例の応募作の原文(第3部のつもり⑦)

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 昭和19年初冬。働き盛りの男達が戦地に引っぱられていったことに加え学童疎開も始まっていたし、郊外の親類を頼って家族ぐるみで疎開する者もちらほら出始めていた。残ったのは私のような者や中高年ばかりだ。割烹着かっぽうぎにもんぺ姿のご婦人達が退役軍人や憲兵どのの先導のもと「銃後を守る」との気合十分に、どこかヒステリックに奮闘していたが、それを除けば東京の中心部であるはずの我が街・神田はひっそりと静まり返っていた。
 そんなご婦人達に「力を貸して」と言われれば私は喜んで出向き、力仕事といえるかどうか、という程度の作業を手伝ってやった。建物疎開といって、いつか来るであろう空襲に備えて建物をぶっ壊しておく、ということをそこらじゅうの街でやっていた。壁を割り戸板や窓枠などを外して、骨組だけになった家の柱に縄を結びつけて力ずくで引っぱるのは数少ない男達の仕事だったが、おばさん連中や私のような体の悪い者が端っこのほうでがらくたの片づけなど軽い仕事を手伝っていた。
 11月の末には都心を狙った初の空襲があり、神田区内もその標的になったが本屋街は無事だった。爆撃の音ぐらいは聞こえたし「家がやられた」と逃げてきた人もいたが、そんな騒ぎにひととおり対処してしまえばまた静けさが、違和感しかないような静けさが返ってきた。そのうちこの街でも建物疎開が始まるだろうし我が家の屋根を爆弾が突き破る日だって来るかもしれない、しかし私のそんな懸念(当時は誰もが考えていたことだろうが)はいまいち生々しさを欠いていた。
 家業の本屋も随分さびしい状態になっていたが、こちらも仕事だから誰も来なかろうが店を開けるしかない。客が来るかどうか、いや来るはずもない店で、私は「どうせ暇なのだから」とばかり棚から売り物の書物を引っぱり出しては読んでいた。それまで食指が動かなかった哲学書などに手をのばし、分かるかどうかの飛ばし読みとしゃれ込んだが当然頭には入らない。ただ分かることといえば、自分自身が何かに対しての答えを示してくれるものを渇望かつぼうしていることぐらいだった。
 そんな中でも例の松永老人だけはほぼ毎日店に顔を出していたが、この日は時局画の話を始めたものだから驚いた。芸術など馬鹿にしている、どころか元々読書好きだったわけでもなく私をいびるためだけに本屋に来ていた人間だ。私が一番嫌な気分になる話題だろうと踏んだのか、それともこの年寄りなりに、私と芸術談議を楽しみたいとでも思ったのか。
「おい。『四月五日の死闘』を見たか?」
「え? いや、ちょっと忙しくて見に行ってないですねえ」
 題名を聞いただけで吐き気がするようだった。時局画の急先鋒であるあの画家が、南方の某部隊全滅の報に着想を得て突貫工事の勢いで仕上げた大作だったからだ。新聞でも大きく取り上げられていたし、芸校と関わりの深い美術館で行われた展覧会で展示されていたものだからいろんな話を聞いていた。「あんたよりはよほど詳しいだろうな」と言ってやりたいところだ。
「わしは見に行ったんだ。横幅9尺はあったな。あれはすごいなあ、素晴らしかった」
 暗い色の画面いっぱいに、兵士達が入り乱れて戦ってるんだろう? あんたの趣味にぴったりはまるだろうな、俺がそんなものを喜んで見に行くと思ってるのか。
「それでな。作者の、ええと。なんて名前だったか、あの人は」
「ええと、何でしたかねえ。ちょっと度忘れしちゃいました」
 本当は忘れてなんかいないけどな。欧州画壇の中心にいた数少ない日本人画家のひとりだ、洋画だけじゃなくて日本画をやってる俺達だってみんな憧れたんだよ。帰国して、まさか軍の手先になるなんてな。あいつに裏切られた、と思ってる絵描きは多いんだよ。
「ああ、まあいいか。それでな、その画伯がなんと作品の前に立っておられたんだ。なんだか長髪にしてたんだろう、それを坊主頭にしてさっぱりしてさ、国民服姿で立っておられた」
「ああ、母校の人間から聞きました。案内役を買って出て、客に制作の意図や経緯なんかを説明していたんでしょ。聞きましたよ」
「お国のために散っていった数多あまたの魂を弔わねばならん、残された我々はさらに奮起せねばならん。4月5日に南方で散った命を無駄にしてはならんのだよ、我らはそのかたきを討つべく、米英にやり返さねばならんのだ。わしらにそう伝えるために画伯はあの絵をお描きになったのだな。わしも説明を聞かせていただいた、握手を求めたら快く応じてくださったよ」
 ふーん。鎮魂のためじゃなかったらどうするんだ? あいつは大急ぎで作品を仕上げて軍に駆け込み「こんどの展覧会に間に合うように描いた。『陸軍貸下かしさげ』のお墨つきをもらえるだろうな」と迫った。ご丁寧に記者会見までやったじゃないか、その時点で猿芝居は始まってるんだよ。その会見記事にほだされて見に行って、まんまとだまされて帰ってきちゃったんだな。馬鹿みたいだ。
「まあ、いろんな見方があるでしょうねえ」
「ああ、今日はよく喋ってくれるじゃないか。
 お前もどうせ戦地には行けない身だ。画伯は日本で、軍や新聞社から写真などを見せてもらってあの作品を描いたのだろう、お前もそうやって、お国に貢献してみてはどうだ? そうすれば戦死したというお前の同級生も喜ぶだろう、『ああ、こいつがやっとお国のためになる絵を描いてくれた。尊い仕事をしてくれた』と」
「うるさい。帰れよ」
「なに?」
「あんなもんにころっと騙される馬鹿がいるんだな、初めてお目にかかったよ。
 だいたい、俺はあんな絵を描くことがお国の役に立つなんて思ってないんだよ。死人を増やす手伝いが尊い仕事だとか、いったいどういう了見で言ってるんだ」
「なんだ。なんだ」
「いつもいつも、飽きもせずに同じことばかり言いやがって。今日はいつもと違うことを言いやがるな、さてなんの話だ、と思って聞いてやればこんどは『時局画万歳』か。馬鹿も休み休み言え、ってんだ。
 お前のごとなんか誰も聞きたくないんだよ。お前だって分かってるだろうに、なんでやめられないんだよ」
「おい。お前がそんな口を……」
「それから。戦死した俺の仲間は俺が時局画を描いて喜ぶような人間じゃない、お前なんかとは違うっていうんだ。
 俺の親友を、お前なんかと一緒くたにしやがって。これは一種の侮辱ぶじょくだな、謝ってくれよ」
「どうした」
「謝れというんだ。俺の大事な仲間を侮辱しやがって。
 謝れ! 謝れ! できないのか、この糞じじいが!!」
 これまでに浴びてきた暴言の何分の一にあたるのかは分からない。それでも、私自身が今まで言ったことのないような言葉をいつの間にか並べ立てていた。
 気がついたら、父が私の傍らまで来ていた。老いぼれは父の顔を見るなり「せっかく言ってやってるのに、このざまだ。なかなかのつらの皮だな。これもお前が甘やかしたからだ」と言い放った。父は腰を折って「もう勘弁してください」と絞り出したが、老人は意味不明な怒号を引っこめようとしない。とうとう父は「うるさい。とっととくたばっちまえ、この老いぼれが!」と怒鳴りつけ、殴るそぶりをしてみせた。
 結局はこういう反応がほしかった、ということなのだろうか。松永老人はまるで別人のような笑顔を見せ、鬼の首でも獲ったように「ああ、ああ。終わりだな。やっちまったよ、こいつは」と吐き捨てて、意気揚々と店を出ていった。これからきっとまた、他の店でも家でもお構いなしで上がりこみ、一部始終を触れ回って歩く。まったく「結構なご趣味」と申し上げる他ない。
「父さん。ごめんよ」
 老いぼれの背中が見えなくなった瞬間に我に返り、たちまち情けなさ恥ずかしさにまみれてしまった私は父に詫びた。「とうとうやっちゃったよ。いつかやるだろう、ってずっと思ってたんだ。青海のことを言われたら、もう我慢できなかった」
「なに、父さんだって同じだ。見てたじゃないか」
 父の声が妙に清々すがすがしい色を帯びていることに気づいて横顔を見ると、表情も今発した声の調子そのままに明るかった。「一旦、店を閉めよう。あの爺さんの相手をするために開けてたようなものじゃないか、向こうさんにしてみれば毒出しの場が一軒減るだけだ」
 まあどこへ行ったって邪魔者扱いされるんだ、あの御仁ごじんもそれが分かってるのにやめられない。あれは半病人だよ。へんにうきうきした調子でそう言ってから、父は私にこう告げた。
「隆一。お前はちょっと、東京を離れたほうがいい。お前がさっき言ったことは明日には近所に知れ渡ってるだろう、偉い人達の耳に入ったらどうなるか分からん。
 父さんは残って家を守るから、お前は九十九里にでも疎開して、しばらくゆっくり過ごしたらどうだ」
 その瞬間、ついさっき父に感じた頼もしさなど一気にしぼんでしまった。九十九里と聞いた私が想起するものなど一切分かっていないからこんなに誇らしげな顔をしているのだろう、私の笑顔を待っているような表情を見たら憎たらしくなってきた。
「それなら父さんが九十九里に行けばいいよ、家が心配なら俺がここに残る。俺はあんなところには行かない」
「どうした? 絵でも描きながらのんびり過ごせばいいじゃないか、『卒業制作を描いてくる』って泊りがけで行ったりしてただろう」
「それ以来、ってことだよ」
「そうか、向こうで何かあったんだな。どうした、何か言われたのか?」
「知るもんか。父さんはやっぱり甘いところがあるのかもな、あのじじいが言うこともあながち間違ってない、ってことか」
 捨て台詞とともに部屋に引っこんだが、その後すぐに、せめて「ちょっと考えさせてよ」と言っておけばいいのに、と気づき、それができなくなっている最近の自分はやはりどうかしている、とはっきり自覚した。
 馬鹿正直でお人好しな父と穏やかな母のもとに生まれ、物心つく前にこの世を去った男児ふたりの分も、と充分すぎるほどに愛情を注がれたのが私だ。しかし私が物心ついたかつかないかの頃、こんどは母が亡くなり、その後迎えた女との暮らしがあっという間に破綻はたんして以来、父は母親の役割もこなしながら、たったひとりで私を育て上げてくれた。それに加えて足のこともあるから、たしかに甘い。
 そんな父に甘えてきた私がたてつく資格などないはずだが、甘やかされた分だけ、理解不足が露呈ろていした瞬間に腹が立ってしまうのかもしれない。しかし父にしてみれば我が子が(きっと青海君との別れ以来)どうにもおかしい、ととっくに気づいていて、そのうえあの老いぼれに日ごといびられているのを見れば「九十九里に行ってみるか」と提案したくもなるだろう。これ以上の親心があるだろうか。
 まずは父に詫びなければいけない、と立ち上がったりもしたが、すぐ思い直した。詫びるとすれば、同時に九十九里行も承諾しなければいけない。それはなんとしても避けたいが、かといって東京に残りたいわけでもない。自分の意志を確認する作業を続けたら、やがてひどい我がまま者である自分の姿が見えてきた。
 でも、と思った。我がまま者なら、我がままついでに今の自分を取り巻いているものすべてから逃げてみるか。私は机の引出しからはがきを出し、思いついた文言もんごんを一気に書き上げて宛先をしつこいほどに確認した。そしてすぐに部屋を出た、もちろん投函しに行くためだ。
 父はまだ帳場にいた。閉店の決意を固めて感慨に浸ろうかというところで我が子から予想外の反発を食らい、泣きっ面に蜂といった体の背中を見たら申し訳なくなった。しかしそんな心情を逆なでするような軽過ぎる口調で詫びの言葉をかけた私は、続けてこう宣言した。
「父さん、俺は新潟に行くことにするよ。青海が世話になった人のところだ。今お願いする手紙を書いたんだ、まあ断られることはないだろうな」

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