例の応募作の原文(第3部のつもり⑨)

       24

 3月に入り、新潟は晴れる日が増えてきて日も長くなっていた。この時点でまだ佐渡島を見たことがなく、島はどの辺にあるのだろう、どんな風に見えるのか、と海を見やれば初老の先輩が「今日は、ばっかいいなぎだ」とかなんとか話しかけてくれる。昼と夜の長さがちょうど半分ずつになる彼岸の日を心待ちにし、毎日ほんの少しずつ日が長くなっていくのに比例して強まっていく明るい気持ちを職場の仲間と共有した時、ほんの少しだが新潟の人に同化したらしいことを自覚して不思議な気分になった。日の光との再会が、こんなに嬉しいものか。
 当地の人にとって、雪は美しく心おどるだけではなく「大いなる敵」という側面もある、むしろその要素のほうがはるかに強い。ゆっくりと時間が流れるうちに、大いなる敵との別れの日が、新たな季節が巡ってくる。その日が来るまで、雪国の人々は彼らの手でできる限りの戦いをし、いつか、しかし必ず来る日を待ちわびる。彼らには当たり前のことを、雪のない街から来た私はひどく新鮮なこととして受け取っていた。
 季節ごとにこうした刺激を受けていれば、少なくとも丸1年は飽きることがないのだ。返すがえすも東京にいた頃とは天と地ほどの差、どころか戦争中とは思えないほどの穏やかな暮らしを満喫させてもらっていた。こんなに穏やかなのはどこかおかしい、本当に同じ国なのか、と違和感を覚えるほどだった。
 そんなことを考えつつも相かわらずのんびりと働いていた矢先、東京大空襲が起きた。
 実家がある神田が戦火を免れたのはすぐ分かったし九十九里にいる父とも連絡が取れたが、やはり冷静ではいられなかった。新潟の街ももちろん大騒ぎになり、それまでののどかな雰囲気などどこかに消し飛んでしまった。港のほうも大混乱に陥り、仕事はしばらく休みになった。
 一週間ほどの後、街がどうにかこうにか落ち着いた頃に港での仕事は再開した。空気ががらりと変わってしまった中で通常の業務をなんとかこなし、一息ついた時に仲間達はこう噂し合った。
「まあそのうち、来るこての。空襲さ」
「ほんだのう」
「やっぱり狙われるんですかねえ。新潟も」
「そうだこてや。いっくら新潟が田舎だいうても、こんげに大きな港があるんだすけさ」
「でも、軍港じゃないんだから大丈夫じゃないですか?」
「いやいや」
 たしかに軍港ではないが今や新潟港は物流の一大拠点であり、ここがやられて満州・朝鮮航路が断たれたら国の海上交通は今度こそ麻痺する。米英が狙わないわけがない、明日にでもやって来ると考えたほうがいい。それが地元の人の、新潟港で働きここを守るのは我々だという気概きがいを持って働く男達の一致した意見だった。
 私にとっても、それはどうでもいい話ではなかった。東京から逃げてきた、出征できない存在である私を受け入れ仲間と呼んでくれている彼らに恩義めいたものを感じていたし、彼らとともに働く港は今の私にとって、新たなよりどころと呼ぶべき存在だった。
「大畑君、頼むれ。当てにしてるんだすけの」
 最年長の先輩が私の肩を叩いた。それは喜ぶべきことなのだろうが、しかし、という言葉が胸に浮かんだ。
 もし仮に「絵を描く自分」に戻れなかったら。私は東京に戻るだろうか、それ以前に東京という街は、私や疎開する人々が戻れる場所になるのだろうか。戻ったとして、戦争が終わらなかったとして。その場合の私は、東京で何かができる人間なのか。
 あるいは、新潟に留まるとしたら。ここで働き続けることはたしかに幸せなことかもしれないが、ここにいる私は果たして本当の私なのか。新潟に残るとしたらどう生きていけばいいのか、何をしていきたいのか。
 でもとりあえず今日、たった今のことをいえば。私は目の前にいる仲間と、私を受け入れてくれる仲間とともにここで働き、難局に直面したら手を携えてそれを乗り越えていかなければいけない。それ以外の選択肢などない、迷っている場合ではないし彼らに申し訳ないだろう、とも思える。
「なに、今なんか東京に帰らんねえんだすけさ」
「そうですね」
「まあ、故郷のことも心配だこてや」
「いや頑張りますよ、俺も」
 もやもやしたまま家に帰ると、真柄さんが私の胸の内を見透かすような質問をぶつけてきた。「お前はこれからどうするんだ。東京のほうは、どうするつもりだ」
「え? 神田は無事だったみたいですけど。これからどうするっていっても、今は向こうから逃げてくる人のほうが多いぐらいなのに」
「分かってるよ。今すぐの話じゃないよ」
「店はね、多分うちの親も諦めるだろうなと思うんです。港の人と今日ちょっと話して、もう東京には戻れないんじゃないかとも思いました。親は九十九里で暮らしたっていいんだし」
「お前は?」
「うーん。今は港の人達と一緒に頑張らなきゃいけないとしか思えないですね」
「その先は? 例えば、晴久の代わりに新潟で頑張ってみるとか」
「え。うーん」
 それは本当に、思い描いたこともなかった。そもそも今は芸術が必要とされている世の中ではないのだし、協力関係を築ける仲間もいない。
 なにより、それはやはり青海君がやるべきだったこと、やりたいと渇望していたことだ。その思い、というか彼の人生そのものに乗っかって「俺の新天地だ」と胸を張る私の姿を想像してみたら、なんともいえない違和感がわき起こってきた。青海君の思いを背負うということに私なりの思いがあったとしても、彼が歩むはずだった道のりをそっくりそのままなぞる、というのはやはり何かが違う気がする。
「港の仕事は楽しいかい」
「はい、お陰様で。人に恵まれたと思ってます」
「俺が紹介した仕事だからって、気を遣わなくてもいいんだからな」
「そういうのは一切ありませんよ」
「お前が、例えば美術の先生にでもなって新潟で働き続けるとして、だ」
「いや、そんないきなり」
「じゃあ港で働き続けるんでもなんでも、新潟で暮らし続けるとして、だ」
「うーん。真柄さんは俺にどうなってほしいんですか?」
「ああ、お前がかつて恋焦がれたみづいちゃんみたいな女が、この辺にいればなあ」
「質問に答えてくださいよ。それにしてもなんでそんなことを知ってるんですか、青海君が言ってたんですか?」
「学生の頃に聞かせてくれたよ。展覧会をやった時だったか」
「そうだったんですか。恋焦がれてなんかいませんからね、ちょっと憧れてただけですよ。浜名さんがいたし」
「そうそう。お前が新潟に来た日だ、キクイがお茶をれる時、手に見とれてただろう。ああ、やっぱり年上が好きなんだなあ、って思ったものだよ」
「茶化さないでくださいよ。誰か見繕みつくろって、なんて気は回していただかなくて結構ですからね。その前に真柄さんがキクイさんのことを考えてあげなきゃ」
 真柄さんはきっと、単なる気分転換か何かのためにこんな話をしたのだろうと思う、こんな話をしたからといってなにが変わるわけでもなかったから。それにしても、実家も父も無事だったとはいえ、東京が焼け野原になったのに本当に呑気のんきな話をしていたものだと思う。
 同時に、戦局が悪化し極限状態に近いという現実をいまいち実感できない空気が新潟には残っていた、ということでもある。しかし年度が替わるのと同時に、とうとうこんなこともいっていられないと思い知らされる空気が港に流れ込んできた。

 4月に入ると、軍が港湾荷役にやくのために投入した兵隊達で新潟の街は溢れかえった。彼らは曙部隊といい、港に近い寺や小学校を宿舎に使いながら港での輸送業務に従事した。太平洋側の港が壊滅したことで居場所を失った者をかき集めただけの急ごしらえの部隊らしい、という噂もあり、だからかどうか分からないがなんだかやさぐれたような、率直にいえばとにかくがらが悪い奴の寄せ集め、といった印象があった。
 連中とは街なかでも顔を合わせるようになった。戦の端っこに追いやられた者なりの鬱憤うっぷんを晴らすつもりなのか、店のものを壊してみたり女子おんなこどもに怖い思いをさせたりと、およそお国を守る身らしからぬ振る舞いをするものだから温厚な新潟の人は震え上がり「なぜ兵隊さんが治安を乱すのか」と陰口をたたいた、もちろんそんな不満をぶちまける場は井戸端会議ぐらいしかなかったのだが。
 それでも兵隊らしい兵隊はいて、本来の彼ららしい振る舞いで市民を威圧した。田舎町にまでやってきた戦時の色にとうとう染まらなければいけない、染まったふりだけでもしていればいいのだ、と観念するしかなかったが、地元民も同じことを思っていたようだ。表向きへいこら・・・・しながらも、陰では兵隊どもへの不満や怒り、戦局への不安を口にするようになった。彼らのぎすぎすした表情や言葉を見聞きするのは、少し悲しかった。
 そうこうしているうちに、市街地で建物疎開が始まった。「東京にいた頃と同じような状況になってきた」と仲間にこぼしたのが軍人の耳に入り、私の話したことに勝手な解釈が加えられて「やる気がない」などと決めつけられた末、港での事務仕事を曙部隊の隊員に奪われてしまった。東京にいた頃と同じように建物疎開の現場に出向き、がらくたの片づけなどにいそしむ羽目になった。
 信濃川の河口など港周辺では、港湾封鎖作戦に出た米英の飛行機が夜間に機雷を投下していくようになった。航行する船がそれに当たればもちろん大惨事になるから、機雷の投下と除去のいたちごっこも始まっていた。
 私にとって、新潟に来た意味などもはや一分も残っていなかった。こんな馬鹿なことがあるか、と歯噛みするしかなかったが、その分絵を描きたくてたまらなくなった。画帖のページも残り少なくなっていたが、とにかく描かずにはいられなかった。用事がなければ部屋に籠って、戸棚だろうがちゃぶ台に置いた湯呑ゆのみだろうが、とにかく目に入ったものを手当たり次第に描いていた。
 最後のページまで使いきってしまったら、消しゴムで消してそこに描けばいい。でも消しゴムがなくなったら、鉛筆がなくなったら。そんなことを思うと、真柄さんの家という小さな箱に押し込められているような気がして外の空気が恋しくなり、行く先も分からぬままに散歩を始めて曙部隊のごろつき連中と出くわし、嫌な思いをする。そんなことを繰り返すしかなくなってしまった。
 ある日、いつもの不毛な散歩を終えて家に帰ると私あての手紙が届いていた。差出人は九十九里にいる父だった。あの増治が、南方で死んだ旨を伝えてきた。
 享年18。彼は海で働きながら「お国のために活躍する」ことに憧れ続け、徴兵検査を受ける二十歳を待ちきれず17になってすぐ海軍に志願したが、学歴のことがあり門前払いを食らった。増治の海軍への憧れを知っていた親も、彼が入隊に向けて行動を起こすことを見越して進学させず「孝行息子」と喜ぶふりをしていただけだったのだが、増治本人にしてみれば進学しなかったことを悔やんだのは人生でただ一度、この時だけだっただろう。
 すぐに陸軍に志望を変えると、こちらはすんなり受かって喜び勇んで出征した。「生きても死んでも、この家に名誉をもたらすのだ」とかなんとか言っていたそうだ。
 手紙には詳しいことは書かれていなかったが、昭和19年のうちにレイテ島で亡くなっており、諸々あって戦死公報が届くのが遅れてしまったようだ、とのことだった。戦病死だったそうだが、果たしていまわ・・・きわまで、彼は軍国少年であり続けたのかどうか。神風は自分の病を吹き飛ばしてくれはしない、と悟った瞬間があったのか。
 どうだ、故郷に帰りたいと思ったか? お母さんに会いたい、と思わなかったか?
 私の心に解きようのない呪縛をかけた「憎むべき馬鹿」に向けるのではなく、戦地で散った愚かな、いや、哀れな軍国少年に向ける純粋な疑問として、そんな言葉が浮かんだ。
 例えば「あんなのはもうまっぴらだ」という言葉を彼の口から聞く日も来たかもしれない。あんな馬鹿でも、分かり合える日が来たかもしれないのだ。彼は決して悪童ではなかった、どころか純朴な、いい子だった。
 そう、増治はいい子だった。私の神経をこれでもかとばかり逆なでしたが、あれは彼なりの優しさ、心配した末の放言だった。あの頃から分かっていたじゃないか。
 今の私には、あの子ほどの優しさはない。誰かに優しさを向けることそのものが、とても苦手になってしまったようだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?