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当麻の記憶#11 鉄道の昔話

4条西4丁目、道道当麻愛別線沿いにある「片山運動具店」。運動用品の販売やスキーのメンテナンス、食料品や日用品の販売もしています。店主の片山巖さん(昭和18年8月20日生)は二代目で、父親の弘さんが開業しました。


片山運動具店

弘さんは片山家の三男。本家が旭川にも納めるほど大きな醤油屋(後の片山豆腐店)を営んでいたため家業を手伝っていましたが、終戦後、醤油屋をやめたことから、片山家の物置だった建物を借り受け改装し、商売を始めました。運動具店を始めたのは弘さんがスキーや登山の愛好家だったため。木の板に金具やひもを付けてスキーを作るほどの人で、その後、旭川の家具会社(山岡木材など)でスキーが製造されるようになると、自身のスキーを仕入れに行っているうちに、「うちの分も買ってきてほしい」と頼まれるようになり、スキーを中心とした運動具店としての商売を開始したそうです。これまで連載してきたとおり、
昔は地区ごとにスキー場があり、子どもたちはそこでスキーを楽しんでいました。巖さんも幼い頃は射的山でスキーに乗ったそうですが、スキー好きなお父さんに連れられて旭川市の神居山(現在のカムイスキーリンクス)にも行ったことがあるそうです。当麻駅から列車に乗り神居古潭駅で降り、徒歩で神居山まで行き、リフトなどない時代ですから何時間もかけて頂上まで登り、滑り降りたそうです。当時は長靴にスキーを履いており、斜面を滑り降りるのは非常に怖かったと振り返ります。疲れ果て当麻駅に着いた頃には辺りは真っ暗になっていたそうです。
片山運動具店の横には細い通路があり、線路を横断して駅前道路とつながっています(車輛は通行不可)。まだ馬車が走っていた時代、東や中央地区の人は4条道路を使えば市街地まで出ることができたのですが、開明や緑郷に住む人は、4条道路まで出ると遠回りになるため、この通路を使用していました。巖さんのお話によると一時期は通路沿いに交番があったそうです。今では近所の方のみが使うこの通路ですが、「昔は当麻のメイン道路だった」というお話を聞いたことがあります。開明や緑郷に住む人にとっては重要な市街地への道路だったのでしょう。


この道路が駅前のメイン道路だったらしい


片山さんの本家は地主さんでした。片山運動具店の裏に敷かれた石北線の一部も片山さん一族が所有する土地だったそうです。巖さんによると先祖が「土地を寄付するから、こちら側に鉄道を走らせてほしい」と請願をしたのだとか。当麻町史では、石北線(当時は旭遠線と呼んでいた)の敷設について、鉄道の分岐点を旭川にするか、比布にするかの争奪戦があったという記録が残されています。もし比布町に分岐点があったら当麻に鉄道は通っていませんでした。今の当麻駅があるのは片山さんのご先祖の一助があったからなのかもしれません。

鉄道が開通したことにより、当麻の歴史は大きく変わった