例の応募作の原文(第2部のつもり④)

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「このたびは本当にありがとう。陽子ちゃんがいなかったらどうなってたか分からない、まだ銀座をうろうろしてただろうな」
「島崎先生お気に入りの青海君が困ってるっていうんだもの、お手伝いしないわけにはいかないでしょ」
「なんだよ、それ」
「先生自ら、そうおっしゃってたわ。とても気にかけてるのよ、気づいてなかったの?」
「うーん。認めるのは、ちょっとおこがましい気もするな。
 それでもさ、陽子ちゃんだってすぐ受け入れてくれたっていうのがさ。いくら先生が言ってるからって、そこで断ることだってできたわけだ」
「断る理由なんてないもの。ちょっと、悲観的になる癖があるの? 嫌ね」
「ああ、ごめん。たしかに俺、そういうところがあるかもしれないな。田舎者の劣等感みたいなのがやっぱり残ってるし、それになにより、華やかな銀座を描きたいなんていうのはこのご時世なら『ちょっとまずいんじゃないか』なんて言われかねないからね。後押ししてくれる人がいたこと自体、ちょっとびっくりした、っていうのもあるんだ」
「私、嬉しかったのよ。嬉しかったし、わくわくしたの。
 うちのお店を描いてもらえるのに、わくわくしない人なんていないでしょう? それに私だって、あなたや島崎先生が言うような昔の華やかな銀座が大好きだったのよ。それを一枚の絵にしようっていう人のお手伝いができるんだもの、わくわくを通り越して誇らしいくらいよ。お礼を言いたいのはこっちのほうよ」
「島崎先生も、やっぱり銀座が好きだったんだね」
「そうよ。ここだけの話だけど、奥様がうちの上顧客。先生だって今は和装できめてるけど、元はモダンボーイだったのよ。私、小学生の頃から可愛がってもらったんだから」
「そうか。だからかな、腹を割って話してみたら『こんなになんでも話したくなる人はいない』って思うようになったんだ。
 なんていうのかな、特に目上の人達の中から、こっちの考えを理解してくれているって実感できる人を見つけるのは難しいだろう? でも、俺は島崎先生と巡りあえた。本当に運がよかった、と思うよ」
「それじゃ玉井先生の立場がなくなっちゃうわねえ」
「え? 玉井先生はその、あれだ。いいんだよ。ええと、また違う感じで、俺は先生を尊敬してる。うん。
 それにしても、なんでいきなり玉井先生の名前を出すかなあ」
「ふふふ」
「はははは。意外と意地悪だな」
「なによ」
「いや、別に。
 君と喋ってると、楽しいよ。田舎者の俺はつまらないことで萎縮したり、それで味気ない思いをしたこともあったけど。君と喋ってる時はそうならないんだ」
「私が絶世の美女じゃないからでしょ? 二級品で悪うございましたね」
「二級品なんかじゃないよ」
「そう?」
「そうだよ。二級品なもんか。
 あのさ…… 君は洋画科のモデルをやるほうが多いけど。日本画のモデルをやってる時とどっちが楽しいか、なんて訊いてもいいかな」
「どっちも楽しいわよ。私は絵画や彫刻の心得なんてないけど、世間様よりはそういうものに接する機会が多い分だけ、それぞれの面白さは私なりに考えたりするのよ」
「日本画なんて格好悪い、古くさい、って思ってないかな」
「思ってません。ほら、また悲観的になってる。あなたは、うんと新しい日本画を描こうとしてるんだし」
「じゃあ、あの…… 俺のこと、どう思う?」
「はじめからそう訊けばいいのに。
 あのね、母がこんなこと言ってたわ。『あの子、いい子ねえ。まず熱心なところが素晴らしいし、誠実そうだし、謙虚だし』って。悲観的にならなきゃいいのよ、謙虚過ぎちゃうのかしらね。あなた、甲の常連なんだから」
「ありがとう。後ろ向きになるのは頑張って直さないとな。
 それでさ。君も、お母さんと同じ意見なの?」
「もちろんよ。私、好みは母譲りみたい。
 あなた、日本画科で一番素敵よ、本当よ。見た目も、それからきっと、中身も」
「ああ。こっちから言わせてくれよ。
 俺、好きになっちゃったんだ、君のことが。君さえよければ、つき合ってほしい」

 青海君がこんな幸せをつかんだのが、秋口のことだった。
 はじめのうちは、陽子が店にいない時でも洋品店を訪れ、店内の様子をスケッチしたり客層や彼らの様子などを聞き出したりしていた。その結果お母さんに「あなた、いい子ねえ」とやたら気に入られたが、次第に、陽子が店にいる時、あるいは学校近くのどこかで彼女と落ち合って、さらに時を経てモデルの仕事を終えた陽子と一緒に店を訪れるようになっていった。
 彼が陽子の店で制作を進めているのは周知のことではあったが、陽子が日本画科の授業に和服姿で訪れれば青海君はへんに誇らしげな表情で筆を走らせたし、ワンピース姿で来れば廊下を歩く彼女と目くばせしてにんまりし、すぐに何食わぬ顔を作ってみせた、とてつもなく下手くそだったが。それでみんな「ははあ、あれは」となった。
 島崎先生をはじめ、そういう関係から結婚まで至った先生が過去に何人かいた。だからモデルの子をものにすることは、我々芸校の生徒にとって先生並みのことをやってのけるという優越感あるいは羨望を生む事柄でもあった。場合によっては、あくまでも生徒同士の間でだが甲の1番以上の評価を受けることさえある。人物画の授業がない下級生のうちは一切の接点がないのだし、それは上級生の中でもごく一部の者が手にできる果実、ともいえた。
 正直なところ、やはり美人から売れていく傾向はあった。我々は「高嶺たかねの花」などとは言わず実に勇敢にぶつかっていき、そのたびに周りでは「あいつは潔く散った」だの「まさかあいつが」だのと噂し合った。彼なりの理由でそういうゲームには無縁だった青海君がいきなり主役におどり出たものだから、仲間達はみな驚いたし、以前のことを知る私や大西君などはへんに安心したものだ。
 青海君は彼女に思いを打ち明けるのと前後して構図を固め、陽子と細川洋品店の女性店員、そしてみづいさんにモデルになってもらい、ショーウインドウ越しに柔らかな光が射しこむ店内で秋の装いについて女性店員に相談する女性客ふたりの像を描き上げた。秋らしく淡い暖色を基調としていたから優しく穏やかな雰囲気が漂っていたが、一方で清潔感も感じさせた。これは青海君の人柄、素直な心情が表に出てきたからかもしれない。
 その頃大西君は、例の彼女・富枝の像で卒業制作の上位に食い込むべく奮闘していた。「例えばあの画家が描いたあんな作品を参考にこの構図で、いやいや自分が思う彼女の美しさとは何か、明るく優しくチャーミングな彼女の魅力をこの一枚に昇華させなければいけないのだ、それが活きる姿を自力で見出さなければ」と七転八倒の苦しみを味わった。その結果、庭の緑がまぶしい縁側に洋装の彼女を座らせ、逆光も取り入れて柔らかい雰囲気に仕上げてみるという構図に決まった。
 私はといえば。考えあぐねて煮詰まった末に仕方なく出した結論が、親戚が住む九十九里浜の漁村地帯の風景だった。海辺の集落にある祖父の実家の一間ひとまを借りて長逗留ながとうりゅうし、下図描きにとりかかっていた。例によって、学校側はそんな我がままも許容してくれた。

 漁師の三男坊として生まれた祖父が長じて上京し、古本屋を開いたのが我が家の始まりだ。私自身幼い頃からしょっちゅう訪れていたし祖父を知る世代もまだ健在で、互いの行き来もそこそこあった。田舎の考え方でいえば、祖父の実家が本家、我が家は東京の分家になる。しかし分家して数十年経っているのだし、私などにとっては文化圏の違う人々と無理やり交流しているような違和感があった。
 彼らはあまりきれいとは言えない訛りであけすけに話しかけ、私がスケッチに出かけずにいれば「東京の親戚が来ている」と隣近所に吹聴ふいちょうしては近所の顔馴染みを引き連れてきた。老若男女問わず、好奇心むき出しの日焼け顔が縁側に鈴なりになって、私を指さしては「ああいうの、インテリっていうんだろう」「ああ、インテリだ」などと口々に言い合う。俺は動物園の猿じゃないんだ、と思いながら、とにかく彼らとは目を合わさぬようにひっくり返って読書のふりを決めこむしかなかった。
 そんなこともあってか、九十九里浜での私は日がな一日いらいらしていた。土地柄の問題など今に始まったことではないのだから繰り言を言っても仕方ないが、田舎の人間と食事にうんざりし、それ以外のものに一切触れられない閉塞感満載の環境に毛ほどの疑問も感じない連中の坊主頭を、平手で叩きつけてやりたくなることさえあった。しかし、私自身がここでは嫌味な都会人になってしまっている自覚もあった。だからというか、いらいらはなおさら募った。
 それでも、これとて私のいらいらの芯にあるものではない、と気づいてもいた。
 題材を決める時、馴染みの浜で地元民が漁にいそしむ姿、またはその帰途だとか、困り果てて最初に思いついた安直なところに帰着したという自覚があった。どこかで見たような仕上がりになるのは想像にかたくないし仲間からもそう指摘されたが「その辺は仕方ない、むしろそのぐらいがちょうどいい」というほどの感覚だった。
 そのぐらい、いやその程度、といったほうがしっくりくるかもしれない。青海君や大西君のように、手掛けるものと私生活での喜びが合わさったような作品は私には縁がないのだ、と例によってひねた気分になってもいた。紙本に向かえば、まだ真っ白なのにそんな卑屈さが隅々まで描きこまれている錯覚があり、ひと思いに破いてやろうと立ち上がったこともあった。九十九里浜を描くと決めたことを心底後悔していたが、時期的にももう後戻りすることなどできない。
 私のいらいらを察したのか、この家の跡取り息子である増治がへんにびたような態度をとり始めた。漁や何かの帰りに写生をする私と行き違えば、画帖をのぞき込んでは変声期のかんさわるような声を張り上げて「いやあ、すげえなあ。大したもんだ」などとやたら褒める。「どのぐらいの大きさになるんだ」と訊ねてくれば「このぐらい」と手で示してやったし、芸校とはどこにあって生徒は何人いるのか、日本画以外に何を教えているのか等々、根掘り葉掘り訊かれれば自分の機嫌の許す範囲で答えてやっていた。その時の私にすれば、懇切丁寧こんせつていねいに、といってもいいほどだ。
 しかし正直なところ、私にとって彼の相手をするのはこのぐらいが限界だった。素人の薄っぺらい褒め言葉など鬱陶うっとうしいだけだし、芸校云々に至っては本心なら「お前がそんなことを聞いてどうする」の一言で片づけてやりたいところだった。相手が増治ならいくらでも嫌な感情が噴き出してくることに気づき、それはさすがに可哀想だし泊めてもらっているのに申しわけない、と思ったからつき合ってやっていただけだ。

 前年の春に尋常小学校を卒業した増治は、自分の意志で進学せず家業を手伝っていた。集落内では旧家の部類に入る家柄だし経済的な余裕もないわけではないのだから、跡取り息子にはせめて高等小学校ぐらい出ておいてほしいと考えそうなものだが、彼の親も周りの人間も学業に背を向けた彼を「孝行息子」と褒めた。増治も、褒められたものだからその選択が正解だったと思ったのだろう、喜んで荒くれ者の群れの中で働いていた。彼にしてみれば孝行でもなんでもなく、まず勉強が嫌いだった、そして幼い頃から親しんだ「働く」という行為に没頭するのが一番楽ちんだっただけなのだろう。そのくせ海軍にがれるほどの憧れを抱いていた、陸軍とは違って学歴重視であることすら知らないらしい。
 くもり空の午後、画帖を持って砂浜に行ったものの何を描くでもなくぼんやりしていたら、増治がやって来て私の隣にぺたんと座った。
「なあなあ、隆ちゃん。絵の勉強をしてる人は、その後どうなるんだ?」
「どうなる、って? ああ、卒業してからのことか。画家と名乗れるぐらいになるのはやっぱり一筋縄ではいかないから、例えば学校の美術の先生になったり本の挿絵描きになったり、絵に関係する仕事に就くよ。あるいは他の仕事をしながら絵を描いて、展覧会に出品したり。もちろん、先生なんかをやりながらそういう道を目指す人もいる。俺もそうしようと思ってるんだ、本屋を継がなきゃいけないからさ」
「ふーん。でも、飯には関係ねえよな」
「展覧会で入選したり、描いたものに値打ちがあると認められれば、絵を飯の種にできるよ。みんなそうなることを目指して頑張るんだ、卒業後も挑戦し続けることはできる」
「いや、そうじゃなくてさ。世の中に絵とかがなくても、飯が食えなくなるってことはねえだろう? 船大工がいなくなったら俺達は食えなくなるけど、絵描きがいなくなっても、俺達は食えなくなるなんてことはねえんだ。
 隆ちゃんは、あってもなくてもいいようなものを一生懸命やってるんだなあ。俺には分かんねえや」
「あのさ、増治君の周りにはいないのか? 絵や詩をかいたり、歌が上手いような奴は」
「歌が上手いのは、藤蔵とうぞうどんのところの兄ちゃんだなあ。踊りは三吉さんのうちのハナちゃんだ。ふたりがいると、祭りが盛り上がるんだ」
「それだけか」
「そうすりゃ、また明日から楽しく仕事できるだろう?」
 歌でも踊りでも、それらを学びきわめてみるという考え方もあるのだ、と彼に説明しても無駄だろう。増治が言った歌も踊りも「飯」に直結していること、農漁村で年に1度集落の者が集う祭りで自らを解放し、また辛い仕事に向かわせるための燃料のようなものだった。それとて芸術あるいは芸能と呼ぶべきものだし、学問に当てはめてみれば民俗学の研究対象といえるだろう。しかし彼にそんなことを言ったところで、どうにもならない。絵画でござい詩歌しいかでござい、あるいは化学だ国史だとインテリ風を吹かす奴を彼はきっと嫌悪している、それも進学しなかった理由なのだろう。そんな中でも、彼の理解を促す鍵になりそうなことを思いついた。
「祭りの歌でも踊りでも、人を楽しませてくれるだろう? 楽しさや満ち足りた気持ちは、生きていくうえで食べ物や寝る場所と同じぐらい重要なものなんじゃないか。
 絵を見たり詩を読んだりすれば感動する人がいるし、自分の手で作り出したもので誰かが感動してくれたら嬉しいと思って頑張る奴もいる、もちろん俺もそのひとりだ。感動できる要素が世の中にはたくさんあるし、そういうものに触れれば触れるほど、毎日の生活や人生は豊かになるだろうと思う」
 増治は何も言わず、鼻白はなしらむ、といった表情を作ってみせた。理解を促す鍵どころか、私が愛してやまないものは彼の生活および人生に一分たりとも入り込むことはできないのだ。それでも私はこの少年に理解してもらおうと躍起になって、虚しい説法を続けている。
「隆ちゃんは、戦争がひどくなっても絵を描くのか?」
「なんだって?」
「父ちゃんもじいちゃんも言ってたよ、『あの子は体格は問題ないのに、足がなあ。なんでちゃんと治しといてやらなかったのか、こういう時のためにも丈夫な体にしといてやらなきゃいけないのに』って」
「馬鹿いうな。うちの親父は近所で一番いい医者に『どうか治してやってください』って泣いて頼んでくれたんだ、今でも覚えてるよ。俺が足を怪我したのは関東大震災の時だって知ってるだろう、あの頃はもうしっちゃかめっちゃか・・・・・・・・・・で、診てもらった時は手遅れだったんだよ。それでも親父は、何度も頭を下げたんだ」
「うん。ごめん。でも出征できないかもしれないんだろ?」
「お前には関係ない」
「あのさ、即日帰郷っていうのがあるだろう? 俺の同級生の話だけど、親戚の兄ちゃんが入営したのにすぐ帰されたんだってさ。その人は虚弱だったんだ、兵役に耐えられないだろう、って。兵隊になるには強くなきゃいけないんだ、そうじゃないと迷惑がかかる」
「それで?」
「兄ちゃん、自殺しちまったんだよ。『お国の役に立てず申しわけない』って遺書書いて」
「『それで』というのは、『お前はなにが言いたいんだ』という意味だ」
「だからさ。なんで怒ってるんだよ。
 体が弱い人も可哀想だし、隆ちゃんみたいに足が悪いのも可哀想だなあ、って。お国の役に立てないんだから。いくら絵が好きだからって、戦地に行くこともできずにうちにこもってただただ描き続けるなんて、辛いだろう」
 なにより驚いたのは、増治が私に対して喧嘩を売る気もなく見下しているわけでもなく、「お国の役に立てない」私を心の底から憐れんでいることだった。
「俺は隆ちゃんのことを『非国民』なんて言わねえけどさ、親戚だから。でもさ、関係ない奴や軍人さんは言うだろう、そんなこと。大変だろうなあ、って思うよ。
 でもやっぱり、残念なのは最前線に立てねえことだな。それじゃあなんのために生まれてきたのか分かんねえや」
「君は、戦争に行きたいのか? 死ぬことが怖くないのか?」
「そりゃ怖いさ、でもそんなこと言ってらんねえだろ。
 本音を言うと、一番いいのは、兵隊さんになって新聞に載るぐらいの軍功を上げて華々しく凱旋がいせんしてさ。帰ってきたら大威張りしてやるんだ」
 こんどは私が鼻白む番だった。「もし、死んだら?」
「そりゃ嫌だけど、戦死っていうのは名誉なことなんだ。そうなったら俺のうちは『英霊の家』って大事にされるんだろ。悪くねえな、って思うよ」
 途中、怒鳴りつけてやりたくなった瞬間もあった。しかし、なにを言う気も失せた。当時大量生産されていた軍国少年、骨の髄までその思想がしみ込んでしまっている彼にはもはやうわつらで接するしかない、分かったふりをしていればいい。
 あの小塚、子ども向けの国策雑誌『少国民画報』で連載が決まったと芸校を辞めた彼の漫画は大好評で、増治達の世代なら知らない子はいないはずだ。「俺はあの作者と同級生だったんだ」と言えば変声期の子らしくかすれた金切り声をあげて喜ぶだろう、それで歓心を買うこともできるかな、と思った。それ自体、いや、そんなさもしい・・・・ことを考えてしまったこと自体が悔しかった。
 それにしても、増治はとんでもないことに気づかせてくれた。私自身、彼の親達が言うような境遇になる可能性は極めて高い。その時私は、どう生きていけばいいのか。寒々しい漁村の愚かな少年が吐いた放言は実際のところ、預言のようなものだった。
 私はあれこれ考えるのをやめた。増治は立ち上がって尻についた砂を払い、「先に帰る」と告げて歩いていった。

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