例の応募作の原文(第3部のつもり⑧)

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 真柄さんが新潟移住を歓迎する旨綴った返事をくれたのは、12月に入ってからだった。待ってました、とばかり着替えや本などのわずかな荷物をまとめ、昭和20年のわびしい正月を過ごした後、私は肩掛け鞄ひとつ持って東京を飛び出した。
 父も店をそのままにして九十九里に引っこんだ。もちろんそれなりに値打ちのある品も書棚には並んでいたが、父は「こんなものがぞくに狙われるご時世でもないだろう」などと苦笑いしていた。
 新潟に着いたときにまず目を引いたのは、道路の脇に連なる雪の壁だった。朝一番で玄関先や道に積もった雪をよけて足場を作るところから、当地の人の日常生活が始まる。手つかずのところだと、大人の膝のあたりまで積もっているそうだ。いうまでもなく、これは東京の人間にとって想像を絶するほどだ。震え上がる私を見つけた真柄さんは「お疲れさん」と、なんでもないような口調と気安い笑顔で迎えてくれた。
 青海君の実家の隣町、港の近くにある真柄さんの家の前もやはり雪かきされて、駅で見たのと同じように汚れた雪が固められていた。
「降ったら毎朝やらなきゃいけないんですもんね、雪かき」
「ああ。そうじゃなきゃどこにも行けないもんな」
「俺もやりますよ。このぐらいやらなきゃ」
「あんまり無理しない程度にな。まあ、こういうのは遊びのつもりでやって、だんだん慣れていけばいい」
 東京にいた頃のことが懐かしくなりませんか、戻りたいと思うことはありませんか。今来たばかりなのにそうたずねたくなった。そんな気分になったのはこの街の色のせいだ、と気づいた。積もった雪の白と、その合間から見える建物の黒。雪の反射光は目にじんわりとしみ込んでくるようで、沈んだ黒がなおさら引き立てられる。冬の新潟には、それ以外の色は存在しなかった。
 玄関のすぐ奥の茶の間では四十がらみの、しかしやたら美しい女が火鉢で手を温めていて、私達の姿を見て「ああ、ごめんください。お帰りなさい」と言った。
「こいつが、お前が寝起きする部屋を片づけておいてくれた。キクイっていうんだ。彼が東京の大畑君」
「はじめまして。お世話になります」
「よろしく。私、ここに住んでるわけでないすけ、心配しなさんなね」
「ああ、はい」
 キクイさんの訛りはさほどきつくなく、耳に心地よいほどだった。言葉ひとつひとつがやわらかく、なんとなしの品のよさを感じさせる。お茶を淹れてくれる時の指先の動きは踊りを連想させるようだった。
「そうだ、部屋を片づけた時にお前の絵が出てこなかったか? あっただろう」
 真柄さんは立ち上がり、照れて「いいわんね」などと口走るキクイさんを制して部屋から一枚の絵を持ってきた。「元沼垂ぬったり芸妓げいぎだぞ、一番の売れっだったんだ」
 真柄さんが広げて見せてくれたのは、美人画の王道ともいえる作品だった。絵の中のキクイさんが着ている華やかな振袖に、ようやく白と黒以外の色を見つけることができた。扇をたずさえているところをみると芸妓時代はやはり踊りを得意としていたのだろう、新潟の街に多いという柳の印象そのままにすっと立って遠くを見ていたが、その表情はどこか悲しげにも見えた。背景は雪国の冬を意識したわけでもないだろうが、くすんだ灰色だった。
「俺はほら、金を出してやれるようなご身分じゃないからさ。お座敷以外のとある場所で出会って『芸妓さんなら、一枚描かせてくれ』って。その後こいつは、首尾よく旦那を見つけて芸妓から足を洗って、店を開いたんだ」
「旦那さまもお店も、へぇ終わり。今は港でまかない婦やってるんさ。
 この絵もさ、『屏風にでもしてもらうか』て、この人言いなったんけどさ。私、『おめさん持っててくんなせ』言うたの」
 キクイさんは照れてはいるが、自身がここまで美しく描かれた絵の存在を誇らしく思っているし、その作者に強い信頼感と愛情を持っている。それは彼女の紅潮した頬を見れば分かる、真柄さんも絵描き冥利みょうりに尽きるだろう。正統派の美人画を見せられ、絵描きとしての彼を見くびっていたことにも気づいて申し訳なく、恥ずかしく思った。
 美しい元芸妓のキクイさんと、(言い方は悪いが)中途半端な関係を続ける真柄さんの暮らしぶりはいかにも彼らしい、どころか「さすが」と唸りたくなる感があった。やはり、新潟という田舎町にはどこか似つかわしくない要素を持った人なのだ。
 これから始まる彼との共同生活は、ほんの少しずつ刺激を受けながらの毎日になりそうだ。そう思ったらわくわくした。この勢いで、東京での諸々など一気に忘れてしまえばいいんだ。そう思った。

 ほどなく、私は真柄さんが見つけておいてくれた港湾施設での仕事に就いた。私の足で歩いても10分少々で着くほどのところに港はあり、その少し先には信濃川の河口が、そして日本海が広がっていた。晴れた日には佐渡島も見えると聞かされたから、白と黒だけの季節が早く終わってほしい、雄大な景色を楽しみたいものだ、と思っていたが、真冬の日本海の荒波も見応えがあった。
 港では、満州へ運ばれる荷物の管理を手伝った。帳面をつける仕事だったから私などでも楽にできたし、なんだか覚えが早く間違いが少ない、それから素直なところが尚よろしい、と出征を免れた世代の先輩達は早い段階で私を受け入れてくれた。鬼軍曹みたいな奴がいるだろうと思っていたがさにあらず・・・・・、というところで拍子抜けするほどだったし、新潟の人はやはり善人だ、と思いながら働かせてもらっていた。
 東京と同様に年の近い者はいなかったし、腹を割って話したくなる仲間との出会いも諦めてはいた。その代わりとにかく忙しく(新潟港は太平洋側の航路が麻痺状態に陥っていた当時にあって、大陸北部への航路として最後のとりでのような位置づけになっていた)、しかし私の内面をみれば穏やかで淡々とした日々を、平日は過ごすことになった。東京に充満していたような殺気立った空気はこの田舎町では数分の一ほどしか感じられず、新潟の人に都会の話をしてやれば「おっかねえのう」と肩をすくめたものだ。
 気のいい彼らとの土曜日の仕事を終えてからの1日半が、私にとって本来の自分に戻れる貴重な時間だった。実家で鬱々と過ごしていた頃にすがっていた画帖への落書き程度の素描に、少しだけ前向きな気持ちを乗っけることができている、と気づいた時は嬉しかった。
 さらに真柄さんが使い残しの絵具をくれたから、本当に久しぶりに彩色までほどこした絵を完成させることができた。雪をかぶってもすっと伸びる南天の小枝が、その画題だ。決して満足のいく出来ではなかったが、目にしみるような赤い実を改めて見た時は心の中の凝り固まったものがほぐれた気がした。自然のものはやっぱり美しい。
 新潟に来てからはちゃぶ台の上に紙を置き、曲がらない足を投げ出すように座って描いていた。しかし芸校を受験する前に山内先生のところで教わっている頃から芸校を卒業するまで、ずっと画架を立てて描いていた、青海君と並んで。今はひとりでこうして描いている、その隣町に青海君の実家がある。
 そう考えると、不思議でどうしようもなかった。東京で彼とともに学び、彼という友をうしない、その後東京での諸々が耐えられなくなって新潟に疎開し、ひとりで静物を描いている。一連の流れを改めて考えるとちょっと恥ずかしくなるほどだった、よくもまあしゃあしゃあと新潟に逃げてこられたものだ。いったい自分は、何を求めてこの街にやって来たのか。嫌な場所に背を向けて悠長に絵を描く時間などを満喫していると、おのれに対する新たな疑問がわいてくる。
 できた絵を真柄さんとキクイさんに見てもらったら大いに褒めてくれた、それでキクイさんにあげることにした。食事などでいつもお世話になっていることと、久々に描いた小品を絶賛してくれたお礼だ。
「あの…… キクイさんは知ってるんですか、青海晴久君のこと」
「はあ、この人がお店に連れて来たがんね。ほんにいい子らったけど、可哀想げらったわねえ。あんた、あの子の分まで頑張らんきゃないんよ」
「大畑君、最近は向こうに行ってないだろう?」
「ああ、俺は行ってないですけど。越してきた時に挨拶させてもらったきりですね。でも、青海君のお母さんが来てくれたりするじゃないですか」
「そうだな。やっぱり気にかかるんだろう」
「あの、実をいうと。俺を見た時のお母さんの表情を見ると、こっちがちょっと辛くなっちゃうんです。『ああ、思い出しちゃうんだろうなあ』って」
「親っていうのはそういうものだろう。それで行くのが嫌になっちゃったか」
「まあ、そうですね。俺も図々しいな、真柄さんに甘えて新潟に来ちゃったけどそれで辛い思いをする人がいる、なんて考える余裕もなかったし」
「いいんじゃないのか。あの子のお袋さんは、そりゃお前の顔を見れば思い出して辛いだろうけど、自分のせがれが帰ってきたような気がするというのもあるだろう。あの子の分まで甘えてやろう、と思ってればいいんじゃないのか」
「うーん。でもなんだか、気まずいです」
「私は大畑君が切ないと思うのも分かる気がするわ。お母さんの気持ちも分かるしさ」
 俺自身思い出すのが辛いし、思いがけず真柄さんとの暮らしや港での仕事が楽しいから、こっちのほうに逃げてしまっているのかもしれません。そう言いそうになった。これが紛れもない本音だし、ひょっとするとふたりだって察しているかもしれない。

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