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当麻の記憶#12 商店街の昔話

「昔はね、そこの信号から線路までぎっしりお店が並んでいたんですよ」。そう話すのは、町のメインストリート4条道路沿いに住む五郎部キヨ子さん(昭和8年3月20日生)。キヨ子さんの子ども時代は石北線の踏切から西畑電機のある交差点まで、精米所、鉄工所、馬車屋、餅屋、豆腐屋、桶屋、飲食店、金物店、瀬戸物店…と多くの商店が軒を連ねており、キヨ子さんが平成3年まで営んでいた「五郎部商店」もその一つでした。


多くの商店が軒を連ねていた市街地


戦前から戦後にかけ、鮮魚を主に果物、野菜、食料品で商いを続けた五郎部商店。時代の移り変わりとともに人の生活も変わっていったと五郎部さんは振り返ります。戦時中は売り物がなく商売にならなかったそうで、魚も漁師さんの多くが出兵していたためか鮮魚の仕入れが全くなく販売できるのは煮干しや乾物くらい。樺太に出兵していたお父さんの代わりにお母さんが旭川の市場まで仕入れに行っていましたが、商品は全く無かったそうです。物資不足は他の店舗も同じだったようで、商店街は買い物客がいなく静まり返っていたそうです。
戦後1~2年は戦時中と同じ暮らしが続きましたが、次第に物流が戻っていったそうです。キヨ子さんが大きく変わったと感じたのは砂糖が手に入るようになったことでした。戦時中は製糖工場が軍需工場となっていたため国内の供給ができず、海外からの輸入もないため、サッカリンやズルチンという人工甘味料を使っていたそうです。終戦後はキューバから大量に輸入された砂糖が配られたそうです。経済が回復し出すと戦前は高価だったものが一般の商店に並ぶようになりました。戦前盛んだったニシン漁も復活し、出回るようになったそうです。ニシンはたくさん売れ、市街地から離れていた地区の家では箱で買っていたそうです。身欠きニシン、数の子、白子と分け、余った身は昆布巻きなどにして余すところなく食べていたそうです。学校給食が始まる前はお弁当のおかずもたくさん売れたそうです。お弁当のおかずと聞くと今のイメージでは冷凍食品などを想像しますが、昔は塩漬けにした鱒を焼いた物や卵焼きの中に梅を入れたりしたものがおかずだったのだとか。給食が始まるとお弁当のおかずになるようなものはあまり売れなくなったそうです。

お店を営んでいた頃の五郎部商店


戦後は農業も活気を取り戻しました。田植え時期には人手が足りないため出面さん(農作業の仕事の手伝いをする女性。北海道の方言のようです)を頼む農家さんが増え、五郎部商店では休憩時間のおやつを頼まれ配達もしていたそうです。農家さんは忙しい時期で買い物にも行けないので、その時に入用なものの注文も受け、届けていたそうです。長年、店番をしてきたキヨ子さん。自動車が無い時代、遠くから来る人は「ちょっと休ませて」とお店に寄り、お茶を飲み雑談を交わしてから市街地に買い出しに出向き、帰りにまた店に寄り雑談を交わしてから、必要なものを買っていったとのことです。今の時代、買い物に行くことは字のごとく“買い物をする”ことが目的ですが、昔の商店はコミュニティーの場でもあったのかもしれません。親に連れられて買い物に行くと、親と店主の雑談に付き合わされるのが日課。でも学校の帰り道、その店主さんに「ちょっと寄っていきな!」と呼び止められて、飲み物やお菓子をごちそうになった“おいしい”記憶を思い出しました。