例の応募作の原文(第3部のつもり③)

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 お盆の後、私は平澤君と食事に出かけた。彼のところに赤紙が来てしまい、「出征前に飯でも食いに行っておこう」と連絡をくれたのだ。この前に会ったのが、青海君の葬儀の時だった。なんだか悲しくなるようなことでばかり彼と顔を合わせている。
 平澤君はいつにも増して饒舌じょうぜつだった。芸校の近況などを知りたがった彼に、私は本屋の常連客のひとりでもある島崎先生が聞かせてくれる話をそのまま伝えてやった。平澤君のほうは商売の話やら深川の話やらいろいろ聞かせてくれた、近隣の人々はみな、彼のもとに赤紙が届いたのを残念がって「絶対に帰ってこいよ」と言ってくれているという。
「深川にもすっかり馴染んでるんだな」
「本当にみんなよくしてくれる。芸校の時みたいに、いつもあったかい気持ちでいられるんだ」
「そりゃ発ちゃんの人徳だろう」
「おだてるな」
 さっきまで喋りどおしだった平澤君は、それきり黙り込んだ。沈黙がかなり長く続いた後、彼はようやく「お前と顔を合わせるのが、これで最後になる可能性だってあるんだ」と吐き出した。
「馬鹿いうな、発ちゃんみたいな奴はそう簡単には死なないよ」
「みんなそう言ってくれるんだよな、でもどうなるかは分からないだろう?
 実は俺、青海の葬式の時にさ。遺影に向かって『どうか、俺を連れていかないでくれ』って頼んだんだ。
 俺ももうすぐ出征するだろうけど、絶対に生きて帰ってくる。そして女房子どものために、俺を平澤家に迎えてくれたおやじさんのために、深川のために、がむしゃらに働いてあの店を大店おおだなにするんだ。俺は絵を諦めた人間だけど、お前ができなかったことの何割何分かでも形にする、お前の分まで精いっぱいやる。だからあの世にいて寂しくなったとしても、どうか連れていかないでくれ。不甲斐ふがいない奴だけど、だからこそ見守ってほしいんだ、って。
 その時『生きてる人間って、こんなに薄情で勝手なものなんだ』って、つくづく思ったんだ。青海は呆れちゃっただろうな、うっかりしてると明日にでも連れていかれるかもしれない、って。でも本当にこれ以上の本音なんてないし、こんなこと思いながらも、あの世の人が納得できるように生きていくしかないんだよな。
 俺は生きてみたいんだよ。一生懸命生きて爺さんになって、何十年か後にあの世で青海と会った時に『どうだろう、俺はちゃんとやっていたか?』って確認したいんだよ。でもそのとおりになる保証なんかない、いきなりあの世に行くことになったらどうすりゃいいんだ、って。怖いんだよ」
 平澤君は彼自身の人生を思って、泣いていた。彼は死の恐怖に震えながらもこういう形で青海君の面影を背負おうとしている、どころか彼の面影から何かをもらって、困難をくぐり抜け生きようと決めている。「大丈夫、きっと無事に帰ってこれるよ」と言ってやるしかないそう信じたい、そうでないとこちらも辛くなってしまう。
「発ちゃんが、ハルができなかったことを形にする、って誓ったんなら大丈夫じゃないのか?『じゃあ約束を果たしてもらわなきゃ、俺が納得できるようないい人生を歩んでもらわなきゃ』って、弾除けでもなんでもやってくれるよ。
 ところで、さっき平尾君が芸校の助教に就任する、って言っただろう?」
 平澤君の涙が引っこむのを待って、私はさっき自ら言ったことをわざわざ混ぜっ返した。「生活のために挿絵と二足の草鞋でやってたけど、助教になったから芸校の仕事だけでやっていけるようになった。よかったよな」
「平尾でもいいけど、俺は大畑が適任だと思ってたんだよな」
「またそんな…… 俺は店があるから無理だよ」
「じゃあ、やっぱりお前は本屋を手伝いながら挿絵の仕事を続けるだけなのか。俺も今は商売人だ、気持ちは多少分かるようになったけど芸校のことを考えると……」
「平尾君だって有能だよ」
「分かってるよ。いや、そういう意味じゃないんだ。お前は芸校の一番近くにいるのに、仕事をもらうばっかりで母校のために何もしないのか、って言いたいんだよ」
 卒業式の後に首席から三席に入った3人で話したのとまったく同じことを、平澤君も考えていたようだ。私に芸校を見守ってほしいと言ってくれる仲間がいることをまず喜ぶべきだろうが、それで私が「よし」と立ち上がるかといえば、それとこれとは別だ。そんな時代ではないはずだしなにより器ではないと思う、そこが仲間にとって怒りの火種になったとしても、今の私には固辞申し上げるという選択肢以外ない。それでやっぱり、どうすれば、と堂々巡りになってしまう。
「俺はさ。今は、出征しない自分がどう生きていけばいいのか分からない。それが目下の悩みなんだ」
「ああそうか、言ってみろよ。弱気の虫を退治してやるから。出征前の予行演習だ」
「ハルにも平尾君にも『出征しないことが羨ましい』って言われたよ、でも」
「それで?」
「ハルが戦死して新潟から電話をもらった時も、『お前は軍国主義社会の日本ではお荷物なんだ』っていつも嫌味を言いに来る爺さんの相手をしていたんだ。芸校時代の仲間が亡くなったと言ったら、もう滅茶苦茶なことを言われて。
 いつもいつも、三日とあけず、だよ。一応は客だから言い返すこともできないし、『あの爺さん、また来るんだろうな』って思いながら、ずうっと帳場に座ってなきゃいけない。
 いい歳になるまで、そういう奴が入れ代わり立ち代わりやって来て『お前は役立たずだ』って言い続けるのかもしれない。それはそれで嫌なものだよ」
 なんだか芸校時代の気持ちに戻って平澤君に甘えてしまったが、彼の頬に怒りの色がさした時には、しまった、と思った。
「ああ、ああ。随分、弱気の虫が育っちゃってるなあ」
「ごめん。でも、こっちなりの気持ちだってあるんだよ」
「昔の俺なら聞き入れて励ましてやるところだけど、どうもそういう気にはならないんだよな。
 まず、お前は絵が描ける。お前さえ怠けなければ、いくらでも描ける環境にいるわけだろう? 平尾だって助教に就任したからって学校が守ってくれるわけじゃない、赤紙が来たらみんな同じだろうが」
「描けるっていっても、今は時局画を描かなきゃどうしようもないんだよ。美術展をやるといってもああいうもの専門の展覧会ばっかりじゃないか、軍人だの飛行機だのの絵を描いて入選したって嬉しいもんか。俺はそんな奴じゃないって忘れたのか、発ちゃんだってそうだっただろう? 二・二六事件の頃に、そんな話をしたじゃないか」
「時代が違うよ。腹の底は変わってなくても、嫌なことでもなんでもやって切り抜けていかなきゃいけないだろうが。このご時世なら、そんな絵でも描けるだけ幸せ、ってことになるだろうな。俺は戦場に行かなきゃいけないんだぜ、まだ好きなことをできる環境にいるのに聖人君子ぶろうとしてるお前に腹が立つよ」
 出征を控えた人に言ってはいけないことだった、とはとっくに分かっていた。でも私もうまい言葉が出てこないし、理解してもらえない悔しさも捨てきれない。
「お前、本当に昔のいじけた奴に戻っちゃったんだな。それで絵も描かないとなると、単なる腑抜ふぬけじゃねえか。どうだ!」
「そんな言い草はないだろう」
「うるさい! 青海の気持ちを考えてみろ、あいつは描きたかったのに描けないまま逝っちまったんだ。あいつがここにいたら俺と同じことを言うだろうな、間違いなく」
「ハルが彩管報国についてどう考えていたか、知ってるのか? 俺は陽子ちゃんから手紙を読ませてもらった。知りもしないくせに、よく言うよ」
「屁理屈ばかりこねやがって。でもひとつだけ言えるのは、お前は青海の思いを背負おうとしてるとは思えない、ってことだ。新潟の真柄さんが言ってくれたことを全然分かってないんだな」
「違うよ」
「今のお前は周りの環境なんかを言い訳にしてぐずってるだけだ、赤ん坊以下だよ。青海のことだけじゃない、生きて目の前にいる俺の気持ちだってこれっぽっちも考えてないじゃないか!」
 陽子が見せてくれた青海君からの手紙がここにあればいいのに、とも思ったがもうどうにもならない、これ以上なんの言葉も継いではいけない。やっとの思いで「ごめん」という台詞を押し出した時には、平澤君の涙がぶり返してしまっていた。
「最後に喧嘩しちゃったじゃねえかよ。どうしてくれるんだ、馬鹿野郎」

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