幸せのため息

超幸せな時に出る〈あのため息〉をはいたのはいつの事だろうかと、ふと考える。
アレはなかなか出るモノではない。
だからなかなか思い出せない。
たぶん子供が産まれた後で家族で近くの公園を散歩した時だっただろう。
最後の記憶はあの公園の遊具で奥さんと一緒に子供の補助をしている時だ。

あまりにも幸せな今の瞬間を、それ以外の瞬間と比べて〈今が最高に幸せな瞬間だ〉…と確信し、強烈にホッとする感じだ。
つまり、俺の場合〈それ以外〉がほとんど全ての人生を占めている事になる。

オレの場合〈それ以外の不幸せな記憶〉というネガティヴな記憶があって初めて〈最高に幸せな瞬間〉があるという事だ。

不幸という代償の価値と〈幸せのため息〉の価値は差し引きゼロだとも思う。

それくらいの価値が〈あの瞬間〉にはあった。

皆誰でも〈人生で最高に幸せだ〉という瞬間の記憶がある。
生活の中の小さな幸せもある。どちらも人には必要だと思う。

逆に〈人生で最も不幸だ〉という記憶も、〈生活の中の小さな不幸〉も必要だという事になる。

そうなると、人生で最も不幸な瞬間に〈人生で最高に幸せだ〉という記憶が誕生するという事だ。

もちろんクソな事が起こっている時に〈幸せな記憶〉を思い起こすわけはない。
意識はそっちに向かない。クソな事に気持ちはもっていかれる。
なんなら、クソな事にしか意識は向かない。
でも、意識がいかなくても意識の中には確かに〈幸せな記憶〉は誕生している。
あるにはアルのだ。

だから、意識が向かなくても、〈アルという知識〉として持っとくといいかも知れない。
不幸な時でも〈知識のたな〉に保存された記憶は手が届く。〈幸せのたな〉には手が届かないから、これを利用しない手はない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?