例の応募作の原文(第2部のつもり⑦)

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 卒業式の数日後、私を含む38期卒業生の上位入賞者各科3人は奨学金授与の諸手続きのために芸校に出向いた。昼前に霧雨きりさめが降ったが寒くはなく、校舎がある丘はもやに包まれていた。ふわふわするような穏やかな空気の中を、私と青海君、そして三席の平尾君はゆっくり歩いて学校に向かった。
「ついこの間卒業式を終えたばかりなのに、なんだか随分昔のことみたいだな」
 平尾君が感慨深げに言った。彼も展覧会入選を目指して制作を続けるが、しばらくは挿絵画家としても活動したいという。卒業式を終えてすぐに、家で描きためていた挿絵をたずさえて出版社巡りを始めていた。いつか来る出征の日、「僕の仕事は絵を描くことだった」と胸を張って、戦地へ赴く。それぞれの奔走は、既に始まっていた。
「それにしても平尾君、よく気持ちを切り替えられたな」
「大畑君はなんだ、優雅にモラトリアム生活を楽しんでるのか?」
「そんな顔だな。羨ましいとも思わないや」
 このふんわりした空気は、大きな節目を実感しているふたりの心情にはそぐわない、といったところだ。私はといえば、まさに春休みの真っ最中といったところだった。もちろん店の後継者としての修行を始めなければいけないが、卒業制作で大きな結果を残せたことで家業への専念を望んでいた父の心が動いた。「今後は絵の仕事があればそちらにも精を出せばいい。3月中はゆっくりしろ」と言ってくれたし、お言葉に甘えて少々怠惰な毎日を満喫させてもらっていた。
「この坂を上ると、過去に引き戻されるような気がするな。ついこの間のことなのに、それをもう過去と呼ばなきゃいけないんだ」
「本当だな」青海君も平尾君に調子を合わせる。「俺だって、故郷に帰る支度やら何やらでてんてこ舞いだ。
 俺の東京暮らしも、もうすぐ終わる。あとひと月の間、世話になった人に会っておいたり、行きたかった場所に行ってみたり」
「発ちゃんにももう1回ぐらい会っておかなきゃいけないもんな」
「そうだな。平尾君、こないだ俺と隆一で深川の新居に行ったんだ、俺達が愛の巣の最初の客だ。例の作品は座敷にでも飾るのかと思いきや、大事に仕舞っておくんだってさ」
「僕も行きたかったな。君達と一緒になって、うんと冷やかしてやりたかった。
 そうだ。帰郷組がいるうちに花見をやらないか、いつもの公園でさ」
「それはいい。俺を含めて、故郷に帰る連中にとってそれが東京での最後の思い出になるかもしれないな」
「そうか、君達には最後の思い出、か」
 ついこの間まで我々が学んだ教室に入ると既に新入生を迎える準備が始められており、自由過ぎた我ら38期生の雰囲気は消え去っていた。しかし玉井先生と島崎先生が待っている顔を見たら、すぐに我らにしか出せない空気がほんの少しだが戻ってきた、ような気がした。
 我ら3人はあらためて上位入賞のお祝いとねぎらいの言葉をもらった後、奨学金授与のための書類に必要事項を記入したり、こまごました事務手続きを行った。それから、東京暮らしの平尾君と私に回してやりたい仕事があるがどうか、との打診を受けた。関係機関の伝手で、出版物の挿絵描きの仕事を紹介できるという。平尾君の目が輝いた。
「やります!」
「大畑君はどうだ?」
「僕も、家業と両立させながらお手伝いさせていただきたいと思います」
「青海君は故郷に帰るんだったな」
「はい。奨学金は、新潟の芸術振興のために役立てようと考えています。本科1年の時に地元で合同展をやったんですが、そのうちの先輩ふたりがまだ新潟にいます。彼らと、展覧会に限らず何かできればいいな、と。
 それから実家の一室、例えば拝殿なんかで日本画教室を始めようと思うんです」
「合同展は『北越自由五人展』だったな。私は図録をもらった。自由、という言葉は封印せねばならんかもな」
 ああ、と青海君は息を吐いた。「やっぱり、それなりに時局を反映したものを制作しないといけませんね」
「そうなるだろうな。その前に君、例えば新潟の先輩ふたりが出征してしまったらどうする? もちろん君にも、等しくその可能性がある」
「もし僕ひとりが残ることになっても、日本画教室は続けるつもりです」
「君達の芸術家としての将来は、出征までの期限つきだな」
「島崎先生。あんたに言われんでも、そんなことはみんな分かっておる。そのことで夜も眠れんのだ、私は。
 それで、だ。私は43期生のことは他の先生に任せて、従軍画家に志願した。こんな世の中では、教育者としての私の毎日に喜びを見出すことができん。軍人どもと戦地に行って、軍国主義にかぶれたふりで高みの見物をしてくるつもりだ。腹を割って話せる者も、中にはいるだろう」
「先生、本気ですか? まだ利博ちゃんが」
「いくらなんでも急すぎませんか」
「悲しいが、あの子も私とは離れて幼少期を過ごすことになる。世間の子はみんなそうだ、そういう子同士で仲よく遊んで大きくなればいい。私はただ、成長をじかに見られんのが辛い」
「なんでそんな」
「私ももちろん玉井先生に翻意してもらいたいと頑張ったんだ、でももう決まってしまった。陸軍のほうは『三顧さんこの礼で迎える』と。
 それで、大畑君と平尾君に考えてほしいことがある。臨時講師として、芸校で働いてみないか? それぞれ家業との兼ね合いなどもあるが、時間と意志があれば週1度でいいから手伝ってほしい」
 平尾君はふたつ返事で引き受けた。生活もあるし、原稿持ち込みやたった今斡旋された仕事の合間に、という考え方でもいいかと彼が訊ねると、島崎先生は「構わない」と答えた。まずは週2日、平尾君は急ごしらえの先生として予科の教壇に立つことになった。
 私は「店の経営を任される身なので」と断った。興味はたしかに、どころか大いにあったが、教えることは仕事として楽し過ぎるだろう。本業を持つ身だから逆にやってはいけない、そんな気がした。

 帰り道、坂を下りながら3人で話し合った。青海君は、私が講師の仕事を引き受けなかったのを残念に思っているようだ。
「隆一は穏やかで細やかで、話も分かりやすい。先生の仕事はうってつけだと思うんだけどな」
「忙しくなり過ぎるのも、ちょっとな。挿絵描きか臨時講師か、どっちかなら調整できないこともないけど」
「やっぱり本屋さん、か」
「そのレールを外れる勇気は、さすがにないよ」
「大畑君には、芸校の心を継ぐことを念頭に置いてほしいな」
 平尾君が唐突に言った。「君は、その…… 行かずに済む可能性が高いだろう? 家だって近いんだし、常にとはいわなくても学校を見守る存在になれる。同期からそういう人間が出ると、僕達も嬉しいんだけど」
 そういう考え方もあるか、とは思ったが、やはり九十九里浜での増治との会話を思い出さずにいられなかった。
「平尾君、ごめん。自分の出征に関しての葛藤というものが、俺にはあるんだ」
「国に残る君の生活から芸校につながることが消えてしまったら、僕達もよりどころをなくしてしまう気がするんだよ」
「俺は『出征のことで葛藤がある』と言った、その言葉を無視して自分の気持ちを押しつけるのはやめてくれないか」
 青海君は「平尾君の意見に賛成する」と言った。「そういう役割を担ってくれるのが隆一だったら、俺だって安心できるよ。戦地に行っても万が一帰ってこれなくても、『隆一に学校を任せたんだから』って思える。出征を考えなきゃいけない奴は、みんなそう思ってるよ。挿絵じゃなくて講師の方を引き受ける、っていうのはどうだ」
「そうだよ、大畑君。考え直せよ。
 君の繊細な部分を刺激したのは謝らなきゃいけない。でも僕達には『君が羨ましい』という思いもあるんだ。君にこそ担ってもらいたいんだよ」
「俺じゃなくたっていいんじゃないか」
「ほら、お決まりの過小評価だ」
 ふたりはいきり立ち、さらに勝手な期待を私に押しつけた。私はただ一言「そこまで背負えないよ」と言ってやりたかった。
 戦地に行く者の思いを背負って生きていく日が来るかもしれない、それは想定済みだ。しかしやはり実感できない、どころか実感したくない事柄だ。なぜ友が死ぬことを前提に将来を考えなければいけないのか。「こっちの身にもなってくれよ」の一言以外に伝えたいことなどなかったが、彼らが言いたいことをすべて吐き出すのを黙って待つことにした。
 ふたりの熱が引いたところで、私は別の話題をねじ込んでみた。「ハル。田舎に帰るっていうけど、陽子ちゃんはどうするつもりなんだよ。今も会ってるんだろう?」
「もちろん。今、彼女をモデルに一枚描いているところだ」
「噂のカップルの恋路か、それは気になるところだね。聞かせてもらおうじゃないか」
 青海君は、いつも彼女の話をする時に見せるやに・・下がったような色と寂しそうな色、それでも変に前向きなような、なんとも複雑な色を同時に頬に浮かべた。そしてふたりの近況と、これからの展望について話し始めた。

「今回の絵は、構図があんまり、ね。こういう絵は世の中にごまんとあるわ。モデルとしても、仕上がってから観賞する身になっても、面白味っていうものがないのよね。もっと新しいものに挑戦してくれないかしら」
「評論家気どりには辟易へきえきするな。どこに出すものでもない、君の部屋にでも飾ってもらうつもりで描いてるだけだ。そういう気持ちがありがたい、って思ってほしいな」
「親切の押し売りね。嫌だわ。
 ねえ、こないだ発ちゃんの家に行った時のことを聞かせてよ」
「ああ。えーとね、向こうのご両親も交えて昼飯をご馳走になったんだけど。お義父さんはいかにも商売人らしい豪快な人で、大きな声でよく笑うんだ。発ちゃんと反りが合いそうな人だったよ、実の親子みたいだった。俺なんか『入り婿なりに肩身の狭い思いをするんじゃないか』って思ってたけど、まったくの杞憂だった。
 発ちゃんは実のお父さんのことで葛藤があって縁を切ってしまったし、お母さんは新たな縁ができた。彼の実家はなくなっちゃったけど、富枝ちゃんと出会ったことで、彼なりの安住の地を見つけたんだな。
 それで、隆一とふたりで『よかったなあ』って言いながら帰ってきた。
 え、なに?」
「発ちゃんの親御さんのことは、前にも聞いたことあるけど。それで、富枝ちゃんはどんな様子だったのよ」
「いやもう、幸せそのものだよ。笑い上戸はお父さん譲りなんだな。そこに発ちゃんがいろんなことを言ってさらに盛り上がって、ふたりでずーっと笑ってるんだ。ありゃ仲がいいなんてもんじゃない、すぐに子どもができるんじゃないか。向こうのご両親も孫の顔が見れるだろう、結構なことだ」
「ふーん。いいなあ。羨ましい」
「なんだよ。なにをそんなにいらいらしているんだよ」
「知らない」
「どうする、今日はやめておくか?」
「いいえ、続けましょう。さあ、どうぞ」
「はいはい。
 あのさ」
「なに」
「君は、ひとりで遠くに旅したことがあるか?」
「ないわよ。物騒じゃないの」
「そりゃそうだな。じゃあ、遠くに住む友達と、文通なんかは?」
「それはあるわ、雑誌の文通欄で見つけた子と。『島根の一番いい女学校にかよってる』って書いてきたわね。何年も続いたのよ」
「そうか。俺も、新潟に帰ったら手紙を出してもいいかな」
「もちろんよ。3日以上あいたら承知しないわ、日記を書くつもりで私に手紙を送って。私は毎日書くから」
「切手代が馬鹿にならないなあ、お互いに」
「自分から言っておいて、なによ」
「ごめん、でも嬉しいよ。
 あのさ、そんなことしかできないけど続けていく、っていうのはどうだろう」
「そうしましょう。たまには電話もちょうだいね。
 ああ、もっと早く言ってほしかったわ。それならいらいらせずに済んだのよ」
「そうだな、ごめん。本当に、ついさっき気づいた。
 それでさ。季節ごとに会おう、年に4回だけだけど。俺も東京に来るし、君を迎えに行って新潟に来て、一緒に何日か過ごす、っていうのはどうだ」
「いいわね。発ちゃんとか、あなたのお友達が新潟に遊びに行く時に便乗したり、ね。楽しそう。それなら長旅も安心でしょ?」
「そうだね。
 それでさ。迎えに行くっていう、あの……
 俺はそのうち兵隊にとられるだろう、それで無事に帰ってくることができたら…… その足で君を迎えに行ったとして、それが徒労に終わった、なんてことにはならないだろうか」
「なりません。なるもんですか」
「本当か」
「本当よ。信じてちょうだい、私だってあなたを信じてるんだから」
「田舎暮らしは平気か? 君は、田舎の神社に嫁いで神主の女房になるんだ」
「平気よ。あなたがそばにいてくれるんでしょ? はじめはそうならなくたって、待つことぐらいなんでもないわ」

 青海君の決断に、私と平尾君は仰天した。
「それは驚きだ」
「発ちゃんに続けとばかり、だな」
「まあ、叶うのは無事に帰ってきてからのことだけどさ。その間に世の中がどう変わっているか、想像もつかないな。
 それからもうひとつ、彼女に提案したいというか、そういうのもあるんだけど。それは実現したら大変だし、ちょっと今は言いたくない」
「そう言われると気になるものだよ、青海君。分かるだろう」
「うん、いや。ごめん。うっかり言っちゃった。まあそのうち分かるかも、いや分かっちゃいけないんだ。ああ」
「すっきりしないなあ」
 こんな話をしているうちに、また雨が降り出した。

 桜が満開になった頃、我々は約束どおり丘の上の公園で花見をやった。幹事になった平尾君は玉井先生にも声をかけてみたが、既に軍に合流した後だったそうだ。
 しかし青海君が陽子を、大西君改め平澤君が富枝を伴ってきたのをはじめ恋人や妻を連れてきた者もいたし、それぞれが気の合う仲間を誘い、結局卒業生の5割増しぐらいの人数が集まった。ぼんぼりのほのかな明かりの下で、みんなで車座になって賑やかなひと時を過ごした。青海君は、花見の翌週には帰郷した。
 4月のうちに、洋画家を中心とする十数人の画家(見事に一流どころばかりだった)が軍から委嘱いしょくされ、中国へと旅立った。また神武天皇即位二千六百年奉祝行事の一環として「紀元二千六百年奉祝芸術展」が開催された。ここでは、日本画の大家たいかひつによる富士山の絵ばかり20点が出品されていた。作者は展覧会後にこれを売却してその金で空軍に飛行機を献納する、と新聞に書いてあった。
 絵筆によって国に貢献する、すなわち戦争を肯定的に捉えるような絵をどんどん描く。彩管報国さいかんほうこくという言葉があったが、この大家は彩管報国の象徴ともいえる存在だった。
 時局画といって、戦場の風景や銃後の暮らしぶりなどを直接的に描いたものをはじめ、のちの言葉でいうところのナショナリズムにつながるものを画題に取り上げた作品が、この頃から一気に増えた。例えば例の大家のように富士山を描いたり、あるいは桜の花など国を象徴するもの、また日本神話の一場面など、後の世の人々が一見して分からないような画題でも当時を生きた我々にはすぐに「これは愛国心を刺激すべく描かれたものだ、国民の心がさらに戦争へと突き進むことを狙って描かれたものだ」と分かる。そういった絵を描いて国威発揚に一役買うのが芸術家のお役目だ、という風潮が、すでにあった。
 そういう絵をずらりと並べて、果たしてどのくらいの効果が期待できるのかは分からないし、そもそも時局画を描き散らすというのは表現者の姿勢としてどうなのか、と思わずにはいられない。しかしこれが、玉井先生の言っていた「つまらぬ世界で生きること」なのかもしれない。私達はそんな絵を大量生産することでのみ画家を名乗ることができ、そんな絵に囲まれることでようやく芸術に触れることを許されるのかもしれない。
 学校が回してくれた挿絵の仕事は卒業後すぐに始めたが、既に時局を反映したものばかりだった。展覧会に出品する作品なら自身の思いと誇りを隅々まで反映させて臨むのは当然だが、挿絵はいただいた仕事としてやることだし、(依頼主には申し訳ないが)さほどの思い入れをもって絵筆を握ってはいない。だからこなせているのだな、と思っていたが、いざ本格的な作品に取り組むとなった時、私は心から描きたいものを思い浮かべながら紙本に向き合うことができるのか。伝えたいものを思うがままに描く、それが本当の画家だとしたら、画家としての私は卒業制作を提出した時点で消え失せてしまったのではないか。
 奉祝展では諸先輩方、若手から一生お会いすることはないであろう大御所まで、名を知る人ほぼすべての作品が揃い踏みしていた。これまでは同じ展覧会に出品することなどなかった人、所属団体や志向が違う人、対立が噂される人など、網羅といえば聞こえがいいがあらゆる画家が雁首揃えて似たような画題の作品ばかりを描き上げ、広過ぎる会場を埋め尽くしていた。
 お偉いさんが「これは喜ばしいことだ」とかなんとか言ったらしいが、言い換えれば同じ志を持つ者が集まってグループを作ったり各々の志向をめぐって議論したり、あるいは己の芸術道に邁進したり。そういった権利のすべてを奪われたことにはならないか。展覧会をはしごする手間は省けるかもしれない、私にはその程度の利点しか見いだせなかった。逆になんだか気持ち悪いな、とさえ思った。
 街には「祝! 元気に朗かに」の標語と提灯の絵が躍るポスターが溢れ、美術展以外にも武道大会や観兵式などの関連行事が半年にわたって続いた。その勢いのままで秋を迎え、11月10日から内閣主催の紀元二千六百年記念行事が盛大に執り行われた。最終日の14日までは祝賀ムード一色だったが、その後、街のポスターは「祝終つおわった さあ働う!」と大書されたものに替わった。
 この日を境に、さらに戦時色は強まっていった。

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