答えながら、私は腹の底で「皆さん、こいつを袋叩きにしませんか」と叫んでいた。彼の足元をすくうという芸当など、私ひとりではできない。平澤君や玉井先生がいてくれれば、と思っていたら、その玉井先生の名前が小塚の口から出てきた。
「それにしても芸校もいつまで官立でいられるかなあ、いやそれ以前に、今後も存続していけるのかどうか。島崎先生もあぶないですよ。玉井のおっさんは従軍画家に志願してフィリピンだかどこだかにいるそうですが、賢明な選択だったでしょうねえ」
 言うまでもなく小塚は在学中から玉井先生を蛇蝎だかつのごとく嫌っていた、玉井先生は「私に言わせれば、小塚などは蛇蝎そのものだ」と言うだろうが。
 百歩譲って、嫌いだったから、考えが違ったから、あるいは自分が認めてもらえなかったからというのは仕方ないとして。玉井先生さえも小塚にとっては勝ち負けの対象でしかなかった、いや、芸校の中にいた個人ではなく芸校そのものが、彼にとって打ち負かすべき宿敵だったのだろう。
 表現活動としての絵に対して一切の興味を示さなかった(月見団子の件を思い出すまでもない。絵なんてものは形がなんとかなっていればいい、その程度の意識しか持っていなかった)小塚は、技術的にはそこそこだったものの評価が低いどころでは済まないほど嫌われていて、人柄に関する噂を聞いた後輩にまでうとんじられていた。彼自身そのことに対しては、百も承知と開き直りながら納得いかない思いがあったようだ。
 だがなぜそんなに嫌われたのかといえば、彼が純粋に芸術を学びに来ていたのではなく、成功者になってそれまでの人生で関わった者すべてを羨ましがらせ、歪んだ敬意を払わせる手段やきっかけを探るために来ていたからだ。そこに理由があることにもちろん気づいていないだろうし、気づいたとしても「それがどうした」の一言で済ませて、自分を見つめ直すような境地には至らなかっただろう。だからみんな、彼に関しては放っておくのが一番、もし話しかけてきたりしたら冷たく突き放せばいい、と決めていた。
 その後、小塚は自分が一番ほしかったものを手に入れ、それを見せびらかしながら自分を受け入れようとしなかった芸校を去った。その後の彼はまさに順風満帆だったのだろう、だから堂々としていたし、かつて夢想したであろう「優越感の中で泳ぐ自分」を、貧相な体の隅々まで使って体現していた。自分以外のすべての人間に「ひどく滑稽」と評されてもどこ吹く風なのだ、なぜならこのがりがりの男、同級生が「むかで」と渾名あだなみ嫌った馬鹿男は「成功者」なのだから。
「大畑。お前は卒業制作で二席に入ったそうだが、それによってもたらされたものはなんだ? けちくさい額の奨学金をもらって、鼻くそ程度の仕事をもらって、あわよくば講師になって役立たずの文弱を大量生産して、というだけだろう。お前ら卒業生のやってることなんて俺の何百分の1だ、でもお前らはそれを喜んでやってるんだろう? そう思うと笑えてくるよ。
 俺は言うまでもなく、お国の役に立っている人間だからな。本屋の帳場にちんまり座って、その合間に誰も見ないような挿絵を描いてるだけのお前とは違うよ。
 そういえば、もっと哀れな奴がいたな。青海は卒業制作で首席をとったのに中国に送られて、あっという間に死んじゃった。
 あいつは嫉妬深い、ちんけな男だったなあ。俺が成功の糸口を掴んだら大いにやっかんで、俺を軽蔑するだとかなんだとか言ってさ。挙句に、騒ぐしか能がない大西とぐる・・になって俺を殴りやがった。お前はそれを見ていたじゃないか、嫌らしいにやにや顔で。
 でも青海は死んだ。俺にとってはまさに、溜飲りゅういんを下げた出来事だった。卒業生も中退者も関係ない、俺が38期生で一番だ。今日これから俺が奴に弔辞を捧げるんだ、お上から頼まれたんだもの。こんなもんだよ、世の中っていうのは。
 日本画だけじゃないよ。『表現活動でござい』って格好つけて、自己満足に毛が生えた程度の成果しか出せない作品に、いったいどれだけの影響力があるっていうんだ? 漫画でも小説でも音楽でも、なんだっていいんだ。時流を読んでその流れに乗り、力のある人の信頼を勝ち取った人間だけが影響力を持てるんだよ。世の中を動かすことができるんだよ。俺はそれを手にしたんだよ。お前らにそれができるか、どうだ!
 ね、どうですか? 島崎先生は。それができれば、あんな学校で井の中のかわずよろしく格好つけて、なんて毎日からおさらばできる。
 ま、できないでしょうねえ。先生だって好きこのんであの学校に居座ってるんだもの、何年も」
 先生はこぶしを固めていたがまさかそれを振り上げることはしないだろう、青海君の家族のみならず学校をも巻き込んでしまうことになるから。
 島崎先生が口もとを震わせながら、それでも静かな口調で「ああ、できないね」と返した時、市の職員がやって来た。小塚を呼びに来てくれたわけではなく、島崎先生に用事があったのだ。職員はくぐもった声で先生に弔辞の原稿を見せてくれるよう頼んでそれを一読し、「最後のほうに『小塚先生が青海さんの分まで頑張るから』と入れてもらえませんか」と言った。
「ことわる」の一言をロビーに響かせた島崎先生は、次の瞬間には外へ飛び出して客待ちをしていたハイヤーに飛び乗った。
 青海君の家族が一部始終を見ていなかったのが救いだった。お母さんには私のほうで「島崎先生は急遽きゅうきょ東京に戻ることになった」とかなんとか見えすいた嘘をついたが、もっともご遺族だって何があったのかぐらいお見通しだっただろうし、嫌でも事の成り行きを耳にすることになるだろう。
 定刻に市葬は始まり、とどこおりなく進んだ。
 小塚は「結局は、お上に取り入って出征せずに済んでいる俺の勝ちだ。しかしうわべ・・・だけでいえば戦地で犬死にするのが美徳ということになっているから、お前もその名誉を手に入れたことになる。俺は今後もそういう哀れな奴を大量生産すべく執筆に励んでぼろ儲けするから、あの世でせいぜい羨ましがればいい」という趣旨の弔辞を読んでいた、もちろん美辞麗句のオブラートに包んで、だが。
 彼の声には無駄な張りがあった。これは弔辞でもこれから戦地に向かう者へのメッセージでもなく、単なる勝ち名乗りなのだ、と私は認識した。

 こんな、狂騒曲とでも形容したくなるような市葬から数週間が経ち、朝晩の冷え込みが厳しくなってきた頃。ある時、青海君の上官が手紙に同封してくれたはがきを引出しから出して、その裏に描かれた素描を改めてじっくりと眺めてみた。
 青海君は、私の元には田舎町の家並やなみだとか遠くに山脈を望む風景だとか無難なところを描いたものばかり送ってきたが、上官が同封してくれた3ようには、いずれも兵士の姿が描かれていた。はがきの表は真っ白だった。
 意気軒昂いきけんこうな若者の姿などどこにもなく、異国の戦地に送られ、死と隣り合わせの状況で「兵隊さん」としての日常を過ごす男達の、疲れきった姿ばかりが描かれていた。営舎の壁にもたれかかり、うたた寝をする男の絵からは喉の奥に引っかかるような重たい寝息が聞こえてきそうで、そのうち悪夢にうなされて飛び起きるのではないか、とさえ思わせる出来だった。
 その顔が青海君に似ていたわけではない。しかし、これこそが戦地での青海君の姿だったのだ。彼は芸術道に邁進できぬ自身の無念を、本来なら味わう必要のない苦しみや恐怖をはがきの裏の素描に凝縮させ、日本で暮らす者にいつか届けよう、と思っていた。もちろんはがきの表には勇ましさを装った空虚な一文が添えられるだろう、しかし裏に描かれたこの絵を見れば一目で彼の思いが分かる。
 ああ、ハル。ここにいたか。私は呟いた。我々は弔いの場で喜劇まがいの馬鹿騒ぎを演じていたが、それとはまったく関係ないところに、彼はいた。

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