ブラススポーツの堅牢性について
おみそれした、と心の裡でつぶやきつづけている。何も知らぬというのに私は、カヴェコの優位性はそのデザインにあり、書き味などはそこそこといったところであろうと勝手なイメージを形成してしまっていた。カヴェコが評価されるのは殆どはファッション性の文脈においてであり、書き味はおまけ程度に語られているのではないか、と。無知のきわみである。
私自身、このブラススポーツの購入を決めたのは、お守りとしての役割を期待してのことであった。書き味のほうはそこそこ書けるのならば十分だと軽く考えていた。
ところが、このブラススポーツの書き味にはある興趣を覚えた。それは限られた本数ながら、私がこれまでに使ったどの万年筆とも重ならなかった。まだうまく言い当てることはできずにいるが、殊によると真鍮軸の重みがそこに寄与しているのかもしれない。
いうまでもなく万年筆の書き心地にはさまざまな味があり、どちらが上だなどと競うものでもない。が、そのペンで書くという体験を何とか文字にすることで、書き味が生まれる仕組みを明らかにする手掛りを得たい、といつも思うわけではない。このブラススポーツでの筆記体験の印象は、そう願わずにはいられないほどには鮮烈だったといえる。私はいま、そうした消息から当記事を書きはじめている。
キャップや首軸の接合部のネジが金属であるというのは、それだけで安心感が高まる。実際には何も問題は起きないだろうが、樹脂の場合はネジがばかになりはしまいかと一抹の不安が頭を掠めることがある。とりわけ金属と樹脂をかみ合わせるものは、後者が負けてしまうのではないかとより慎重になる。
鉄ペンであるというのも、金ペンと比べれば頓着なく扱えるという意味で安心感が高い。このブラススポーツのそういった堅牢性はありがたい。
万年筆というものは、別に恐る恐る使うわけではないのだけれども、繊細だから優しく扱わねばならないという意識は常に頭のどこかに残っている。ところが、この真鍮軸は、むろんぞんざいに扱うつもりはないし、優しく書くという点に違いはないが、注意して使わねばならないという、ともすれば萎縮につながりかねない心持からはさっぱりと解放される。
危うい綱渡りではなく、ぎりぎり精一杯でもなく、いうなれば十二畳用のエアコンを六畳に使うような余裕が気持に生まれているのだ。
ここまで、真鍮軸であるブラススポーツの堅牢性と、それが書き手にもたらす安心感について見てきたが、それがこのペンによる筆記体験のキモかと問われれば、まだ確信はない。果たしてキモはどこにあるのか、引き続き考査してみたい。
なんやかんやで、ブラススポーツの虜である。
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