十八番 --おはこ--

いきさつ

 なっ、なんなんだ。なんでこんなに手が震えるんだ。穴水五郎はトイレの中で驚いた。大学生の時から何度となく歌っている「兄弟船」である。昨日ギターをいじっている時も、コード進行を空で確認することができたぐらいのまぎれもない十八番である。考えに考えたあげく、いちばん無難な選曲をしたのである。
 それは、五郎がようやくのことで初参加を実現させた、中学校の同級生飲み会の二次会のカラオケスナックでのことであった。


 ところで、穴水五郎とはいい名前を思いついたものである。私は、この先が名誉毀損を引き起こさないことを願うばかりである。


 五郎は前年三月、あの大地震の十日後となってしまった大同窓会「二回目の成人式」への参加を直前になって見送っていた。その大同窓会を代表幹事として取り仕切っていた男から、「五郎、今日、静かだね」との気遣いを受けていた。五郎は、自分がどうにもつまらなそうな顔をしていることを申し訳なく感じ、さらに眉間のしわを深めていることが意識され申し訳なさが増幅されるという、ここ最近は経験していなかったネガティブ思考のスパイラルにどっぷり浸かっていた。「今日は五郎と歌うために来た」と言っていた北山が「五郎の前で恥ずかしいけど、英語の曲を歌うぞ」と言うのに背を押されて、やっと歌本を取り兄弟船を選んだのである。なんとかこれで二次会に残っている一〇人ほどの同級生男女につまらない顔だけでないところを見せることができる、と思って選曲したのである。
 トイレから戻って歌うには歌ったが、まさに歌うには歌ったというところであった。その後、テーブルにあったペットボトルのコーラも終わり、水割り用の水ばかりを飲みつつ、午前三時で閉店時間をむかえた。
 運転代行を使ったり、それに便乗したりで解散していき、スナックから徒歩二分の実家に向かおうという時に、五郎の様子を気にかけていた二人の男が残っていた。一人は北山である。もう一人は、コネチカットでの大学院生生活に見切りをつけて実家に戻って以来もっとも多く会って話をしている同級生である矢部だ。盆暮れに帰った中のたいてい一日、矢部の自宅のワンフロアをなしている彼の設計事務所、兼、楽器置き場で夜明けまで焼酎を片手に語りあかすというパターンがすっかり定着している。
 矢部が五郎と北山を自分の家に誘った。しかし、五郎はそれを断った。そして、矢部をひとり帰して、実家まで徒歩五〇秒となるバス停のベンチで北山と話をし始めた。「女の子がいるところでは緊張してしまうってことなんだな。それにしても、今だにあそこまでしゃべれなくなってしまうとは、自分でも驚いた」などと言っているところで、矢部が戻ってきた。
 そして、その後かなりのもん着があった。
 五郎が二人を引き離し、結局、北山を帰らせた。そして、そこから三分ばかり、矢部の自宅の事務所まで二人で歩いていき、夜明けまでのトークセッションとなった。
 五郎は一人の同級生女子の名前をあげた。「デートに誘えねぇかなぁなんて昨日も考えたりなんかしちゃってさぁ」。しかし、彼女はその日の会に来なかったばかりか、勝手に推測していたのと違って独身でない、ということを一次会の誰かが話すところから知った。そのせいでガックリきてしまったのだと五郎は矢部に打ち明けた。


 朝になり、矢部とのトークを打ち切って実家に戻った。早起きの父母の目を避けるようにして歯を磨き、昼まで寝た。起きて昼食をとる段になっても、五郎の沈んだ気持ちは直っていなかった。平素、実家の食卓では明るく振る舞っている自覚が五郎にはあったので、自分の暗い表情に母が気をもんでいるのが手に取るように分かった。早食いの父が食事を終え無言で居間に向かった。どうにも母の気遣いの言葉には神経が逆なでされないはずがないと思っていながら、うまいごまかし方もなかなか思いつかなかった。そんな中、ふと、飲み会でうまくいかないことがあったせいで気が沈んでいるから、夕飯までは声をかけないでくれ、と頼んでみるというアイデアが浮かんだ。ついでに、名古屋に戻る前の最後になるその日の夕飯に晩酌の父とともに酒を飲むこともしない、ということも合わせて、その旨を伝えた。なかば予想していたことではあるが、母はすぐには五郎の要望を理解せず、三分とたたずに不要な言葉を投じてきた。五郎は、これにじっくり二呼吸ほど間を取ってから、腹に力を入れ落ち着きをよそおった上、必要以上に大きな声で再度の依頼をした。さすがに母もこの頼みは理解したふうをみせた。


 いつになく早く床に入ったせいもあってか、五郎は夜明け前に目をさました。昼食時以降ほとんど家族と言葉を交わさなかったおかげで、五郎の気分はある程度の落ち着きを取り戻していた。
 敗北感。
 これか。これだったのか。飲み会で気が沈んでしまったのは、自分がそこにいた同級生たちに大敗を喫したと感じたからだったのか。
 五郎には確信があった。
 その敗北感は、五郎が中学時代に持ち続けていた行動原理がもたらしたものだ。また、それは今の、四十を過ぎても専業非常勤で独り身の生計を立てながら論文書きにしがみついているという境遇にもおおいに影響を及ぼしているはずである。朝まではまだだいぶ時間もあったので、五郎は敗北感の正体をあばくべく、その行動原理に「ことば」をあてがってみることにした。


こうさつ

 中学の時、北辰テストというものがあった。県下統一の業者テストである。クラス順位、学年順位、偏差値といったものが示される。中一の最初の北辰は、小学校の学習内容からの出題ということで、英語が課されない四科目だった。五郎はその第一回のテストで、クラスで3番、学年で15番だった。このクラス順位と学年順位という数字は五郎にとって非常に興味深いものであった。小学生の時から学校の成績が十分に良いものであるという自覚はあった。しかし、それは返される到達度テストや通知表を近くの連中と見せ合って知るものであり、順位という数字を提示されるものではなかった。
 その床の中と、朝食後に実家を出てから十時間ほどを要する名古屋までの普通列車の中で頭をめぐらせたところで、この北辰テストこそが前日の敗北感のおおもとであったとの考えは確実に強さを増していった。しかし、それから四週間ほどたったところで、いま一つ、行動原理の要素として見過ごすことのできないことがあったことに気づいた。
 五郎は小学六年の途中から新たな学習塾に通い始めた。後に五郎が大学一年の夏休みに講師として始めてアルバイトをし、また、アメリカの大学院を退学して実家に戻った後、一年半ほど仕事をさせてもらった塾でもある。その塾でも、年に数回、業者テストを受けていた。そして、その塾では、業者テストの結果が出るたびに、成績上位者トップテンが廊下の壁に張り出された。五郎が生徒として通っていた当時は、中二、中三になると、ひと学年に七十人程度が在籍していた。塾を変わって業者テストを受け始めた当初から、五郎の名前はランクインすることになった。五郎はこれに学習意欲を強く刺激された。
 いや、この二つの業者テストによって火がついたのは、学習意欲というよりは、むしろ名誉欲であったと言えよう。塾のトップテン・ボードで一つでも上に名前を出したいとか。北辰テストでまずは学年順位ひと桁(けた)を目指して、できることならトップを奪いたいとか。その延長線上には、受験実績の優れている高校を経て名の通った大学に進み、父がうらやむ屋根の下での仕事についたあかつきには、誰もがうらやむように結婚して暮らすというご褒美(ほうび)が待ち受けている。
 いま振り返ると、中学生の間、五郎にはこの筋書きに疑いをかける余地がなかったようだ。五郎は、この筋書きにおける現時点の自分の位置を確認しつつ、まずは高校受験で成功すること、この目標を軸にすえて、すべての行動をこの軸にそわせて日々を過ごし、二年生、三年生へと進んでいった。北辰テストでクラス一位になる、学年でトップテンに入る。こうしたこと一つひとつの実現に五郎は快感を味わっていた。同時に、部活で取り組んでいた卓球もうまい具合に上達していき、校内の同学年の間では上位を争うようになっていた。三年生になる時に、五郎は部長に推(お)された。高校受験での成功に向けた有効な武器になると感じ、五郎は喜んでこの役を引き受けた。
 三年生の秋のある日、ここまで思い描いていた筋書きを忠実に実行していた五郎にとって、予想を超える事態が生じた。給食の準備がととのったところで、担任の先生Tが「いただきます」の前に時間を取った。このクラスから学年一位が出た、それをみんなで祝おう、牛乳で乾杯しよう、というのだ。五郎は、それが自分のことであることはまず間違いないと感じた。いくらこの学校が持つ、早稲田本庄高等学院への一名限りの指定校推薦での入学が決まった後とはいえ、あの学年一位を守り通していたIをとうとう自分がとらえたかと思うと、なんともむずがゆいようなワクワク感といくらかの驚きがあった。しかし。 。 。 しかし、である。違和感があった。名誉欲らしきものに導かれて思い描いた筋書きを実行しているというのは、まったくもって五郎の自己イメージであって、この考えを口外したことはなかった。誰にも話してはいけないと、力づくで自分を押さえつけることに精一杯だった。もはや自分でコントロールできる限界に達していたのだろう。五郎はこの違和感を、名誉欲の満足がもたらす快感の中に手放してしまった。Tにも誰にも異を唱えることはしなかった。

 冬が過ぎ、高校受験を終えた五郎は、勝った、と思った。大勝利を収めたと思っていた。
 高校の勉強は思うように進まなかった。成績はクラス45人の中で40番台だったり、三年時に受けた模擬試験では、同じ高校から受けた116人のうち114番だったということもあった。とはいえ、勉強自体をしていなかった訳ではないし、県内有数の進学校でもあったので、その成績のことをそれほど深刻にもとらえていなかった。一年浪人をして予備校に通い、父がこだわる国立大学、それも、しっかり校名にそれが刻まれている大学への入学を決めた。
 まだ勝っているつもりであったろう。
 五郎が進んだのは、教育学部の中学校教員養成課程で、専攻は英語であった。そこで触れた文法研究というものに較べると、教員採用試験の勉強はどうにも興味をもって臨めず、試験は受けたものの一次で落ち、大学院でその文法研究というものを続けることになった。一人の先生が、一年目の学年末に書いたレポートを面白がってくれた。そして、その先生から、次の夏にハワイで開催される国際学会に応募することを勧められた。アメリカ人である別の教官C先生の指導のもとに、そこから研究発表要旨を作り応募したものが選考を通った。周りの様子から、自分にはこの研究を続けていく能力があるのだと五郎は思った。そのまま研究を仕事にして食っていくのはなかなかに悪くない人生だと五郎は思っていた。
 その頃、中学生の時に思い描いていたご褒美にもありつけそうな状況であった。しかし、その後アメリカの大学院に進んだところでその相手からは離れられた。大学院も一年するところでやめてしまった。実家に戻って3ヶ月ほど何もしないでいた五郎を兄が叱りつけた。なんとかそこからはい出し、半年後には例の学習塾で仕事をさせてもらうようになった。塾長には当初、教員採用試験を目指そうと思うと言った。しかし、気持ちはまったくそちらに向かわなかった。そんな中、C先生から、学問に戻ることを考えるもいいのではないかという旨の言葉をもらった。その頃、矢部から「40までは好きなことやってみなきゃなぁ」と言われた記憶がある。そんな人の言葉に寄りすがりながら、学問の場に戻った。名古屋の大学に、大学院の博士後期課程への入学が許可された。
 それから13年が経っている。


他人より優る劣るは手放さむ
勝負相手は己のみなり


 そうか。13年か。13年なのだ。
 1986年8月の TOKYO BAY-AREA での10万人コンサートで、「13年かかってこの歌にだどり着いたような気がします。魂を込めて作りました」と紹介した上で Rockdom が披露されたのだった。
 でも、これは新たな十八番にはできないよなぁ。あんな高い声、続こうはずがない。

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