きみの顔が好きだ

 小学生の頃、わたしは自分の顔が好きではなかった。両親に「団子鼻だね」「鼻はお母さんに似たら良かったのにね」「鼻の下のほくろ、高校生くらいになったら病院で取ってあげるから」と何度も言われたせいで、そこがコンプレックスになっていた。

 ほくろはそこまで大きいわけではないのだけれど、何回も言われたせいでそこだけ気になっていた。小学生のわたしは、ここの皮膚ごと切り取ればほくろも無くなるんじゃないかと思って、剃刀で何度も皮膚を切りつけ穴を開けようとしていた。今思えばこれも自傷行為のひとつだったのかもしれない。 

 中学、高校と上がるにつれて、たまに(2年にひとりとか、そのくらい)「とひろちゃんの顔すごく好き!」と言ってくれる人が現れた。
 わたしはとても嬉しかった。可愛いね、とか美人だね、と言われたとしてもこんなには嬉しくないだろう、と思うくらいに。わたしの顔の欠点も全て含めて気に入ってくれたんだ、という感じがして、認められたような気がした。
 それからだんだんと顔のコンプレックスも感じなくなってきて、未だにほくろは取っていないし、鼻だってシャドウやハイライトを入れたりチークを少しのせてみたりして、悪くないなと思っている。わたしも、たぶんわたしの顔が好きだ。


 今ではルッキズムは批判の対象になっているし、わたしも良くない概念だと考えている。世間の基準に無意識に埋もれて、その基準に合う人を綺麗だと思う。そして綺麗だから能力も高いに違いない、心も綺麗に違いない、などと無意識のレッテルを貼ってしまう。そんな自分を批判的に見る必要がある。

 きっとわたしが可愛いね、と言われてもそこまで嬉しくないのも、世間の基準値の範囲内に収まっているという意味だと受け止めてしまって、わたしのことなんて何も分かってないくせにと思ってしまうからなのだろう。


 しかし顔が好きだよ、はそれを言ってくれた人の感覚だ。ジャッジではなく、純粋な好意。だからどうしたいだとか、だからきみはこうでしょうとか、そんな裏の意味は込められていない。少なくともわたしはそう感じた。だからこそ、受け入れてもらえたんだなあと思った。顔だってわたしの一部だから。


 アイドルや俳優などに、「顔がいい」とつい言ってしまいがちだけれど、いい、というのは価値判断だ。その人固有のものに良い悪いとジャッジすることは失礼なことだろう。自分の心をときめかせたり、掴んで離さなかったり、そんな心の動きを与えてくれる人には、好きだ、という言葉を使いたいと思った。

いいなと思ったら応援しよう!