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南平台の記憶・その12 戦後初の鉄筋コンクリートのアパート?

その10」で名前を紹介した三菱化成南平台アパートには、二棟の建物があった。

このアパートには、私が住んでいたころ、

「戦後はじめて建てられた鉄筋コンクリートのアパート」

という言い伝えがあって、住人の自慢話(?)になっていたようなのだが、これ、ほんとだったんだろうか・・・。

その真偽はともかく、社宅敷地の入り口から見て奥の方に位置する棟は、わたしが住んでいた手前の棟よりも古いことは確かだったので、もしその伝説が正しかったとしても、奥の棟のことだけをさしているに違いない。だから、わたしはその建物に住んでいた、という栄光(?)を持たない。

それにしても、ちょっと気になる話ではないか。

そこで、戦後のアパート建設事情についての「にわか」調査をしてみた。

すると、「戦後はじめて」の「鉄筋コンクリートのアパート」ということで世間的に認定されているのは、港区にあった、「都営高輪アパート」というところであるらしいことがわかってきた。

たとえば、「団地百景」というすばらしいウェブサイトがあり、ここでも、「日本住宅公団十年史」の記述を根拠に、「都営高輪アパート」を戦後はじめての鉄筋コンクリートアパートであるとしていた。


また、港区郷土資料館の、下に挙げた「資料館だより」の6ページにも、都営高輪アパートに関する記事があり、

https://www.minato-rekishi.com/pdf/shiryokandayori-076.pdf

「昭和23年5月という戦後間もない時期であるにも関わらず、RC造4階建て2棟48戸が都営高輪アパートとして竣工」「戦後初のRC造集合住宅」と紹介されている。

ということで、残念ながら、三菱化成南平台アパートが「戦後はじめて建てられた鉄筋コンクリートのアパート」というのは、住人の思い込みだったか、もしくは、「このあたりでは、はじめての」とか、「企業社宅として建てられたものとしては、はじめての」などといった、もうすこし限定的な「はじめて」だったのかもしれない。
はたまた、戦後間もない時期に建てられたことは事実だっただろうが、それがいつの間にか「はじめて」という尾ひれ伝説になってしまったのかもしれない!

でも、万が一、ということもある。三菱化成は、その後、三菱化学、三菱ケミカルホールディングス、三菱ケミカルグループ株式会社、と名前を変えているが、その三菱ケミカルグループ株式会社の総務部資料室のどこか奥深〜くに、このアパート建設の資料が残っていないとも限らない。そんなのが出てきたら、と考えると、ちょっとわくわくする。
おもしろいだけで、それがどうした、という話だが、今日の「にわか」勉強中、アパート・団地の歴史の中で、社宅アパートの研究が手薄になっているのではないか、という印象を持ったことも事実。「団地百景」ウェブでも、取り上げられているのは公営、公団のアパートばかり(多分)で、有名な軍艦島の三菱社宅を除くと、民間企業の社宅の写真はなかったようだ。つまり、全国に数えきれないほどあったはずの民間企業社宅アパートのことが、ウェブからはほとんど見えてこなかった。

なので、社宅アパートにこんな伝説ありました、ということを記すことにした次第。

次回は、その伝説のアパートの間取りのことをちょっと思い出してみようと思う。



※トップ写真は軍艦島の社宅風景。大正年間に建設された、日本における鉄筋コンクリートアパートの元祖である。


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