例の応募作の原文(第3部のつもり⑩)

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 梅雨明け直後の、ある夕方。この日は近郊で夏祭りが行われ、昔に比べればはるかに小規模だがお神輿みこしも出る、と青海君のお母さんから聞かされていた。ぎりぎりの状態でも、団子など作ってささやかに祭りを楽しむだけの余裕はあった。私もそうだったが、当時の新潟の人達はたまに来る敵機の姿や機雷投下の話などに慣れてしまえば、実害があまりなかった分だけ呑気に日々を過ごしていた。空襲などの噂も噂どまりで、市街地にはなんの被害も出ていなかったからなおさらだろう。
 信濃川沿いをぼんやり歩きながら河口のほうを見やっていると、対岸から曳航船えいこうせんに引かれたはしけがこちらに向かって来るのが見えた。川向こうの鉄工所で働く者の通勤のために、両岸を往復する艀の運航はお馴染の風景ではあったが、この日はいつもに比べれば若い顔が多いように見えた。「今日は学生がたくさん乗っているなあ。そうか、彼らも祭り見物だな」と思っていたらその艀が、ぼん、と腹の底から響くような音、そして巨大な水煙とともに消えてしまった。
 轟音ごうおんと地響きに体を震わされ水煙を目の当たりにすれば、これは大ごとだ、祭りどころではない、とすぐに分かる。自分はいよいよこれから、じかに触れてはこなかったことに触れる、見たくはなかったものを見ることになる。とうとうその時が来たのだ、ということも、その瞬間に分かった。
 口々に「触雷しょくらいだ」と叫びながら水煙が上がったほうへ走り出す男達の後になんとかついていき、沈没現場から一番近い川岸に着いた時には既に10人近くの男が集まっていた。ほどなく、河口方面から救助のための船もやって来た。力仕事を手伝えない私は、港の中の倉庫で待機することになった。そこは最終的には安置所になる、ということだった。
 そして私は、夜中近くになってその場所に運ばれてきた少年や中高年の男性の名札を確認して名前を書きとめ、顔に覆いをかけてやった。この時は艀に乗っていた約70人のうち、学生と社会人、それぞれ10人以上が命を落とした。
 港で一時ともに働いた学生も、その中にいた。彼は学徒勤労動員で佐渡の旧制中学から召集され、同級生達と近郊の寺で寝起きしている、と言っていたはずだ。「動員計画もなにも、あったもんじゃないみたいです。いろんな所をたらい回しにされて」と苦笑いした横顔、その聡明そうな眼差まなざしが瞼の裏にありありと浮かんだ。彼とはこんな所でなく神輿が出る街なかでばったり会っていたはずだ、艀が吹き飛ばされたりしなければ。
 新潟港内に米英が落としていった機雷に起因する事故は10回ほど起きたが、犠牲者数はこの時が一番多かった。その後、信濃川は触雷で壊れたまま放置される船の合間を縫うようにして掃海作業が行われ、どうにかこうにか運航再開、というのが繰り返されたが、川底には多い時で700個近い機雷が沈んでいる、といわれていた。日本本土と大陸をつなぐ物流の要衝としての新潟港の機能は死にかけていた、つまり米英の港湾封鎖作戦はほぼ成功した。
 こうなることを予期せざるを得なかった港の人は命がけだっただろうが、そこから離れて街で暮らす人にまぎれてみれば「何か起きる」と騒ぎ続けて振り回され、疲弊ひへいと感覚の麻痺だけが蓄積していくだけの毎日でしかなかった。しかし、この日になってついに、私の目の前で人の命が奪われるようなことが実際に起きてしまった。それまでの不満など一瞬で引っぺがされて、代わりにもっと重い、どす黒いものが私の胸の内に新たな渦を作り始めた。

 新たな渦というのは、きっと艀の触雷事件が発生した時にできた大きな水煙から生まれたものだ。東京はとっくに焼け野原になっているだろうに、(こんな言葉も適切ではないだろうが)運がよかったせいでああいうものを、それまで見ずに済んでいたものをこのに及んで、初めて目の当たりにした。その少し前には増治の訃報に触れた。青海君を喪った時とは違った角度で、あるいはさらに深く、「ここにいる自分」を考えさせられることになった。
 戦争のために死んでいった者と、残された私との対比。焼け野原をさまよう東京の人々と、非常時という現実が肚に落ちぬまま不平不満だらけの日常を過ごしてきた私との対比。そこから見えてくる私という人間の浅ましさに対する嫌悪感。ほんとうに嫌な渦で、直視しないように、巻き込まれないようにとあらがえば抗うほど、嫌な渦は容赦なしで私をどこか深いところに引きずりこもうとした。
 そんなことばかり考えているうちに、食欲というものをまともに感じられなくなっていった。蝉の声とかんかん照りの季節になっていたから「暑さのせい」という一言で片づけることもできるが、それだけが原因ではないという自覚もあった。
 新潟にも戦時下なりの食の苦労があり、配給だけではどうにもならないからさまざまな方法で食材を自ら調達していた、それでも充分な量を賄えているわけではなかったが。どこの家にも、後の世でいうところの家庭菜園があり、真柄さんのように畑を耕したりしない人のところに近所の人がお裾分けをしてくれた。鶏を飼う人は「卵がとれた」といっては分けてくれたし、魚は釣果ちょうかさえあれば食べることができた。私も信濃川や周辺の用水路などで釣り糸を垂れたことがある、触雷事件以来川に行くこともできなくなっていたが。
 そうやって手に入った食材はキクイさんが調理してくれたが、ある時から私は、切り身ではなくふななど頭がついた状態できょうされた魚を食べる時に、ひどく嫌な気持ちがこみ上げてくるようになった。「これを食べなければ明日にでも死んでしまう」という根拠のない焦りがあり、魚を目にしただけでその気持ちの強さに絡めとられてしまう。小骨についたわずかな脂までしゃぶり取らずにはいられず、餓鬼がきさながらの勢いで魚1匹を片づけた後は、きまって猛烈な吐き気が襲ってきて便所に駆けこむ。
 そんな風になってから、真柄さんやキクイさんと食卓をともにするのが億劫おっくうになってしまった。やはり魚を食べた後の苦しさは耐えがたかったし、なにより食べている時の自分の姿は鏡など見なくても分かるほどだった、特に食事を作ってくれるキクイさんにその姿を見せるのが申し訳なかった。
 この時の私は、調理された魚に戦争で死んでいった人の姿を重ねていたのかもしれない。
 食べなければ死んでしまう、生きなければいけない。そのために自分は魚を、つまり死んでしまった人々を犠牲にしている。自分は向こうの世界へ行くまいと、この世になんとか踏みとどまろうと躍起になっている、友や親戚や身近な人を踏みつけにして。そう認識した時に、自分がとにかく死を怖れており、そのくせ生き続けることへの罪悪感めいたものを抱いていることも自覚した。
 生きたいのか、死にたいのか。それすら答えを出せない体たらくで、無理やり答えを出そうと考えればどんどん気分が悪くなり、何も食べていないのに便所に駆けこんでしまったりもする。
 もう食べなければいい、東京にいた頃のほうがよほど食糧事情が悪かったじゃないか。今頃向こうの人間は骨と皮ばかりだろう、それ以外の街だって滅茶苦茶めちゃくちゃになって何万人も死んでいる。逃げてきた俺がのうのうと旨いものを食っているのはおかしな話なんだから、食べなければいい。そう決めてしまった。近隣の建物疎開はだいたい片がついていたし、私は日がな一日部屋で寝転がって、気が向いた時にだけほんのわずかな食べ物を口にするようになっていった。空腹感とはどんなものだったか、分からなくなる瞬間もあった。
 それとは裏腹に、学生時代に仲間と街へ繰り出した時に食べたものをやたら思い出した。食べ物の思い出なのに、それらは私に空腹感を感じさせることがなかった。きっと、食べ物ではなくその場に横溢する空気を懐かしんでいたからだろう。
 誰かが「何か旨いものでも食いに行こう」と言い出せば、他の何人かが「ああ、行こう」と応じて、授業の後に街へ繰り出す。そして学生なりの懐事情と食欲にぴったり合った店を見つけて、あるいはちょっと分不相応ぶんふそうおうとも思える店に意を決して、入ってみる。
 でも、ライスカレーでもカツレツでも焼飯でも、あるいは名前も思い出せないようなしゃれた料理でも。どこで何を食べようが、いつも「旨いなあ」と喜びながら、冗談に笑い合いながら、そして絵の話をしながらなごやかに過ごしていた。
「そっちも旨そうだな。ひと口くれよ」と言えば友は笑顔で皿を差し出し「お前のも味見させてくれよ」と言う。こちらの皿に苦手な食材をこっそり放り込む者がいれば「子どもじゃないんだから」と笑いながらも代わりに片づけてやり、自分の苦手なものを引き取ってもらう。味見の応酬おうしゅうや物々交換のために卓上が混乱することもあったが、そんな些細ささいなことでも後で思い出せば得がたい経験、とさえ思えてしまう。
 あの頃みたいに笑って食べたい。絶対に気持ち悪くなったりしないはずだ。
 いや、あんな風に笑い合いながら旨いものを食べられたのは、まだ戦争が身近じゃなかったからだ。今ここにライスカレーがあってもカツレツがあっても、旨いと思って食べることなどきっとできない。あの頃の空気はどこかに消し飛んでいるし、今の俺の周りには昔と同じ仲間もいない、ひとりは死んでしまったじゃないか。きっともう、あんな風に笑って飯を食うことなんかできない。
 あの頃の空気がどこかに消し飛んでいるのなら、自分はもう絵を描くこともないのかもしれない。その辺も含めて、諸々終わっちゃってるんだ。もういいよ。あの頃に戻ることなんてもうないんだから、自分も世の中も。
 そんな、誰に聞かせるでもない繰り言を心の中で繰り返しながら寝返りをうち、喉が渇いたら部屋から這い出して水を飲み、とやっているうちに一週間が経った。
「おい。がりがりになっちゃったな」畳に寝そべる私に、真柄さんが声をかけてきた。
横越よこごしって知ってるか、俺の妹のとつぎ先なんだけどさ。こないだ、B29が迎撃されて横越の阿賀野川あがのがわ沿いに落っこちたっていうだろう? 妹は米兵が引き回されるのを見たんだってさ。そしたら野次馬の中からのこぎりを持った婆さんが出てきて『倅の仇を討つ』って大暴れしたもんだから、憲兵どのが羽交はがめにして止めたらしいぞ」
 こんな話に気分がよくなる要素などひとつもないが、真柄さんが笑い話でも聞かせるように、極力明るい雰囲気になるように話してくれていることが分かって、なんだか申し訳なかった。それなのに「大丈夫なのか、最近まともに食ってないだろう」と言葉をかけられたらなぜか片意地を張りたい気分になり、わざと気安い口ぶりで「夏ばてですかねえ」などと返してしまった。
「いや、違うだろう。やっぱり触雷の時に後始末を手伝ってからだ、そうだろう?」
「そうですね。罰が当たっちゃったのかもしれませんね、逃げてばっかりだから」
「そんなこと言うなよ。俺は人の愚痴を聞いて『甘い』だの『けしからん』だの言う人間じゃないよ、分かるだろう? なんでもいいから、今考えてることを話してみな」
 私は、ここ数日間考えていたことを頭の中で整理できる範囲内で吐き出した後、こんなことを言った。それは、自分でもちょっと意識したことがないような言葉だった。
「俺は、青海君に出会わなければこんなに苦しんではいなかったんじゃないか、なんて気もするんです」
「なんだ。どういうことだ」
「俺自身たった今気づいたことだし、うまく説明できるかどうかはあれなんですけど。
 まず、芸校に入学して腕を磨き合って、青海君が俺に自信を持たせてくれたりして、俺自身一皮むけたような感があって。一緒じゃなかったら学生生活もあんなに楽しくなかっただろうし、卒業制作だって二席になんか入らなかった、下手すれば卒業までいられなかったかもしれません」
「幸せだったじゃないか。感謝しなくちゃな」
「でもそういうのがあったから、今の俺がこんなことになっちゃってるんじゃないか、って。なまじ楽しい時代があって、理想的な場所で過ごすことができて『さらに上を目指そう』なんて思った時期があったから。
 卒業したらすぐに青海君も発ちゃんも出征してしまって、俺は徴兵検査で丁種だったから、はなから出征することもない。『そういう立場なりの辛さもあるんだよなあ』とか『時局画は描きたくない』とかいろいろ考えちゃって。その他まあいろいろあって、新潟に来たわけですけど。
 なんていうんでしょう、青海君達と一緒に過ごした中で形づくられたこだわりだとか希望だとか、そういうのを少しでも捨てることができていれば、こんなに苦しむこともなかったのかもしれないな、って」
「そんなことを考えてると知ったら、あの子は残念がるだろうけどな。まあ今のお前がそう思ってるっていうんなら、しょうがねえよな」
「ごめんなさい。
 同級生の中には在学中に国策漫画家に転向した奴もいるし、卒業後に憧れの挿絵画家になったのに、時局を反映した絵をさんざん描かされた挙句お払い箱になった奴もいます。
 国策漫画を始めた奴はなんのこだわりも持ってなかったんですけど、お払い箱になっちゃった奴は本当に辛い思いをして、自分の描きたいものだとか考えていた将来とか、そういうのを手放して上手くやり過ごすすべを覚えたみたいで。多分そっちのほうが普通なんですよね。
 俺は馬鹿で弱いんでしょう、こだわりを手放せないし上手く立ち回ることも未だにできない。なぜかっていうと、ただ一人前の日本画家になりたい、自分の思うような絵を思うままに描きたい、それを見てもらう場所がほしいだけだから。それ以外のことなんてなにひとつ考えられない、意欲も奪われてるのにそれ以外の出口を見つけられない、そこから一歩も進んでない。だからなんですよね」
「いいじゃねえか、頼もしい。大いにやれ」
「え?」
「それをこそ守ってほしかった、ってことかもな。晴久は」
「ん」
「はは、なんでもないよ」
 私が未だに絵のことしか考えられない、そのことを真柄さんは「頼もしい」と言ったのだろうか。いや、そんなはずはない。そんな考えが通用する世の中ではないし、将来そんな方向に空気が変わっていく、つまり昔のように自由を享受できる世界になる保証などどこにもない。
「あのな。高田って知ってるか?」
「高田さんですか?」
「その調子だと知らないんだな。新潟に、高田っていう街があるんだよ。
 そこに写真家が疎開してきてるんだってさ。旭工房に所属してばりばりやってたけど逃げてきたんだ、工房がそっち・・・のほうに傾いてるのを嫌って新潟に来たんだよ」
「そんな人がいるんですか」
 旭工房といえば、第一級の報道写真家集団だ。そこもある時期から軍に気に入られて、国策目的のグラフ誌はほぼこの工房所属の写真家が絡んでいた。その写真家は悩みに悩んだ末に工房を去り、縁もゆかりもない新潟へ疎開することを選んだ。
「お前だけじゃない、ってことだ」
「会ってみたいなあ。高田ってどの辺なんですか?」
「上越だ。この辺を下越っていうのは知ってるだろう、新潟の端と端だよ。同じ県内だからって、すっと行けるような場所じゃないよ。東京から静岡に行くのと同じぐらいかかるだろうな、新潟は広いんだよ。でも、そのうちきっと行けるさ。
 どうだ、腹が減らないか? じゃがいもをふかしたのがあるんだ」
「お前だけじゃない」という言葉に心がほぐれたのだろう、その時は久々に、何も考えずにじゃがいもにかぶりついた。遠い街に疎開しているという写真家に会って話したいと思えば落ち着かない気持ちがわき起こってもくるが、その思いに固執して実行に移すほどの元気はない。ただ、久しぶりにゆったりした気持ちで食べ物を口にしている自分がいることが、嬉しかった。
 じゃがいもといえばライスカレーだな、などと思ったが、それは言わずにおいた。

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