例の応募作の原文(第3部のつもり⑪)

       26

 8月に入ってすぐに長岡が空襲で焼け野原になり、さらに広島と長崎で落とされた新型爆弾でみんな戦々恐々となっているようだったが、私のほうはそんな噂話の怖ろしさにもついていけなかった。真柄さんと話してじゃがいもを食べた日があったが、あれだけで私の食欲や心が元に戻るはずもない。さらに暑くなるにつれて、心身の軸のようなものがどんどん削ぎ落とされていった感があった。仲間との食事の場面もほとんど思い出さなくなったが、一方で「一枚ぐらい描きたいなあ」などと思っていた。なのに画帖に手をのばすことすら億劫で、それ以前によくよく考えてみれば描きたいものなどもう、どこにもなかった。
 ただキクイさんや青海君のお母さんが入れ代わり立ち代わりやってきて、何か差し入れてくれたり声をかけてくれたりした。持ってきてくれたものを一口二口かじりはしたが、申し訳なくも彼女らのかけてくれる言葉ひとつひとつが鬱陶しいものだった。街の人達は、俺のことを「最近見ないけど」なんて言ったりしていないだろうか。それとも新型爆弾の噂でもちきりなら話題にものぼらないか、それはそれで都合がいい、とさえ。
 8月10日の昼過ぎ。
 青海君のお母さんが届けてくれた握り飯をわずかな水で流し込んで横たわった時、ばりばりばりばり、という音がかなり近くで聞こえた。港で軍用船と佐渡航路の客船が機銃掃射でやられた音、敵が新潟市街に初めて攻撃らしい攻撃を仕掛けた瞬間だった。さらに対岸の鉄工所で、郊外の飛行場で、地元の人が「しも町」と呼ぶ界隈かいわいでも同じことが起きていた。これらの攻撃でやられた人はもちろん大半が民間人で、この時に40人以上が亡くなった。新潟市では開戦以来初めて、かつ最悪の被害が出た。
 港は艀が吹き飛んだ時のような状況になっているだろう、でももう絶対に手伝ったりしない。こんな半病人が行ったって足手まといになるだけだし、もうあんな思いはしたくない。もうどこに行っても、ああいう場所以外ない。俺は新潟でそれを思い知らされたんだ。
 戦争というものの陰惨さから、残酷な光景の目撃者になることから、そして直接的な危険から。俺はきっと「逃げきれる」と心のどこかで思っていた、でもそんなはずはなかった。その浅ましさのつけ・・を払わされている、それが今の状況なのかもしれない。そう思ったら「後は野となれ山となれ」という言葉が際限なく浮かんできた、それこそ困ってしまうほどに。
 でも実際、その言葉のとおりだった。東京が駄目で新潟まで逃げてきて、ここも駄目なのであれば、もう。自分の体が弱っていることさえ逆にちょうどいいと言えないか。そんなことを考えているうちに眠気が襲ってきて、そのまま眠りこんでしまった。機銃掃射は終わったようで物騒な音に目を覚ますこともなかったが、夢うつつの中で街の人の怒鳴り声がかすかに聞こえ、やがてはっきりとした言葉として耳に入ってきた。
 寝そべったままで柱時計を見たら、夜11時を回っていた。騒いでいたのは町内会の役員で、彼が「緊急指令、全戸ぜんこ退き」と怒鳴って歩くうちに、通りは住民達と彼らの家財道具を積んだリヤカーや大八車だいはちぐるま、ざわついた声で埋め尽くされた。「おい」と障子を開けた真柄さんに、私はのんびりと「どういうことなんですかねえ」と訊ねた。
「『次に新型爆弾が落とされるのは新潟だ』という情報が入ったらしい、県と軍のお偉いさんが対応を協議し始めたそうだ。役場勤めの人間がそう言っていたっていうんだから間違いないだろう」
 そう早口で説明した真柄さんは、とっくに風呂敷包みを背負っていた。その様子があまりにも彼らしくなかったので、私はつい声をあげて笑ってしまった。
「あ、ごめんなさい。笑っちゃった」
「いいから、お前も支度をしろ」
「あ、俺のことならいいですよ。ここに残ります」
「馬鹿いうな。ほら、なにを持ってくんだ? 風呂敷はないのか」
 真柄さんは自室から風呂敷を持ってきて、私のたんすを開けて着替えをすべて引っぱり出し畳の上に投げ出した。「早く包め」と怒鳴り、それでもへらへらしている私を叩きつけ「死ぬつもりか!」と声を荒げた。
「いや、あの。本当にいいんです」
「もう一度くぞ。お前は死にたいのか?」
「たぶん。そうみたいです」
 真柄さんはもう一回、こんどは本気で私を殴りつけ、シャツの襟首をつかんで玄関まで引きずっていった。
「いいから立て! お前が死にたくても、そうはさせねえぞ」
「だから、もういいんです。早く逃げてくださいよ!」
 自分でもびっくりするほどの大声で改めて拒んだら、真柄さんも根負こんまけ、というか呆れかえったような表情になった。外のざわつきは収まっていた、みんなすぐに避難してしまったのだろう。
「いいか、俺はキクイを迎えに行ったら横越に逃げる。横越だぞ。どこだか分からなかったら、なんでもいいから遠くに行け。半径10キロ以上離れないと命がないっていうからな」
 そう言い捨てて、真柄さんは飛び出していった。私は「やれやれ」とでも呟きたいような気分になって玄関の三和土たたきにごろりと横たわった。その冷たさを感じながら、もし真柄さんが逃げる支度を手伝ってくれる時に「画帖は諦めろ」とか言っていたらどんな気分になっただろう、と思いをめぐらした。画帖、つまり一番大事なものを「どうでもいい」と言わなければいけない場面で、私の価値観を理解してくれているはずの人に「そんなものはどうでもいい、捨てていけ」と言われたら。青海君だったら、どう言うだろう。
 でも本当にこれから死ぬのなら、こんな推察こそがどうでもいいことのはずだった。
 この夜、緊急避難の指令はまだ正式には出ていなかった。県や軍は、10日の時点で「新潟市中心部に新型爆弾が落とされる可能性がある」と判断していたがまだ極秘であり、対応策をしっかり決めてから公布するつもりだったらしい。
 しかし誰かがその話を聞きつけて街に持ち帰り、不穏な噂はあっという間に市民の間に広まった。「沖合にアメリカ軍の艦隊がいる。これから艦砲かんぽう射撃しゃげきが始まる」というデマが流れた地域もあり、街道では日付が変わる前から郊外を目指す市民が列をなした。正式に強制疎開の命令が出たのは翌日午前だったが、その頃には新潟市の街なかはもぬけ・・・の殻になっていた。

 明けて11日。真柄さんにひとりで逃げてもらってそのまま玄関で眠り込んでしまい、蒸し暑さとガラス戸越しの日射しで目を覚ました時は蝉の声以外何も聞こえなかった。
 ああ、本当に人っ子ひとりいなくなっちゃったんだ、今この街は俺以外誰もいないんだな。もうすぐ爆弾が落ちるんだもの。そう思ったら、笑いと空腹感がこみ上げてきた。
 ちゃぶ台の上に桃が5個あった。たしか前日の昼、青海君のお母さんが握り飯と一緒に持ってきてくれたものだ。一番熟していそうな実にかぶりついて皮を吐き出しながら全部食ってしまったら、へんに元気が出てきたような気がした。そのうち敵機が来て爆弾を落とし、街を丸ごと吹き飛ばしてくれるんだろう? じゃあその瞬間を見せてもらおうじゃないか。そう思ったらわくわくしてきた、こんな感情を抱いたのは本当に久しぶりのことだ。無性に散歩したくなり、外に出た。
 私は、画帖を携えて歩いていた。描きたいものなど地上には残っていない、とさえ思ったことがあったはずだが、これが人生最後の散歩でありスケッチになるのなら何か描きとめておかなければ、と思ったのかもしれない。正直なぜ画帖を持ってきたのかよく分からないし、部屋を出る前に画帖を手にした瞬間があったかどうか、その記憶すら曖昧だった。
 まあそれでも何か感じるだろう、そうしたら立ち止まって描いてみればいい。描く気があるのかどうかすらあやしいが、とりあえずそう考えながら歩いていた。ただただ奇妙な爽快感だけがあった。
 いつもは田舎町なりの賑わいで満たされている通りを歩いて、この街に誰もいないことを改めて実感した。人の声が聞こえない、音もない。蝉がうるさいだけだ。遠くのほうに人影が見えたがそれは軍服姿だったので、反射的に身を隠した。そうか、ああいう連中、他にも警官や役人なんかがいくらか残っているんだな。
 自分のように逃げることを拒んだ奴も、どこかにいるだろう。私以外に何人ぐらい街に残っているのか知らないが誰とも顔を合わせたくはない、合わせたところで語りたいこともない。そういう面子めんつが手をとり合って死ぬ仲間になるなら、なおさら必要ない。てんでばらばらに死んでいけばいい、所詮分かち合えるものなどなにひとつ持たぬ者同士だ。
 などと考えているうちに、人と鉢合わせすること、「なぜ残った」などと根掘り葉掘り訊かれることへの恐怖感がわいてきた。太陽は私の頭のてっぺんから照りつけてつむじ・・・に刺さるようだったし、この時は家に戻ることにした。
 桃は、あと4個あった。これを一日1個食って散歩していれば、そのうち敵機が爆弾を落として街もろとも俺を吹き飛ばしてくれる。別に今日来るとは限らないんだし、のんびり待っていればいい。
 12日も、13日も桃を1個ずつ食べて、散歩した。通り雨でもあればいいと思っていたらざっと降ってくれて助かったこともあった、青海君が降らせてくれたんだろう、とその時は本気で思った。例の奇妙な爽快感は相かわらずだったが、真夏に桃1個ずつで食いつないで炎天下の散歩などをしているものだから、前にもまして体が弱ってきた。
 14日、最後の2個を一気に食べて「これで正真正銘の最後。今日、絶対に飛行機が来るはずだ」と腹をくくり、画帖を抱えて外に出た。
 青海君の実家の人も、やっぱり避難したんだろうな。無意識のうちに港を避け、神社のある方向に向かって歩いていたことに気づき、せっかくだから行ってみよう、とばかりずるずると歩き始めた。前に来た時の半分ぐらいの時間で着いてしまったような気がしたがそんなに早く歩けるわけがない、時間の感覚が狂っていただけなのだろう。しかし前日に比べれば足取りが軽くなったような気がしていた。
 誰もいるはずのない境内に入ると、拝殿の戸が開け放してあるのが見えたので勝手に入ってしまった。一番奥のご神体がまつられている棚の前に静かに座ってみた、青海君と話ができるのではないか、と思ったから。やはり外の蝉時雨せみしぐれがここまで聞こえてくるだけで、胸の内になんらかの言葉が浮かんでくるわけでもない。
「ハルに無視されちゃったよ」
 そう呟いた時、傍らに額装された大きな絵があることに気づいた。出征前に見せてくれた天岩戸の絵だ、青海君のお父さんが黙って時局画展に出品し入選したことを私は上官からの手紙で知ったが、その後どうなったかは考えたこともなかった。
 大きな岩の、ほんの少しの隙間に目がとまった。彼のお父さんは青海君が戦死した翌年の18年に、志ゅんさんは去年亡くなった。ふたりとも青海君に会っただろうか。やはり神職の家に生まれた人だから、彼が描いた天岩戸の向こうに行ったんだろうか、この隙間をくぐって。
 境内にあるぶなの木の精が志ゅんさんの夢枕に立って「青海君を神主に、お兄さんを医者に」と告げたんだったか。志ゅんさんは青海君が絵描きを目指したことを、またああだこうだ言ったりしていないだろうか。一本気な甥っ子の選択をどうか笑い話にしていてほしい、お互いの命があった時の話なのだから。
 死んだら、どうなるんだろう。死んでもやっぱり心根は変わらないものなのか、怒りっぽい人も穏やかな人も神経質な人間も大ざっぱな人も傍若無人ぼうじゃくぶじんな奴も思いやりある人も強欲ごうよくな者も遠慮がちな人も、そのままの魂をあの世に持っていくのか。それとも死んだらみな平らかに、同じ目線でこちらを見下ろしているものなのか。それともやはり、お寺の坊さんが言うようにこちらでの罪をつぐない、諸々の汚さ醜さをめ直されるものなのか。
 この問いに対する答えこそを青海君が示してくれるような気がして、俄かに怖ろしくなった。神社なんかにいてはいけない、と私は慌てて拝殿から飛び出し、川沿いの通りへ出た。橋が架かる前の時代は渡し船が行き来していたという川は水量が減って、よどんだ流れが物憂ものうそうに横たわっているだけだ。
 熱い空気、陽炎かげろう、土ぼこり。命の気配が一切感じられない空間。軍服姿の人影を見ることもない、そういう連中は駐在所だとか役場だとか、それとも彼らのための詰所にでも集まっているのだろう。みんなで肩をすくめてその瞬間を待っているのか、逆に「あんなのはデマだから」と笑い合いながら涼んでいるのか。
 野良猫でもいれば頭をなでてやるのに、こういう時に限って姿を見せてくれない。干からびた蛙だのみみず・・・だのの死骸が目に入るだけだ。相かわらずの鬱陶しい蝉時雨が熱い空気の中に充満している、その中を歩き回るしかない。
 やめやめやめやめやめやめやめやめ
 やめやめやめやめやめやめやめやめ
 途切れることを知らない蝉どもの声が、いつの間にかそんな風に聞こえるようになっていた。「やめ」って、なんのことを言っているんだ? 何を「やめ」ればいいんだ? きっとこれは蝉が鳴いているのではない、死者達が蝉に「やめ」と言わせているんだ。でも、これだけじゃ分からない。何が言いたいんだ?
 亡者もうじゃ達、「やめやめやめやめ」と叫び続ける彼らの望みは、いったいなんなのか。俺達に何を伝えたいのか、何を求めているのか。地上にいる俺達は、世の中は。どうすればいいんだ、どうなってほしいんだ。
 ハル。お前は俺にどうなってほしかった? 発ちゃんには、陽子には、芸校には。どうなってほしかった、どうなっていけばいい? 教えてくれ。
 じゃあ質問を変えようか。とりあえず今、俺はどうすればいいんだ? 俺はどこに行けばいいんだ?
 まさか港じゃないだろうな、あの倉庫じゃないだろうな。
やめやめやめやめやめやめやめやめやめやめやめやめやめやめやめやめやめやめやめやめやめやめやめやめやめやめやめやめやめやめやめやめやめやめやめやめやめやめやめやめやめやめやめやめやめやめやめやめやめやめやめやめやめやめやめやめやめやめやめやめやめやめやめやめやめやめやめやめやめやめやめやめやめやめやめやめやめやめやめやめやめやめやめやめやめやめやめやめやめやめやめやめやめやめやめやめやめやめやめやめやめやめやめやめやめやめやめやめやめやめやめやめやめやめやめやめやめやめやめやめやめやめやめやめやめやめやめやめ


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?