例の応募作の原文(第2部のつもり①)

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 新潟での青海あおみ君達の五人展から2年半が経った、昭和14年春。予科を含め5年間の帝都芸術学校日本画科38期生としての日々も、いよいよ最終学年の本科4年を残すのみとなっていた。
 12年7月に盧溝橋ろこうきょう事件をきっかけに日中戦争が始まり、芸術競技のことで我々をわくわくさせてくれた東京オリンピックは、13年に政府が開催権を返上してしまった。街なかからはきらびやかなネオンの光や賑やかな流行歌、それから流行のファッションに身を包んで街を闊歩かっぽする者が消え、代わりに「日本人なら贅沢ぜいたくはできないはずだ」など、つまらない標語が貼られた街頭に立つひっつめ・・・・髪の女達が千人針の協力を請うたりするようになった。街からも学校からも、我々にとって楽しみといえることの八割方が消えてしまった。
 たった一度話をさせてもらっただけだったが、洋画科の魅力的な先輩であり「この国がおかしな方向に進んで何もできなくなる前に、やりたいことを少しでも形に」という言葉のとおり中退してしまった武村さんの先見せんけんめいに、思いをせずにはいられなかった。中退後すぐに「少女モダン」で気鋭きえいの挿絵画家として台頭し始めた彼だったが、以前から思い描いていたことの何割を形にできているのか分からない。武村さんのことだからとてつもない企画などを考えていそうで、それは戦争が続く限りは実現不可能なことなのかもしれない、とも思っていた。
 しかし年末に武村さんが発表した女性像には、ファンおよび愛弟子を自認する飯村君ならずとも泣かされることになった。絵の中の女は冬らしく暖かそうな厚手のカーディガンを着こんでいたがその色はきょうざめするような暗緑色あんりょくしょく、胸には軍艦をかたどったブローチをつけ、「八紘一宇はっこういちう」と大書された懸垂幕がかかるビルヂングを前にポーズをとっていた。飯村君は「これは、描かされた武村さんも絵の中の女の子も可哀想。僕ならこんなひどい色のお洋服は着せない」と憤慨ふんがいしたものだ。
 たまの軍事教練の時にも我々芸校生への風当たりは強くなり、時には軍人の容赦ない制裁を受ける者もあった。私は例によってひとり芝生に座りスケッチをさせてもらっていたが、本科3年に進級した年に前任の関根少尉に代わって我ら文弱の性根しょうねを叩き直すべく着任した小宮中尉が担当教官になってからは、教練の様相も一変した。
 上官殿の容赦ない怒声と「すみません」と詫びる仲間の声が響く時、私はあさっての方向を向くことにしていた。「見なかったことにしておいてやるよ、こんな場面は描いたりしないから安心しろ」という私のちっぽけな優しさもあったし、もちろん見たくも描きたくもなかった。私が描きたかったのは、仲間達が教練の中でごくたまに見せてくれる姿、真剣に走ってみたり球を投げたりしている瞬間の表情や体の動きだけだ。
 しかし日を追うごとに、生徒達の萎縮した態度に小宮中尉が苛立いらだって険悪な雰囲気が増幅された末、誰かが殴られたり引き倒されたり、という流れができあがってしまった。上官殿にとっては私の存在などないも同然、サボろうと思えばいくらでもサボれたが、それでは仲間を見捨てたことになってしまうのではないか。私の中に勝手なわだかまりができて、教室では気まずい思いにさいなまれるだろう。そう思って、それまでと同じように仲間とともに電車で数駅程度の練兵場に行き、見学とスケッチを性懲しょうこりもなく続けていた。
 しかしある日の帰り際、口元にあざを作った飯村君からこう言われてしまった。「大畑君は、別に教練に来なくてもいいんじゃないの? 時間をもっと有効に使えばいいのに」
 呟いた彼の横顔、私を正視しようとしない潤んだ目。その残像はなかなか消えてくれなかった。その場にいないことも友への気遣いになるのだ、と私は気づき、次の教練から同行するのをやめた。足どり重く引き上げてきた仲間が受けた暴力の痕跡はもちろん、彼らが吐く愚痴や弱音にも触れなければいけないが、やはり私なりのちっぽけな優しさとしてそんな辛さを受け止める役回りを演じてやることにした。
 そんな中でも我々は基本的には相かわらずの調子で、世の中が日々の生活や心の中にほんの少しずつ打ち込んでくるくさびのようなものに辟易へきえきしながらも勉強や遊びに精を出していた、できる範囲で、だったが。

 本科4年に進級する直前、小塚が「学校を中退し、漫画家になる」と言い出した。彼が手掛けようとしているのは国策漫画、つまり戦意高揚のために読ませるプロパガンダ色の強い漫画だった。兵隊達の目線で、戦場暮らしの哀歓などを若干のユーモアを交えて描いた後「それでも頑張りましょう」というオチに持っていくものもあったが、小塚が目指したのは最もたちが悪いといえるもの、子ども達が小さいうちに軍国主義をすりこんでおく系統のものだった。
「半月前に『少国民画報』の編集部に原稿を持ち込んでみたんだ。そしたら封筒を開けもせずに、机の上に山積みになった書類の上にぽんと投げて『何かあったら連絡するから』って。初めて行った日はそれで終わったんだ。
 ところが、木曜日の夜だよ。下宿に電話がかかってきた、『明日来られるか』って。ほら、金曜日、俺は休んでただろう?」
「はいはい。それで?」
 私は適当に相槌あいづちを打った。相かわらずの自己陶酔的な口ぶりにあからさまにうんざりしてみせながら、青海君と大西君、そして私は仕方なく話を聞いてやっていた。この男は我々とは志向が違うことなどとっくの昔に分かっているだろうにいちいちこんな報告をしたがり、「どうだ、羨ましいだろう」と言わんばかりのにやにや笑いを見せる。羨ましがっているな、と勝手に判断し悦にる、それは小塚にとって非常に意義深いことなのだろう。
 薄っぺらい成功に憧れて芸校の門を叩いた自分を、なんとも思わないのだろうか。表現活動としての絵画に取り組む我々を馬鹿にするのはなぜなのか、こいつに「絵と向き合う」ことの意味を教えてやれる人間はどこにもいないのだろうか。小塚の相手をしていると苛立ちの後に解決しようのない疑問も次々と浮かび上がってくる、本当にどうすればいいのか分からなくなる。
 そんな我々の表情も気にせず、小塚は話を続ける。
「はじめに応対してくれた編集さんと、編集長が雁首がんくび揃えてさ。笑顔で『なかなかよかった、4月号から連載を持たせてやる』って。ああいう掌返しなら大歓迎だな」
「ふーん。『少国民画報』って、例のあれだな。子ども達の世界をどんどんつまらなくすべく奮闘している、あの雑誌だな。それで、どんな漫画を描くんだ?」
 答えはだいたい分かっている、と言わんばかりに訊ねた大西君に「くもんじゃないよ」と返し、小塚はさもさも誇らしげに説明し始めた。
 彼が持ち込んだ作品の主人公は戦地で戦う兵隊さんに応えるべく奮闘する少年・一宇くんで、他には母親と一緒に質素倹約けんやくに励む少女、軍用犬を目指す忠犬などが登場するという。漫画の素養もなく見様見真似みようみまねだったが、主題が雑誌の趣旨に合っていたことや、日本画からはかけ離れた画風に挑戦し読者にとって親しみを感じやすい仕上がりになったことが高評価につながった、と鼻高々で小塚は述べた。
「時代の流れを読んだ、ってやつだ。これから戦争はもっと本格化するはずだ、お前達だって大好きな銀座だとか浅草を歩いてれば分かるだろう、『変わってきてるなあ』って。もうちゃらちゃら遊んでられる時代じゃないんだよ。
 俺の漫画はお国のために戦う未来の勇士に読まれるんだ、銃後を守る未来の良妻賢母に読まれるんだ。彼らの心を育てるための漫画だぜ、どうだい!」
「まず、言っておくけど。お前に妬いたりなんかしないよ、俺達は」
 押し黙っていた青海君が口を開いた。
「それから。俺達は『こんな時代』と思ってるんだよ。
 こんな時代の流れに乗っかるなんて御免蒙ごめんこうむりたいし、そのために絵を使うとかいうお前の神経が理解できない、理解する値打ちがあるものかどうかも分からないけど。先生方が教えてくれる日本画を捨てて『さあ死にに行け』なんて声高に言うような連中の片棒を担ぐことを誇りに思っているお前が、とんでもない馬鹿に見えるんだ。滑稽こっけいなぐらいだよ」
「言葉とは裏腹だな、顔に書いてあるよ。結局は妬いてるんだろ?」
 妬いている妬いていない、の不毛な押し問答がほんの少し続いた後、青海君が「絵というものに対する思いが根本から違う。昔から言っているとおりだ」と告げたが、小塚は意に介する様子もなくにやにやしている。こちらの考えが相手に伝わらないことの腹立たしさにいたたまれなくなって立ち去りたくなったところで、大西君が静かに言った。
「ちょっと外へ行こうか。こんな馬鹿でも、4年間ともに学んだ同期生だ。餞別をやるよ」
 その言葉と口調ですべてを察した青海君も連れ立って、3人は教室を後にした。私は少し遅れて彼らを追った。半ば楽しみながら傍観者を気どりたい気持ちがどこかにあった、私のような奴がいれば、厚顔無恥な小塚も少なからず傷つくだろう。私がついて行った理由はそれだけだ。
 翌日、廊下に「同級生に対する暴力事件」が発生した旨を伝える紙が貼り出され、それから1週間、大西君と青海君は停学処分となった。唯一の目撃者だった私は、お説教を食らった後で無罪放免となった。彼らふたりへの理解を先生方がほんの少し示してくれ、処分後はすっかり水に流してくれたのが救いだった。
 こんな出来事は、世の中全体で見ればどこかの学校で起きたくだらない事件のひとつでしかない。おそろしいほどの激流、戦争というどす黒い渦に好きこのんで巻き込まれようとしている社会に、私の同級生ふたりは微力ながらもあらがってみた、ということにもなるかもしれないけれど。

 最終学年に進級した我々が学ぶ教室内にも、ざわついた空気は充満していた。入学当初20人いた同級生は、4年の1学期が始まった時点で小塚や予科修了時の3人を含めそれぞれの事情から計7人が去ったことで13人となり、残った者も果たして卒業式を無事迎えることができるのか、となんとなく落ち着かないままで日々を過ごしていた。
 小塚が消えてせいせいしたと思っていたら、こんどは進級してすぐに小笠原君も学校を去り、我がクラスの生徒は12人となった。専売特許の細密描写は相かわらずの切れ味を誇っていたが、大の苦手とする人物画の授業が本科3年から始まると、彼は一気に覇気を失った。それでも仲間達が「誰にも真似できないものを描けるのだから」と励まし続け、本人も我慢してなんとか持ちこたえていたが、もう限界も近いというところであの小塚が声をかけたのだ。「お前の技巧を活かせる仕事を紹介してやろうか」と。
 入学当初、小塚は小笠原君に「飛行機やら戦車やらを描く予行演習をしているのか」と訊ねた。青海君は「嫌味な奴だと思った」と言っていたが、小塚にしてみれば嫌味でもなんでもなかった。絵で金儲けできるならそれに越したことはない、ここはひとつ時流をとらえて、金になるかどうか分からぬ日本画とやらの勉強を続けている純粋ぶった奴らの鼻をあかしてやろう。小笠原ほどの実力者を出版社に紹介できれば、俺だって鼻が高い。きっとそんな御託を並べて丸めこんでしまったのだろう。そして小塚にとってこんな風に立ち回ることは正論、いや正論を通り越して正義といえるものだったのかもしれない。
 小笠原君は人物画だけでなく、人と接すること自体が少々苦手だった。小塚にその話を持ちかけられた時も、いつものくぐもった声で受け答えをしているうちに向こうの勢いに巻き込まれ、気がつけば執筆が決まってしまい、という流れだったことは容易に想像がつく。あんな絵を描くことが彼にとって本意だったかどうかは分からない、ひょっとすると彼自身が自らの意志を確認する猶予も与えられないまま描き始めたのかもしれない。彼が描く臨場感抜群の戦車や飛行機はすぐに読者の心をつかみ、数か月も経たぬうちに、小笠原君は少国民画報社の軍事雑誌「国防」の看板画家になってしまった。
 素晴らしい才能と唾棄だきすべき馬鹿が姿を消したことは我々にとって、遠くで起きているはずの戦争をやたら生々しく感じさせる出来事のひとつでもあった。玉井先生が命名した「大バンカラ軍団」の明るい覇気はすっかり消え失せ、授業の後に飲みに行く代わりに教室内での小競り合いが以前に比べれば増えていた。規制規制のオンパレードで夜の街を闊歩することが叶わなくなっていたのもあって、なおさら我々の鬱積うっせきはたまっていった。
 満二十歳になれば有無をいわさず徴兵検査を受けさせられ、召集令状が来れば戦場に送りこまれる。当時の若者はその日が来ることを避けようがない現実として受け入れていたが、官立学校に通う我々は卒業まで徴兵を免除されていた。しかしあと1年、その日が来れば徴兵免除が解かれ、同世代の仲間達と同様に最前線に立たされる日を待つことになる。そんな未来への恐怖が、我々の歯車を狂わせた最大の原因だったのだろう。
 本科3年次から、人物画の授業で、1年の時に青海君が描いた例の海の絵をひとり応援してくれた島崎先生の教えを受けることになった。そんな新しい取り組みや新たな師との出会いに対するわくわくをよすがに学生生活を送っている、といっても決して大袈裟ではなかった。やっぱりどんな時代になっても、美しい絵を、楽しい絵を描きたい。自分の絵の世界を守りたい。それは絵というものに真正面から向き合う生徒なら誰もが、当たり前に持っている思いだった。
 人物画の授業では、モデルを教室に招いてスケッチが行われる。桜の見頃を過ぎて気候もよくなり始めた頃、何回目かの授業のモデルが玉井先生の長男・利博ちゃんだった。我々が入学した年に結婚した先生夫婦は、その2年後に子宝に恵まれた。四十手前で父となった玉井先生の我が子自慢といってもいいのだろう、1歳の誕生日を終えてすぐに利博ちゃんを学校に連れてきて「どうぞこの子をモデルに」と島崎先生に差し出し、島崎先生も快諾した。以来、利博ちゃんは芸校の専属モデルとして引っぱりだことなった。思えばこの子は、校内をほんの少し明るくしてくれる存在でもあった。
 この人気モデルが椅子に座ってくれないと授業を始められないが、2歳の誕生日を過ぎわんぱくの芽が出始めた利博ちゃんにとってお母さんの膝の上でいい子にしているのは苦行も同然であり、我々にとって彼は難敵中の難敵だ。
「いや、元気に育って結構。しかし去年のようにはいかないな、どうしようか」
 頭を掻いた島崎先生に小さな声で詫びた奥さんは利博ちゃんをたしなめるが、教室は彼の好奇心を刺激するもので溢れているのだからなんの効き目もない。彼がまた新しいものを見つけてお母さんの膝を降りようとした時、大西君がこんなことを言い出した。
「先生、動いている子どもの絵を描くことにしてはどうでしょう。我々も、そういったものに挑戦してみたいのです。教室はこんなに広いんですから走り回りたくなるのは当然だ、危ないものなんて片づければいいでしょう」
 さらに彼は、画帖をたたんで鉛筆を片づけた。「今日、俺はこの子のお守り役をおおせつかります。課題は後で、記憶を頼りに仕上げることにします。
 とし坊。今日は、お兄ちゃんと一緒に遊ぼう!」
 島崎先生は「いいだろう」と言い、お母さんはまた頭を下げながらも少しほっとした表情を見せた。不満の声が聞こえてこないでもなかったが、そんな声など聞こえぬふりで教室内をざっと片づけた大西君が両手を広げると、怖いものなしの利博ちゃんはすぐに彼のもとへ駆け寄った。
 その日の授業は利博ちゃんの嬌声きょうせいと大西君の笑い声、そしてふたりがどたばた駆け回る音が続く、ちょっと異質なものになった。玉井先生が他のクラスの授業を放り出して、何度も我が子の様子を伺いに来た。
 私自身は当時まだ子どもとの接点はなかったが、その分、描く対象としての彼らに大きな魅力を感じることができた。こちらの想像を超えるものを見せてくれる、などというと大袈裟だが、無垢でてらいのない表情や動き、以前は耳障みみざわりとさえ思っていたはしゃぎ声も、接すればこちらがうきうきしてくるものに変わった。
「俺は一番いいところであの子の顔を見てたんだ。甲の1番をとってやる自信がある」
「大きく出たな」
「俺は甥っ子や姪っ子と一緒に暮らしてきたからな。だから子どもには馴染みがあるつもりだけど、まさか発ちゃんが子ども好きだったなんてな」
「うん。俺は青海のところみたいに小さい子がいる家で育った訳じゃないが、ほら、近所の兄さんの家とか、さ」
「俺の近所にもいたけど、さほど感じたことはなかったな」
「ああ。あのさ、俺、なんていえばいいんだろう」
 珍しく言葉を詰まらせながら、大西君は「俺は、いい親父になりたいんだ」と言った、くだんの近所のお兄さんが築いていたような笑いの絶えない家庭に憧れがあったのだという。権力者だった実父への反発から画家を志し、支援のすべてを断るほどの熱さがありながらも穏やかな家庭を持つことを思い描いていたのが何よりも意外だった。
「やっぱりあの子か、例の富枝ちゃんか」
「うん。そりゃそうだ」
 自由恋愛で幸せになりたい、と語ったことがあった大西君の耳が真っ赤になった。芸校仲間の集まりに連れてきたこともある富枝は二十歳になったばかり、小柄で笑い上戸じょうごの可愛らしい子だった。青海君は彼女を「えくぼの子」と呼び、「釣り合いがとれているな」と言った時には「なるほど、そういうものか」と思ったものだ。
「それから…… 俺は、卒業したら絵の道からきっぱり足を洗うと決めた」
「なんだって?」
 大西君の決意には面食らうしかなかった。小塚に指摘されたこともあるデッサンの狂いは充分に改善されていたし、コンクールも乙で終わるほうが多かったものの在学中の成長の度合いでいえば、先生のみならず我々も目を見張るほどのものがあった。なにより彼の意志の強さなら石にかじりついてでも画業に邁進まいしんするだろう、と思っていた。
「いきなりだなあ」
「いや、去年からずっと考えていたよ。もし絵ってものがなかったら俺は何をやるだろうな、って。ほら、お前達みたいに本屋だ神主だって決まったものが、俺にはないだろう?
 それでさ。『例えばどこかの店の販売員だとか営業だとか、人と関わって物を売っていくような仕事は俺に向いていそうだな、楽しく仕事できそうだなあ』って思ったんだ。そんな場面を思い描いてみて『卒業後そういう道に進むかもしれないんだ』って思ったら、なおさら描くほうに力が入った。
 卒業後のことはゆっくり考えるとして、とにかく絵のほうは卒業までにやり切る、って決めた。結婚して大黒柱になる経験だって、出征前になんとしても叶えておきたい」
「絵を描くことに未練はないのか?」
「未練が残らないように、今頑張ってるんじゃないか」
「それで子煩悩こぼんのうな父親になる、ってか。発ちゃんがそんなこと考えてたなんてなあ」
 ご祝儀をはずまなきゃな、などと軽口をたたいた私達に、大西君は言った。
「憧れだけじゃないよ。俺達だって、卒業したらいつどうなるか分からないんだ。兵隊にとられたら叶わなくなるだろう。
 その辺に関しては、俺は青海みたいな意気地なしとは違う」
「ああ、もういいよ。混ぜっ返すな」
 こんどは青海君が赤くなる番だったが、それは言うまでもなく布久子とのことだった。

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