例の応募作の原文(第2部のつもり⑤)

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 2日後、私は漁村風景を描くのを諦めて東京に戻った。九十九里浜に滞在したのは10日ほどだったが、その間の増治はじめ当地の連中との関わりを思い出せばやはり描く気にはなれなかったし、無理に描いてみたとしても卒業制作にふさわしくない仕上がりになるのは明らかだった。嫌な場所を描いてどうする、ろくな仕上がりにならないだろう。そう割り切って、一から仕切り直すことにした。
 例えば古刹こさつやお社、そのどこか寂しいような、森閑しんかんとした情景。そんなものを描いてみてもいいのかな、と思いもした。私自身、特に卒業後のことでそれなりに悩んでいる、なんらかの答えを得たいと思っている。だから神社仏閣だのという選択肢も出てくるんだ、としみじみ思った。卒業後やってくるであろう日々への漠然とした恐怖と、増治を思い出すたびにこみ上げるいまいましさはこの頃に私の胸に根を下ろし、その後しばらく私を支配した。
 じりじりした思いに苛まれる中で、なぜか繰り返し浮かんでくる情景があった。それは関根少尉が担当していた頃の軍事教練でちょくちょくやっていた、駆けっこなどの競技だ。
 後で思えば、ありえないほど牧歌的な時代だった。軍人さんにしてみれば、戦力になりそうもない文弱どもの相手をする仕事などはほんの息抜きでしかなかったのだろう。だから我々が好き勝手に運動をやればやるほど、関根少尉は一緒になって面白がってくれた。こういう時には記録係を命じられることもあったが、それがなければ運動する仲間達の姿を画帖に残したり、帰ってから記憶を頼りに描いてみたこともある。大きな紙に背景も込みで描いてみたら面白そうだ、と思ったりもした。
 あの頃の画帖がまだ家にあるはずだ。球投げも跳躍も、逆立ちで歩くところも。体の動きや躍動感だけでなく、だんだん熱を帯びて真剣そのものの表情になった時、その瞬間を描き残しておきたい、といつも思っていた。当時の私の気持ちもそのまま乗っかっている画帖が、自室の棚のどこかに突っこんであるはずだ。
 最近の軍事教練のあんな感じでなければいい。スポーツに真剣に取り組む者の躍動感あふれる姿、彼らが体現する楽しさ、はつらつとした空気を描けばいい。
 この題材はもちろん、卒業制作の画題として有力な候補になった。東京五輪を目指して挑んだスポーツという題材への再挑戦にもなるし、人物画をとおして私の作品の真骨頂を示さなければならない。望むところだ、腕を撫すばかりだ、といってもいい。まずは画帖を探し出して、当時の素描を見返すところから始めてみよう。そんな思いを巡らせるだけでも、例の呪縛をかなり遠ざけることができた。こんなにわくわくしているのはいつ以来だろう、と思ったほどだ。
 同時に気づいたことがあった。私は、青海君とまったく同じところを志していた。躍動する人物の像を描くことで、私が思い描く理想の世界を表現しようとしていたのだ。

 初冬のある日。青海君と大西君が玉井先生に呼び出され、小一時間の後、くすくす笑いながら教室に戻ってきた。「随分長かったじゃないか」と声をかけた私に対し、青海君いわく。
 冬休みに入る少し前に、陸軍大臣閣下が我が校に視察にやって来る。お国の金で、非常時にはなんの役にも立たぬ芸術文化の勉強にいそしんでいる文弱連中の様子伺い、ならびに場合によっては気を引き締めるために他ならず、我が校としても大日本帝国のために身をして戦う気概に満ち満ちていることを示さねばならぬ。
 以下、大西君が玉井先生の声真似を交えて説明してくれた。
「そこで、最上級生の諸君ふたりに。我が国の国画である日本画を学び、足かけ4年9か月の間、帝都芸術学校38期生日本画科を牽引してきたふたりに、その範を示してほしい。
 玉井先生はそう言ったんだ」
「何をやるんだ?」
「この髪を、視察当日までに坊主頭にしておけ、ってさ」
「坊主頭だって? なんで白羽の矢が立っちゃったんだ」
「先生は『生贄いけにえ』という言い方をしていた。ほら、俺達ふたりはさ……」
 ふたりが大役を仰せつかったことに対して私が感じたかすかな違和感への答えを、大西君が示してくれた。
「懐かしの小塚大先生の事件があっただろう、だから逆に、今回選ばれたんだよ。手前みそだけど俺達は順調に卒業制作を描き進めている、玉井先生も『上々の仕上がりが期待できる』と褒めてくれた。しかし例の件がある限り、首席はもちろん奨学金授与など、上位入賞の対象にはならん、って」
「黙って頭を丸めておけばその辺帳消しになる、ってことか」
「ご名答」
「まあ、よかったな。って言えばいいのかな」
「玉井先生は『軍の連中も陰でさんざん悪さしてるんだろうから、このぐらいのことは』って言ってくれたぜ。
 先生だって、小塚に関しては俺達と同じ気持ちだったんだよ。『私ひとりでやっている学校なら、芸術に真摯に向き合いもせず国策漫画に走る輩など除籍にしてやった』ってさ。もっとも先生方はあいつの日和見ひよりみ主義というか、うまく転がっていく方向を探っているようだ、っていうのは先刻お見通しだったんだ」
「隆一、ここだけの話だぞ。これは玉井先生の親心だ」
 とりあえず軍のお偉方に対しては、嘘でもいいから忠誠心を示しておく。その役目として適任だったのが、ふたりの成績優秀な「前科者」だった。大臣閣下は文弱たる我々への認識を改めるだろうし、学校側も面目を保つことができる。また生贄として捧げられるふたりも、実力を充分に発揮できればそれに見合った評価を受けることができる。
 それになにより、経歴に傷がついた者を丸坊主にして「当校の模範生です」と示し、いわばお上をあざむいて腹の底で大笑いする。当時、誰もが抱いていた願望を満たすために一芝居ひとしばい打つための場でもあったのだろう。ふたりは渡りに舟とばかりそこに乗っかって、汚名をそそぐ好機を得ることにもなった。
「それでさ、大畑。青海がなんて言ったと思う? 神主のせがれが、だぜ」
「発ちゃん、そんなに面白かったか? まったく、さっきからずっとこんななんだよ」
「いや、あれは傑作だった。青海、真面目くさった顔で『せっかくだから剃ってしまいましょうか』って、こうだぜ」
 のたうち回るように笑う大西君を横目に、玉井先生は「それは名案だ」と返し、結局ふたり揃って七三分けの髪をきれいに剃り落とすことと相成あいなった。
「髪なんてすぐ伸びてくるからいいけどさ、それにしてもあれは面白かった」
「いや、俺は玉井先生と一緒に、軍人様をちょっとからかってやろうかな、って思ったんだよ。五分ごぶ刈りとか中途半端なことはやらずにさ」
「そうそう、その気持ちが分かったから、俺も喜んで便乗びんじょうすることにした。それにしても、あれは」
 また笑いがぶり返した大西君だったが、よく見たら目尻がほんの少し光っていた。笑い過ぎたからだけでないことは、すぐに分かった。

 陸軍大臣閣下視察の前日。私は大西君に「俺達の得度式につき合え」と誘われ、放課後に3人揃って学校近くの床屋へと足を運んだ。眠気をこらえているようにも泣き腫らしたようにも見えるのっぺり・・・・した顔のおかみさんが、ひとりで切り盛りしている店だった。
 おかみさんは「どっちかを待たせちゃうけど。うちのひとも兵隊に取られちゃってね、私なんかよりうんと腕がいいんだよ」と静かに言った。「今頃、中支のどこかで兵隊さんの髪を刈ってやってるだろうさ」
「じゃあ、俺が」と、大西君が椅子にすとんと腰かけたかと思うと、けらけら笑いながらふざけて合掌し「なんまんだぶ」とお題目を唱えたりし始めた。おかみさんはまるで葬式の参列者のような顔で覆布おいふを広げ、大西君が合わせた手の上から掛けてしまった。
「なんですか。一緒に笑ってくださいよ」
「なに言ってんだよ。笑えるもんかね」
 大西君は「せめて笑っていたい」と思ったのだ、だからこそ馴染みでもなんでもない床屋のおかみさんに軽口をたたいた。今回坊主頭にするふたりだって、おかみさんと同様に「嫌な時代になった」と思っている。しかし当のおかみさんはへんに憐れんで、ふたりをなおさらみじめな気持ちにさせている。彼女自身が飲み込まれてしまった陰鬱な渦の中に、空元気を振り回すふたりを無理に引きずり込もうとしているようでもある。
「おかみさん、それでもね」青海君がわざとらしいほどの明るい声で、待合所の椅子から声をかけた。
「俺達ふたりがお坊さんみたいなつるつる頭にするのは、大臣閣下に対する皮肉のつもりなんですよ。先生も『君達さえよければぜひ剃り落としてこい、大いにやろう』なんて言っていた。だからいいんですよ、坊主頭大作戦だ。笑ってほしいんですよ」
「本当にねえ。そんなことを考えなきゃいけないなんて」
「だから、いいんですって。あいつなんか神主の倅ですよ、仏門に入ってどうするんだ、って。大笑いだ」
 我々が放つ冗談や学校での笑い話に苦笑いで応えながら、ふたりの髪をきれいさっぱり剃り落としてくれたおかみさんは、帰り際「初めて剃ったのなら、今夜なんかひりひりすると思う。そうしたらこれを塗りなさい」と、軟膏なんこうをひとつずつ持たせてくれた。
 その後大西君と私は、青海君の下宿に寄らせてもらった。軟膏をお互いの頭に塗りたくっては手拭でごしごしこすり「痛い痛い」「こんなに光るものなんだ」などと言い合いながらずっと馬鹿笑いしているふたりを「近所迷惑なんじゃないか」とたしなめ、青海君がいつまでも棚上げにしていることについて思い切って訊いてみた。「ハル、進路のことは考えたのか。そろそろ決めなくちゃいけないだろう?」
「ああ、そうだな。こんなことがあったから馬鹿騒ぎしちゃったけど、そっちのほうが大事だ」
「そうだろ、発ちゃん。決まってないのはハルだけなんだよ」
 子どもじみた悪ふざけから一気に現実に引き戻されて神妙な顔になった青海君は、ちょっと躊躇するように間をおいてから、こう吐き出した。
「俺はね。卒業したら、しばらくは東京に残りたい。
 我がままだし俺が一番子どもっぽいかもしれないけど、自分が好きなことをする時間と、実家に恩返しする時間と、両方ほしい。
 召集令状が来たら出身地の部隊に入ることになるだろう、その時には新潟にいなければならないけど、徴兵検査を受けるまでは東京にいたい。それまでの間はとにかく絵に邁進して展覧会への出品にも挑戦してみる。徴兵検査を受けて召集を待つのみとなったら、その時こそ見切りをつけて新潟に帰る」
「その後は?」
「うーん」
「五人展の時に話したじゃないか、あの時言ってたように奨学金をもらってアトリエを構えるほどの成績を残したい。もしそれが叶わなかったとしても、しばらくは」
「どうも、彼女と楽しむために東京に残るように聞こえるんだよなあ」
「そういうことじゃないよ。でもやっぱり、東京を離れるのは心残りなんだ」
「昔の華やかな東京じゃないけどな、ハル。いつか見たような景色に戻るのはしばらく待つとして、故郷でちょっとでも有意義な時間を過ごしたほうがいいと思うんだけど」
「なんだよ、隆一。俺が帰ったら寂しくなるんじゃないのか?」
「自分で言ったとおりだな。青海、お前が一番子どもっぽい」
 絵に対する情熱も意欲も変わらない、どころかそれらはますます高まっているのは知ってのとおりだ。しかしどこか煮え切らない感がある。青海君が何に踏ん切りをつけられないのか、東京に残ってやりたいこととはなんなのか。私にはいまひとつ見えてこなかった。どんな言葉をつなげばいいのか考えあぐねていた時、私の脳裏にある人の顔が浮かんだ。青海君と仲間の五人展に来た時の浜名さんだ。
「ハル。やっぱり、卒業したら帰るべきなんじゃないか。大きな仕事があるじゃないか」
「なに」
「浜名さんが五人展の時に言ってくれただろう?『新潟の芸術の発展に尽くす』ってやつだよ。今のどっちつかずな気持ちで東京に残るよりもいいんじゃないのか。
 俺達みたいな東京育ちの人間にはできないことが、お前にはできるんだ。五人展をやった時にも感じたけど、東京で学んだことを故郷で活かして広めていくことができるっていうのは羨ましいことだよ。
 帰ったっていいじゃないか。もちろん俺も発ちゃんもハルがいなくなるのは寂しい、でも故郷で意味のある仕事をしていたら嬉しいし誇らしい」
「そうか」
「それがいいかもしれないな。青海、決めちゃえよ。
 それまでに陽子ちゃんを口説き落とさなきゃな、『一緒に新潟に来てくれるか』って」
 彼女とのことに限らず、自分の周りのあらゆる事柄に「人生最後の」という冠がつく可能性がある。そこに起因する迷いのために、青海君は東京に残るなどと曖昧な気持ちのままで言ってしまったのだろう。でもこれでようやく、卒業後の道筋をはっきりさせることができた。
 もちろん、大西君にだってその可能性はある。もっとも彼の場合はそこまで見越して将来を考えているのはよく分かる、憧れていた「いい親父」になるために結婚を決め、首尾よく子どもまで仕込んでいくと宣言したのだから。最悪の結末になったとしても彼の血は残る、そして富枝は小さからぬ思いとともにその子を育てるだろう。大西君はやはり首尾よく、帰ってこられなかった場合に自らの思いを背負ってくれる存在を見つけたのだ。
 もし、目の前にいるふたりの仲間を失ってしまったら。私は、ともに切磋琢磨した親友としての大西君、または青海君の思いを背負うことになる。

 かくして、陸軍大臣視察の当日。朝礼の時に玉井先生は青海君と大西君を教壇の前に招き「彼らは、生贄となる哀れな子羊である」と言い放った。爆笑が起き、「仏門に入ったりキリスト教の生贄になったり大変だな、青海」などと野次が飛んだ。
「諸君も知ってのとおり、現在は国民皆兵こくみんかいへいの非常時である。『官立文弱学校』と揶揄やゆされる当校も、そのレッテルを返上すべく、返上すべく…… ええ、面倒くさい。
 要は『軍国主義をよく理解しております』という姿勢を、陸軍のお偉いさんがおられる間だけでも示し、まあ何ごともなく速やかにお引き取りいただかねばならん。今日を限りに、金輪際こんりんざい我が校にははなも引っかけぬようにしてもらわねばならん。それで彼らに、このような姿を晒してもらうことになった。諸君においては、いきなり髪を剃り落とした彼らが風邪などひかぬよう気遣ってやってほしい。
 それから。察しのいい諸君のことだから言うまでもないが、これはお上を欺くための、いわばショーである。
 いいかね、今日はショーが行われる。主演は誰かといえばここにいるふたりではない、他でもない陸軍大臣閣下だ。『我ら帝都芸術学校の生徒は、戦地の最前線に馳せ参じる覚悟をもって日々勉学や軍事教練に取り組んでおります』。閣下はその心意気を我ら文弱たる芸校生、および教職員一同から感じとり、感涙とともに引き上げる。名演を期待しようではないか。
 終演後、大臣閣下を拍手で見送ったら、腹の中で盛大にあっかんべー・・・・・・をしよう。成功するかいなかは、ここにいるふたりはじめ、観客でもあり共演者でもある君達、そして我々教職員の手腕にもかかっているのだ。
 卒業し徴兵免除が解かれたら、諸君は徴兵検査を受け、その後出征せねばならん。愚かないくさに興じる愚かな国に従い、命すら差し出さねばならん時がすぐそこに迫っているのだ、君達には。そんな理不尽を強いるお上をからかう好機なのだ。そして今日のことは、卒業前のいい思い出に、必ずやなるであろう」
 含み笑いが教室内に広がった。あのビヤホールでの騒ぎのように、我々はまた玉井先生と何やら共有した。この時教室内に横溢していた一体感は我々にとって本当に久しぶりで、皮肉なものだなあ、と私などは思った。かつてのような和気あいあいとした雰囲気をなんとなしの悲しさとともに噛みしめていると、玉井先生が言葉を継いだ。
「ふたり、それにしてもてかてかだな。油でも塗ったのか?」
「ええ、床屋のおかみさんが分けてくれた軟膏を塗ってきました。目立ちますかね」
「目立つなんてもんじゃない。電球並みだ」

 午後一番に陸軍大臣は芸校に到着し、おつきの者を従えて各教室を見て回った。ゆったりとした足取りで歩く太鼓腹と廊下ですれ違った生徒などは最敬礼で応じ、何か訊ねられれば直立不動のまま、普段は聞かれないようなどら声を張り上げて答えていた。大臣閣下はそんな生徒の態度に少し驚いてみせた後、満足げにうなずきながら歩を進めていった。「共演者」はそこらじゅうにうじゃうじゃしていた、幸い私にはその役は巡ってこなかったが。
 下校時間の前に、全校生徒が講堂に集まった。軍事教練での成果を示すべく、いかにも軍隊風に足並みをそろえた行進で入場してみせた後、運動神経に自信のある者を選抜したグループがちょっとした組体操のようなものを披露した。そして整列し、登壇する大臣閣下を拍手とともに迎えた。
 他科の生徒の中には点数稼ぎのつもりか自主的に髪を刈ってきた者がおり(彼らは、籍を置く各科の先生方から薄っぺらい褒め言葉をかけられてはいた。しかし他の先生の心情もだいたい玉井先生と同じはずだ)、そういった者は最前列に並ばされた。しかしさすがに、髪をすっかり剃り落とした者は講堂全体を見回しても、青海君と大西君以外見つからなかった。ふたりはもちろん最前列、しかも大臣の目の前に立たされた。
 壇上の陸軍大臣はふたつのつるつる頭に何度も目をやりながら、講釈をたれた。
 本日、帝都芸術学校で学ぶ諸君の授業風景を視察した感想を述べる。
 率直に申せば、諸君の気合に満ちた態度を「意外」と感じた。すなわち、諸君に対して抱いていた印象ががらりと変わった。文弱などという言葉があるが、私自身、本日視察を行うまではこの学校の生徒諸君はまさに絵にかいたような文弱であろう、と思っておった。
 しかし、今ほど見せてくれた組体操のみならず、作品に相対する時の情熱に満ちた眼差し、廊下で聞かせてくれた張りのある声。私は、諸君は文弱などには当たらぬ、と感じた。今後は諸君に対してそのような呼称を使うことを許さぬ、と誓いたい。時局をこれほどまでに理解し、お国のために戦う準備と文化芸術の研究・精進を両立させていることは驚嘆に値する。いざという時に最前線に立ち、勇猛果敢に戦う諸君の雄姿がありありと瞼に浮かぶ。その時のために、さらなる鍛錬を怠らぬように。
 しかし、私の目の前におるふたり。君達は頼もしい芸校生諸君をまさに象徴する存在と認知すべきであろうが、髪を剃り落としてまでその気概を示すべきではなかった。頭髪がなくなると、怪我を負う度合いは俄然上がる。せいぜい三分さんぶ刈りにするように。以上。
 爆笑で破裂しそうになった講堂内はその後やんやの喝采かっさいとなり、話し終えた陸軍大臣も、にっ、と笑った。その顔が生身の人間の顔とは思えなくておぞ・・気がたつほどだったが、まあなんにせよ、本日のショーは成功をみた。ということになった。
 名演説を披露した大臣閣下はもちろん、廊下で声をかけられた生徒、組体操で盛んな拍手を浴びた(あくまでも校内における)猛者もさ達、説明係を仰せつかった先生、そして一糸乱れぬ行進を見せた在校生一同。それぞれが、この吐き気を催すようなショーの出演者となり、それぞれの役を見事に演じきった。「何ごともなく速やかにお引き取りいただく」という玉井先生が示した目標を、我々は力を合わせて難なく達成した。
 しかし、軍のお偉方とて今日のショーの愚かしさなどとっくに分かっているのではないか、おそらく私達以上に。「文弱」のレッテルがこの日一日で剥がれるわけもなく、今頃は車の中で秘書だか誰だかに「馬鹿どもが張り切っていたなあ」と語りかけて呵々大笑かかたいしょう、といったところだろう。そんなことは坊主頭のふたりはもちろん、玉井先生はじめ講師陣も、ほとんどすべての生徒も、ちょっと熱が引けばすぐに分かる。そして朝礼の時の一体感がへんに懐かしく虚しく、気恥ずかしくなる。
 どこまでいっても腹の底から楽しい気持ちで笑うことなどできない、それこそ大西君のように泣き笑いでやり過ごすのが一番の得策かもしれないのだ。

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