例の応募作の原文(第2部のつもり⑧)

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 12月。私は、陽子とともに新潟へ向かう鈍行どんこう列車の車中にいた。青海君の陸軍入隊が決まり、実家を出る前に婚約者の陽子および馴染みの仲間たる私に会いたい、今手掛けている作品を見てほしいから新潟に来ないか、と彼が手紙をくれたのだ。
 今回の旅に、平澤君は同行しなかった。早くも富枝がおめでた・・・・となり、もちろん青海君に会いたいが女房をおいて旅行できる状況ではない、と返事を出したそうだ。私は出発前に平澤君と直接会い、青海君への餞別を託されていた。我々は相談し、若い者が包んであげられる程度のいくばくかの現金と画帖、鉛筆と水彩絵具、そして何十枚ものはがきを持たせてやることにした。彼がはがきを送ってくれればそこに描かれた絵を通じて当地の様子を知ることができるし(いつか出征する平澤君にとっては情報収集にもなる)、なにより絵を描いていれば、戦地での辛さもいくらか緩和されるだろうから。
 徴兵検査は毎年1回行われ、甲乙へいてい、の種別に分けられる。そのうち甲種・乙種を対象に抽選が行われ、当たった者は現役兵として翌年1月に入隊、そうでない者は補充兵といって地元に残り、赤紙が来れば引っぱられていくことになる。青海君は甲種合格となったうえに抽選に当たってしまい、平澤君は乙種合格で抽選にはずれて、赤紙が来るのを待ちつつ新婚生活をもう少し謳歌する猶予を与えられた。
 私はといえば、以前から言われていたように足のことで丁種、つまり兵役には適さず、となった。この頃は新生活の諸々が忙しかったうえに紀元二千六百年の浮かれた空気の名残があったから、例の増治の呪縛は少し弱まっていて、素直にほっとしたという気持ちを抱くことができていた。そんな中で少しずつ本屋の若旦那業にも慣れ、店が暇な時には芸校で回してもらった挿絵の仕事をこなし、たまの休みには部屋に紙本を広げて小品を手掛け、という毎日を過ごしていた。
 本来であれば、展覧会への出品も目指していただろう。しかし例の奉祝展の一種異様な雰囲気を体感し、あのような展覧会に自分の作品が並ぶことに対しては毛ほどの憧れも抱けない、と気づいてもいた。
「君の彼氏は軍事教練では隊長役を仰せつかっていたからな、軍人さんの覚えもめでたかった。絵も運動もいけるんだもの、日本画科随一の万能選手だった」
 それでも所詮は文弱、「最前線に送られるなんてことがありませんように」と祈りたいものだな、と続けたかったが、どこでどんな奴が耳をそばだてているか分からないので口には出さずにおいた。陽子もその辺は察して、「名誉なことだわ」とだけ返した。
 陽子と青海君は、彼が帰郷する前に交わした約束をここまできっちり守っていた。3日とあけずとはいわないが頻繁に手紙をやり取りし、2週に1度は電話でお互いの声を聞き、真夏の新潟と秋涼しゅうりょうの東京をともに楽しんだ。
 陽子は手紙の中から彼の近況が詳しく綴られたものを選んで持参し、予習しておきなさい、とばかり車中で私に読ませてくれた。恋人同士が交わした書簡など読まされるのは当然生まれて初めてだったが、さすがに単なる友達に読まれては困るようなことが書かれたものは、手紙の束の中にはなかった。
「本間さんの中学で日本画の臨時授業をやって、その後講師として正式に迎えられたのは聞いていたんだ。でもそれが本間さんの後釜としてだった、なんてな。結核か」
「そうなのよ。熊谷さんもね、『人が変わってしまった、単なる建築渡世とせいの男になった』って。お仕事が大変だっていうのも分かるけど」
「新たな仲間なんていうのも、そう簡単に見つからないだろうしな」
「日本画教室をやるっていうのも、結局叶わなかったでしょう?
 そういえば、ってこともないんだけど。大村先生、彼が『入隊が決まった』って手紙を出したら、餞別を送ってくださったんですって。本科1年の時に雷を落とされて以来気まずい感じになってたっていうでしょう、あなた達の卒業前に講師をお辞めになったし。
 手紙なんか出すのは怖かったけど思い切って『在学中はお世話になって』って書いて出してみたら、お手紙と日の出の絵が送られてきたっていうのよ。『君の意欲を理解しきれず感情的になってしまったのは、今思えば恥ずかしいことだ』って一文を読んだ時は泣けてきた、って。
 絵は弾除たまよけに持っていくそうよ、お手紙は彼が大事に仕舞っているだろうから読ませてもらえばいいわ」
「なんだか、切ないような変な気持ちになっちゃうな。
 なんだったんだろう、入学してから今日までの5年半って」
 我々が真正面から取り組み、泣き笑いもした5年間の学びの日々は水泡すいほうする可能性が高く、そして4月の末に帰郷してから入隊までに青海君が果たせたことは、あまりにも少なかった。時間も周囲の理解も足りず、仲間と新潟の芸術について模索する機会は奪われた。ただ思いがけず教壇に立つことになったのは、唯一の収穫といっていいだろう。
「それからね、こんな手紙もあるのよ。絵のことが書いてあるわ」陽子が私に封書を渡した時の手つきと表情で、どうもまずいことが書いてあるようだ、とすぐに分かった。

  兼務社の氏子の依頼で、奉納額を何枚も描いている。
  拝殿の中に飾られるものだし今年は紀元二千六百年だから、
  やはりそれなりのものばかりだ。
  描いているのは奉納額ばかりではない。氏子のひとりが
  「息子が空軍に入ったから何か描いてもらえないか、
  座敷に飾りたい」と言うので、俺は鷲の絵を描かせてもらった。
  知っているか、鷲というのは空軍の象徴だ。
  神社の人間なのだから、
  他の人と比べても神話などよく分かっているつもりだし、
  画題として取り上げるのも、手前みそではあるが
  俺にとっては朝飯前だ。
  仕上げた絵を奉納すれば氏子の人達が喜んでくれる、
  それは嬉しいことだしこちらも励みになる。
  しかしこれらの画題は、最近は国威発揚に結びつくものに
  なってもいる。
  知ってのとおり俺には手掛けたい画題があり、
  それを一旦東京に置いて帰り、氏子達のための絵を描いている。
  彼らを喜ばすために神々の絵を描かせてもらうのはいいが、
  人々を戦争に向かわせるために神々の絵を描くのは
  やはり何かがゆがんでいる気がしてどうしようもない。
  彩管報国という言葉に照らせば、
  神主の子としての俺が得意な画題は一番それに近いもの、
  とされてしまうのがどうにも悲しい。
  彩管報国とは、言い換えれば
  人の命を奪うのを手伝うために絵を描く、ということだ。
  なぜ、そんなことのために描かねばならないのか。

 長いトンネルを抜けた後の雪景色に驚き、列車が進むごとに雪が減っていき、そのうち日が暮れて車窓の景色も見えなくなった。汽車を降りたのは夜7時を回った頃だった。笑顔の奥になんらかの感慨をたたえた表情で青海君は出迎えてくれ、ごく自然に陽子の手荷物を預かった。その様子を見守らせてもらい、肩を並べる恋人達から少し離れて青海君の家まで歩いた、なるべくふたりの邪魔にならないように。

 お風呂をもらって体を温めてから、実家の方達と我々は、例の五人展の時以来になるお膳についた。世相が世相だから宴というわけにはいかないが、郷土の心づくしの料理とわずかな酒は、東京からお邪魔している私や陽子にとっては大変なご馳走だった。青海君の甥・雅之君は村上という城下町にある中学に進み、青海家とつき合いのある家に下宿しているそうだが今回は叔父を送るために帰省していた。姪の澄世ちゃんは女学校の1年生、例のおかっぱ頭はおさげ髪に変わっていたがおしゃまで積極的な印象はそのままだった、これから彼女の叔母であるみづいさんのような女性に成長していくのだろうか。
 陽子は青海家の女衆、特に志ゅんさんにすっかり気に入られているようだ。男勝りではっきりした性格の女性と青海君のお母さんのような良妻賢母型、両極端の女性がひとつ屋根の下で暮らしている当家だったがとてもうまくやっているようだった、陽子はもちろん前者に属するだろう。そして嫁いでくればあっという間に馴染んで、この家の一員として活躍するに違いない。
 東京の話を聞きたがる志ゅんさんの勢いが止まらず、婚約者を占拠された格好になった青海君は飲み食いするほう専門に回った。男達、それから陽子と話したそうにしていたがその機会を得られなかった澄世ちゃんにとっての会食は、少々わびしいものになった感があった。青海君のお父さんとお兄さんは会話が途切れる気配のない女連中を残して自室に戻り、私達もおかずが少しずつ残っていた皿と最後の徳利を空けて、席を立つことにした。
 朝早く家を出て日が暮れるまで鈍行列車に揺られていたのだから、さすがに疲れていた。それよりも私は、8か月ぶりに会った青海君のほうが疲れたように見えることが気がかりだった。久々に食事をともにしたのに大して盛り上がらずに終わってしまったのは彼の口数が極端に少なかったからだ、陽子と話せないなら女達の間に割って入ってもよかった。家族ならびに家族同然の存在になら、優しい青海君だってそのくらいのことはできた。それが私の知っている青海君だった。
 すぐに眠ってしまったほうがいいのかもしれない、とも思ったが、お愛想程度に「東京にいた頃と、ちょっと雰囲気が違うな」と声をかけてみた。
「陽子ちゃんが列車の中でいろいろ教えてくれたよ、悪戦苦闘してるみたいだな」
「うん。まあな」
「同志の本間さんが結核になったのは残念だったな」
「結核でも兵隊にとられるんでも、同じなんだよな。自分の思う道を進むどころか、働いたり結婚したり、普通のことさえできない。同じなんだよ」
「そんな言い方はないだろ。投げやりに聞こえるし、なにより本間さんに悪い」
「不愉快な思いをさせてしまったのなら謝るよ。
 でもさ、隆一。平尾君が言った『羨ましい』っていう俺達の気持ち、まだお前は理解できてないみたいだな」
「あ」
「そんなところだろう。お前や陽子にとって今回新潟くんだりまで来たのは、単なる物見遊山ものみゆさんの旅行だ。そんなのはお見通しだよ。
 気にしないよ。みんなそんなもんだ、分かってるから」
 謝らなければいけないのは、私のほうだった。謝るどころかどんな言葉を継げばいいのかも分からず布団を頭からかぶりたくなるほどだったが、私の口からすんなり詫びの言葉が出たとしても、青海君にしてみればそれこそ「何を今さら」だろう。
「うん。あの。うん」
「描きかけの作品があるって手紙に書いただろう、拝殿にあるから明日見てくれよ。真柄のおじさんにもまだ見せたことはないけど明日来てくれるし、お前や陽子も含めて、分かる人間からの感想がほしい。
 もう寝よう、疲れてるんじゃないのか?」
 一方的にそう言って、青海君は枕もとの明かりを消した。女達の笑い声がかすかに聞こえる中、ほんの少しおいて青海君の呼吸は寝息に変わってしまった、あっけないほどだった。なんだか取り残されたような気分になった。体は重たいのに頭はかっかしたままで、さっきの青海君の言葉を思い出せばわが身の鈍感さが恥ずかしくなり、怒りさえこみ上げてくる。
 今の俺みたいな状態を新潟弁で「寝そけた」っていうんだよな、五人展の時に教えてもらったんだ。そんなことやら他愛もないことだけを考えるようにした、それでようやく寝つくことができた。

 翌朝は寒かった。とっくに目が覚めているのになかなか布団から出ない青海君に便乗して、私も「さすが新潟の朝は違うな」などと言いながら朝寝させてもらった。陽子は女衆に合わせて早起きし、未来の花嫁らしく台所の手伝いをしていた。我々は8時半頃にようやく床を上げて遅い朝食をいただき、彼の案内で川沿いの道を歩いた。
 陽射ひざしがあり風はほとんどなかったが、それでも肌寒かった。私が持っている中で一番分厚いコートを着てきたのに用をなさないことに驚くほどだったが、地元民に言わせれば暖かい日の部類に入るそうで、雪がないのは12月の新潟としては珍しいという。
「あんな朝寝坊しても何も言わないのは隆一が来てるからじゃないんだ、神社や学校の仕事がなければ何しててもいいんだってさ。甘い親だろ?」
「幸せじゃないか、家業の手伝いをちゃんとやってるのならいいだろう。ただ、ハル自身が怠惰になり過ぎないように心がけていかないとな」
「そうだな。ああ、こんなことじゃ駄目だ、やっぱり」
 だらだらしてると陽子に愛想を尽かされるぞ、などと言いたくもなったが、そんな軽口にそぐわないことに気づいてもいた。
 少なくともご家族は分かっている、間もなく出征する身である青海君のやりきれない思い、無念さを。だから最後になるかもしれない日々に対して、家族の思いを押しつけたりはせず敢えて自由にさせているのだろう。しかし、寄り添い方がちょっと違うんじゃないか、と感じた。
 きっと青海君自身が家族に対して、もっと自分に思いを寄せてほしいと感じている。青海君のご家族は彼を放っておかずにもっと家族らしく、鬱陶しいほどの振る舞いをしてやってもいいのではないか。彼はひょっとすると、衝突でもなんでも来いだ、とさえ感じているかもしれないのだ。
 川沿いに蔵造りの大きな建物があり、煙突から煙が上がっていた。もうもうたるたくましい煙は遮る風もなく、青空を覆う薄い雲を押しのけるようにまっすぐに立ちのぼっていった。「すごい煙だな」と私が言うと青海君は「あれは湯気だよ」と答え、「あそこは味噌屋さんだ、大豆を煮てるんだよ。この辺は味噌や醤油なんかを作る蔵が多いんだ、北前船に乗せて出荷してた名残だな」と説明してくれた。そしてさらに話を変えた。
「隆一は、俺が帰ってこれると思うか、帰ってこれないと思うか」
「おかしなことを訊くなあ。帰ってこれるに決まってるだろう」
「うん、ごめんな。じゃあ、帰ってこれた時の話をしよう。
 帰ってきたら、そして戦争が終わって平和になったら、隆一と俺とで日本画壇に名を残せるように切磋琢磨しよう。金を出し合って東京のどこかにアトリエを構えるんだ、椎名町の芸術家村みたいなところが理想だな。
 それで俺は時間を作っては東京のアトリエに行って、ふたりで画架を並べて思う存分描くんだ、ついこの間までいつもそうやっていたじゃないか。そして一緒に大きな賞をとって存在感を示してやろう、『芸校日本画科38期生ここにあり』ってさ。
 そうやって俺は東京で確固たるものを築きながらもおごることなく精進を続けて、得られたものを新潟に持ち帰って広めていく。俺の力なんて微々たるものだろうけど、ほんの少しずつでもいいから変わっていけばいい、と思うんだ」
「うん、ふたりで刺激し合って、いい絵をたくさん描こう。ところで、発ちゃんはどうなる?」
「発ちゃんは、商才を発揮して大活躍するんだ。俺達が画壇で幅を利かせている頃にはあの乾物屋だっていっぱしの会社になってるだろう、そしたら発ちゃんは社長さんだ。例えば俺達が画廊なんかを作る時には、出資者になってもらう」
「ひどいなあ。でもそうなったら、一枚ぐらいは彼の作品も飾ってやらないとな」
「そりゃそうだな。
 俺達はうんと頑張らなきゃいけないんだ、家業と二足の草鞋なのはお互い様だ。隆一だって、弱気の虫を出さずに頑張らなきゃいけないんだぞ」
「なんだよ、兄貴気どりか。今のお前に言われたくないよ、お前こそ弱気になってるじゃないか。
 よし、お前が帰ってくるまでに俺はアトリエにちょうどいい部屋を見つけておくからな。絶対帰ってくるんだぞ。約束だからな」
 おそらく子どもの頃以来であろう指切りげんまんをしたが、内心は青海君が突然見せた空元気に胸が塞ぐような思いがしていた。でも我々はこの時たしかに、約束をした。どこか単調だった私の毎日に新たな目標ができた、ということでもある。そう思うことにした。
 青海君の家に戻ったら真柄さんが来ていて、陽子を含む女衆ともどもお茶を飲んでいた。
志ゅんさんは真柄さんにくどくどと繰り言を述べていた。気に入らないことや伝えたいことがあるわけでもないが、彼と顔を合わせるとどうしても何か言いたくなってしまうらしい。会えばいろんな話をしたくなるだろうし、あるいは青海君が芸校に行きたいと言い出した時のことを思い出し、そのきっかけになった真柄さんを責めたい気持ちだけがぶり返してくるのかもしれない。ここ最近はお馴染の光景になっている、とのことだった。
 私達の姿を見て、逃げるのにうってつけとばかり立ち上がった真柄さんは、私に「拝殿に晴久の絵があるっていうだろう、見に行こうか」と声をかけた。陽子も「そうしましょう」と調子を合わせ、4人で若干そそくさと拝殿へ行った。
 拝殿は広くて薄暗く、端のほうに氏子などが来た時に使うのであろう座布団が少し無造作な感じで重ねてある。対照的に、一番奥の本殿にある随神像ずいじんぞうや鏡の辺りだけはどこかから射しこむ光に照らされていて、人が使う場所と神がおわします・・・・・場所は明確に分かれているのだ、と実感させられた。
 その一角に、日本神話に出てきそうな装束を着た男達が描かれた板が立てかけてあった。兼務社から頼まれて手掛けているもので、完成後は拝殿に飾られると聞けば木の板に描かれていることにも横長の形状にも納得がいく。古事記のなんとかいう物語を題材にしたそうだが、青海君から粗筋あらすじを聞いて苦手だった国史の授業で習ったのをなんとか思い出し、陽子のほうは半分分かったかどうか、というところだった。
「早いとこ彩色を始めないと。入営までに仕上げなきゃいけないんだ」
「こういうのを何枚も描いたの?」
「うん。芸校を受ける前、親父は『こういう絵も描けば地元の人が喜んでくれる』と言ってた。東京に残ろうと思ってた頃は、そんな話をしたことなんてすっかり忘れてたけど」
「東京にいた頃の画風とは大違いだな。まあ、ハルは神主さんだもんな」
「そのうちまた、ああいうのだって描けるようになるさ。そう願いたい」
「今年は紀元二千六百年だからな、それでなおさら引き合いがあった。晴久にしてみりゃ、まさに描き入れ時、だったんだ」
 真柄さんが駄洒落を言って笑わせた後、「おい、これだけじゃないだろう」と青海君に言った。彼はその作品を忘れたふりをしていたのかもしれない、と後に思ったものだ、拝殿に初めて入った私と陽子は勝手が分からず本当に気づいていなかったのだが。
 兼務社に奉納する絵の反対側に人の背丈ほどもある絵が立てかけてあった、100号はあるだろう。
 なんの照れ隠しか、青海君は俯きながら「天岩戸あまのいわとと、それを開けて天照大神あまてらすおおみかみを外界に出した天手力男あめのたぢからおを描いたんだ。やっぱり神話を題材にしたものだけど、これは入営前にどうしても描いておきたかった。氏子に頼まれたものと同時進行だから、徹夜したりもするんだ」と言った。この大作はほんの少しの手直しをすれば完成だという。
「これはさ、展覧会に出す気はないんだ。『神社にずっと置いておいてくれ』って親父には頼んであるんだけど」
「そうね、地元の人にも見てもらえるもの。
 私、勉強しなくちゃね。このぐらい、立て板に水の調子で説明できるぐらいの素養がなきゃいけないんだわ」
 神主の女房としての気構え充分の陽子に、私は「そうだな、頑張れよ」と返した。しかし青海君は、苦笑いのような表情を浮かべただけで目を伏せた。

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