だったら産まなければ良かったじゃん

 今日も今日とて、見たくもない筈のインターネットの争いを眺めている。一種の自傷行為なのだろう。

 久しぶりに育児大変エッセイ漫画と、それに対する非難の引用RTの群れ、さらにそれらへの軽蔑のリプライ群を眺めていた。もちろん気分はよろしくない。それなのに見てしまう。精神状態がよくないのでしょう。

 こういう育児エッセイ漫画(なり、呟きなり)は、何度も言及してしまっている通り、わたしの心を掻き乱す。

 それでも確かに、「じゃあ産まなければ良かっただろww」「少しは考えろよ馬鹿なの?」みたいなリプや引用RTは良くないと思う。投稿者の気持ちを考えられていないから。そして、そんな言葉を投げつけたところで、誰も得しないから。言った人自身すら。

 わたしは、そんなに大変なら産まなければ良かったじゃん、分かってたことでしょ、と思ってしまう方だ。それも怒りとともに。それを少し深く考えてみる。そこには、親に大事にされなかったという傷つきがある。だから、育児大変なんだ、虐待しそう、という言葉そのものに、とても傷つく。傷ついて、それを自覚する前に怒りが湧く。馬鹿じゃないの、と言いたくなる。

 でも本当は、親から大切にされたかっただけなのだ。呟きや漫画を書いているひとには関係ない。きっとコメントに実際に書いてしまう人の中にも、そんなひとがいるだろう、と思う。自覚してるかは分かんないけれど。

 そしてもっと考えなくちゃいけないな、というのは、投稿したひとも、コメントを付けたひとも、結局自分のことしか考えていないよね、ということ。誰も子ども目線に立っていない(たまに子どものこと考えて、と丁寧にコメントするひとを見て安心するけど)。
 自分が大変だ、ということばかりに着目して子どもはどうだろう?ということを考えない投稿に、自分の怒りを反射的にぶつけるコメント欄。そこに子どもは不在だ。本当は子どものための育児なのに。親のための育児じゃないのに。他人のための育児じゃないのに。

 それがとても怖い。あの日見捨てられた子ども、そのうちのひとりだったわたし、そしてその中に新しく子どもが加わる。それを認識するのが怖い。その後の子どもの人生が辛いものになるかもしれないから。わかんない、わかんないよ、もちろん。幸せかもしれない。けれどそこに勝手にあの日の自分を投影して苦しんでしまう。助けなきゃ、なんてエゴが膨らむ。

 本当は、助かりたいのはわたし。もしかしたら育児エッセイを書くひと、それに批判や文句を言うひとも、助かりたいひとかもしれない。

 そして子どもは大人に比べて、助けてと言う力は弱く小さい。それなのにわたし、もしかしたらわたしたち、そんな子どもの声を無視して子どもの頭越しにやれああしろこうしろと叫んでいるだけかもしれない。

 わたしが子どもの代弁者になろうなんて、傲慢もいいところだ。でもじゃあ、誰がいま苦しんでいる子どものことを考え、助けて、救うことができるのだろう?

 なにを言いたいのか自分でもわかんなくなってきちゃった。結局、わたしは子どもの時に助けて欲しくて助けてもらえなくてそれを今でも引き摺っている、それだけが確かだ。

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